第十一話 鬼道を行く(後篇)・7
「“箱”の外はどうなっているのでしょう」
机越しに志郎は普賢に訊ねた。普賢は椅子に座ってずっとスマホゲームをしている。普賢によれば、精神統一を、ゲームをするという行為に代替させることで発揮している、ということだった。それが本当かどうかは志郎にはわからなかったが、とにかく受け入れなければならない。
「ネット情報では普通に世界が続いているね」
志郎の方を見ず、ひたすらゲームをしている。
「じゃあ、札の領域内の世界だけが終わったのでしょうか」
「さあ。地元のラジオ局も普通に放送しているよ」部屋ではラジオの生放送が流れている。「世界が終わったなら電波自体が止まってるはずだから、これは半分の方の世界がそのまま続いているという結果なんだろうね。現に音が半音になってる。いや、この場合半音とは言わないか」
沈黙。
志郎は扉を見る。
「誰も来ませんね」
「人払いの術をかけてるからね。あるいはこの校長室以外の世界が全て滅んだのかもしれないけど」
窓を見る。
「窓の外は二重世界です」
「そうだね。だからまだ織部くんが成功も失敗もしていないということだね」
「総ちゃんは、無事なんでしょうか」
「成功したら電話をもらうことになってるんだろ? まだってことは、まだわからないってことさ。あるいはリピートするけど、この校長室の外はもう“ない”のかもしれないよ」ただただゲームをしている。「でも、それを言うなら通常の現実も同じことだがね。ロンドンがいま本当に存在しているかどうかを、ロンドンの観測外にいる我々にわかる術はないのだから」
沈黙。
「僕たちは、座ってることしかできないんですね」志郎はため息を吐いた。「総ちゃんが戦ってくれてるっていうのに」
「我々だって戦っているんだよ。まあ、あるあるだけどね。周囲の人たちからは怠けているようにしか見えないけどその人はその人で精一杯生き抜いている、というのは普通だ。わたしは教師としてそういう生徒を救いたい」
「あの」
と、志郎は身を乗り出した。
「ダメだよ動いちゃ。君にとってはその椅子に座っていることが鍵をかけることの代替行為なんだから」
「先生は、なんでそんなにのんびりしてるんですか? 世界の危機だっていうのに––––」
「さっき君自身が織部くんに言ってただろ? 事態が動き出してしまった以上、もういまさら後悔だったりマイナスを考えても手遅れだ。それより楽しいことを考えて前向きに検討していかなきゃ」
「そうじゃなくて––––」
「わたしもこういった事態は未経験ではない」
志郎は普賢に興味を持った。
「先生も、普段、世界の危機と戦っているんですか?」
「世界の危機なんてものはいつどこにでもある。霊的かどうかの違いだけだ。わたしはこれまでの教員人生の中でたくさんの生徒たちの世界を救ってきたという自負はあるつもりだ」
沈黙。
「他人の、世界を救ったなんて」少し普賢を睨みつける。「傲慢な物言いに聞こえます」
「わたしが救ったのはいまのその生徒の世界であって、卒業後の彼らがどうなったのかは知らないよ。そこまで面倒は見られないし、その手段もないからね」
「それは救ったと言えるのでしょうか」
「言えると思うよ。ああ世界が平和になりました、これにて一件落着––––で済むほど世界は甘くない。古い世界が壊れ、新しい世界が作られるだけだ。その新世界でもやはり問題は発生する。それ以上でもそれ以下でもないんだ。わたしがやってきたのは、新しい世界を作る手助けをしただけで、そのあと彼らが幸せな人生を過ごしているかどうかまでは管轄外だ」
そのとき、普賢は、少しため息を吐いた。
「自殺をしたり、犯罪者になった生徒もいる」それでも変わらずゲームをする。「教師は万能ではない」
「……」
「でも君だって、失敗するかもしれないけど頑張ります、っていう教師より、大丈夫だから安心して、っていう教師の授業の方を聞きたいと思うんじゃないのかい。やっぱり自信は必要不可欠なんだよ。失敗するかもしれません、って医者に手術を任せられるかい」
「いえ。プロとしての自信が持てるように頑張りたいと思います」
「いいね。君はきっといい医者になる」
沈黙。
「いやそうじゃなくて」と、志郎は再び身を乗り出した。「僕が言ってるのは、いま、霊的に、物理的に世界が崩壊しようとしているのに、それなのにどうしてそんなにのんびりしていられるのかということです」
