嵐の神アクアルス
両手を広げて詠唱した春風の周囲に赤い魔法陣が生じると、魔法陣に沿ってそよ風が起きた。
足元に広がる落ち葉をふわりと持ち上げた小さな風はたちどころに渦を巻き、春風の周囲を勢いよく周りながら頭上高く立ち上った。
旋風は瞬く間に暴風になり、いつの間にか発生したたくさんの雨粒が周囲の岩や木々を打ちつけた。
虎蜂の群れにも強い風と雨粒が降りかかった。
甲高い音を立てて激しく動く虎蜂の透明な四枚羽にはほとんど撥水性がなく、雨水を吸い込んだ羽の動きはみるみる鈍くなっていった。
"よし、これで虎蜂から逃げられる!"
虎蜂たちの様子を見た春風は危機を脱する事ができると確認した。
巨大な蜂たちは懸命に飛ぼうともがいた。
しかし限界以上に濡れてしまった羽は絡まり萎れて力無く垂れ下がるともはや強風に流されるしか道はなく虎蜂たちは一匹残らず上空へ飛ばされていった。
「ハル!やったぞ!」
大木に爪を立ててしがみつきながら虎蜂の様子を見ていたマロンが叫んだ。
「もういいぞ!」
だが、春風の返事はない。
風はさらに勢いを増し、マロン、メロン、ポルポは木や岩にしがみつかないと立ってさえいられなくなった。
春風は咄嗟に唱えたこの魔法を終えるために魔法陣から外へ出ようとした。
しかし今、身体が全く言う事を聞かず魔法陣から出ることが出来なかった。
魔法は春風の体からマナを吸い続け春風はその場で思うように動けなくなっていた。
"まずい、早く魔法陣から出なければ、周囲もすべて飛ばしてしまう"
何より自分の体から無くなっていくマナの減り方が尋常ではなかった。
身動きできない春風の焦る思いをよそに暴風はさらに勢いを増した。
もはや雨とか風の域を越え、打ちつける雨粒と風は何もかもをなぎ倒し奪い去ろうとする暴力そのものと化した。
「ハル!魔法をやめろ!みんな飛ばされてしまう!」
「ハル!やりすぎ!」
ポルポやメロンの叫び声は暴風にかき消され春風の耳には届かない。
狂気の暴風は雑木林の別の道を行くアルファン達三人にも襲いかかった。
「な、なんだ?!」
アルファンたちは春風たちが逃げていった方向から吹いてきた不穏な風に振り返った。
風はどんどん大きくなり、お付きの二人は飛ばされないように木の幹にしがみついた。
しかしアルファンは強風如きに怯えて木にしがみつくなど恥ずべき事と膝を曲げ腰を落とし、手を顔にかざして風の方を見た。
「アルファン様!木に捕まってください!」
「うるさい!黙れ!俺に命令するな!」
しかし暴風はどんどん強くなり、怖くなったアルファンは仏頂面のままそそくさと二人のいる木に隠れた。
二人は出来るだけアルファンに雨風が当たらないようにとアルファンの背中を取り囲んだ。
「バカ者!そんなにくっつくな!」
「で、でも、この風は危険です!」
「そうです!おかしいですよ!いったんどこかの岩影に隠れましょう!」
「バカ者!お前たちに貴族としての誇りはないのか!たかが風に恐れをなすなど...」
アルファンは際限なく勢いが増すばかりの暴風に心の中では恐怖していたが、その怯えを悟られまいと強がって吠えた。
その時、一本の大木が飛んできて三人が隠れていた木を直撃した。
「うああっ!」
激しい衝撃音が響き、三人はしがみついていた木から吹き飛ばされ軽々と宙に浮きあがると、まるで紙屑のように飛ばされていった。
狂気の暴風によってマロンたちが捕まる木も地面から浮き上がり始めた。
「やばい!飛ばされる!」
マロンは飛び移れる場所を探したが隣の木まで移動する間に吹き飛ばされるのは明白で、今しがみついている木が吹き飛ばされないように祈るしかなかった。
友達が飛ばされてしまいそうなその時、台風の目となった魔法陣の中にいる春風の耳に声が聞こえた。
「我を呼ぶ者は誰か」
声は低く春風の腹にずんと響いた。
春風は無意識に頭上を見上げた。
そこに、大きな顔があった。
顔は雨の水で描かれた空中に浮かぶ絵のようで人の様相だったが、人相の悪さは人間の域を越えていた。
髪はゆらゆらと唸り狂い怒髪天を突き、眉はなく、吊り上がった大きな両目は顔の半分を占め、後の半分を占める口は大きく開いて吊り上がり、嘲笑っているかのようだった。
悪魔というのがいたらこんな顔なのだろうと思わせる顔で、その凶悪さに春風は怯えた。
しかしこの暴風は自分の唱えた魔法によるもので、その魔法の主はこの顔、嵐の神アクアルスに違いなかった。
春風が口に意識を集中させると、意志を込めた口は言う事を聞かない体の中にあって唯一自分の制御下になった。
春風はアクアルスの問いかけに答えた。
「俺が魔法を唱えた!もうやめてくれ!」
悪魔の顔をしたアクアルスは答えた。
「汝、我と契約せよ」
「契約ってなんだよ?!」
「強いマナを持つ人間よ。お前のマナを我に捧げよ。さすれば汝に我の力を使う事を許そう」