「言ってるだろう? 物理的だろうが精神的だろうが大した違いはない。終わるときは終わるし、始まるときは始まる。そしてわたしたちと織部くんは、いま、終わらせないように戦っている。そしてわたしたちはここで鍵をかけ続けることしかできないし、織部くんの心配をしても我々に彼のためにできることがない以上、我々は我々がいまできることをするだけだ。そのときやれることをそのときやれるだけやる––––世界を救うというのは、そういうことだよ。霊的かどうかももはや関係ない」
やれるだけのことをやれるだけやること。
「そのときのことはそのときになってみないとわからない?」
「そうだね。織部くんが失敗して、その瞬間まさに世界が終わるかもしれない。ただキリスト教かなにかの教えだったと思うけど、時間が停止するという世界の終わりもあるらしいし、終わったときは終わったことにも気づかないものかもしれないね」
そのとき、志郎のスマホが鳴り響いた。即座に反応し、画面を見る。
総一朗からの着信だった。
「総ちゃん!?」
二人の会話が始まり、普賢はゲームの指を止めた。ゲームは勝利し、次のバトルをしますか?と画面には表示されている。普賢は志郎を見て微笑んだ。
「ひとまずハッピーエンド、だね」
窓の外は穏やかな初夏の熱気に包まれている。
そのあと、志郎は校門でへとへとになった総一朗を迎え、ハイタッチをしたのち保健室へと向かった。養護教諭はいつも元気いっぱいの総一朗が憔悴しているので何事かと訊いた。そこは志郎が「精神的な問題みたいで」と言うことでそれ以上の追求を逃れた。志郎は一人、三時限目の最中の授業へ行き、総一朗の介抱をしていたと言ってことなきを得た。総一朗が気分を悪そうにしていたことをたまたま同じ授業を履修していた生徒が知っていたため、志郎はきちんと出席したことになった。
そして、何事もなく一日が始まったのだった。
夜。
「じゃあ、引っ越すということで」
「ええ……そうですわね」
と、夕映は残念そうに言った。
「いえ、私、別に発狂したとかではないんですけど。なんというか、このアパート、仕事の環境としてあまりよくないみたいで。今日そんな気になって、そしたら記事がうまく書けなくなってしまった、というか」
「そうなんですか。環境は大切ですよね」
「本当に。意欲が削がれる、というんでしょうかねえ。せっかくの幽霊屋敷なのに残念ですわ」
「幽霊がそうしたんですかね」
夕映は飛び跳ねた。
「いや、わかんないんですけど」
「いえ……そう、そうかもしれませんわ」と、夕映はため息を吐いた。「とにかく、明日の夜にはもういませんので私」
お元気で、と言って、そして夕映は去った。
部屋の中で志郎は窓を全開にし、セブンスターを吸い始めた。
「……」
この一週間で部屋に充満してしまった能力を拡散させなければならない。窓を開け、煙草を吸う。それがそうするための精神的スイッチだった。普賢がゲームに精神統一を代替させたことをヒントにした。これまではやや強引なやり方だったのだが、今後も煙草を吸うときはこのテクニックを応用することでコペルニクスに被害が及ばずに済むはずだった。一本吸い終えるころにはこの部屋は魔窟状態ではなくなっているだろう。
「……」
ふと、コペルニクスを見る。
この一週間、志郎は“世界を利用したい”という自身の願望を込めた札を書き続け、部屋は魔窟と化した。そんな部屋に毎晩やってきた夕映の願望と組み合わさって今回の事態が起こった。
それは解決したからいいとして、気になるのは、その間ずっと一緒にいたコペルニクスがいまどうなっているのかだった。むろん、コペルニクスも志郎の特殊能力の影響を受けているはずだった。
「……」
それがどのような形でコペルニクスに影響を与え、それがどのような形で世界に反映されるのかを、いまの志郎にわかる術はない。
それでも、何か面倒なことになったら。
彼女が何か厄介ごとを引き起こしたら。
そして今回のように、良かれと思ってやったことが最悪の事態を導いたとしたら。
「そのときやれることをそのときやれるだけやる」
そのとき、世界を救うことよりも、コペルニクスを救うことを、自分は選びたい。
選ばなければならない、ではない。
選びたい、と、思う。
部屋の片隅ですやすやと眠るコペルニクスは、自分が世界にとって重要な存在に変身したことを知ってか知らずか、眠りながら鼻をぴくぴくと動かしていた。




