多くの思い出と共に
鏡に映った自分の髪を何度も整える。五回ほど繰り返したとき、携帯のアラームが鳴った。
約束の十分前に設定をしていたのだ。アラームを解除し、ピンクのショルダーに手を伸ばす。
部屋を出ると親に声をかける。
母親はあのバレンタインの日以降今まで以上に先輩の事を気に入ったようで、先輩と遊びに行くと言うと笑顔で送り出してくれた。
高校も春休みに入っており、どうせならと人の少ない平日に遊びに行く事になったのだ。
玄関の前で足を止め、深呼吸をする。ドアを開けると長身の男性の姿が目に入ってくる。
出会ったのは今から一年くらい前で、一緒に始めて遊びに出かけたのが十一ヶ月前。
それから幾度となく一緒に過ごす時間はあったが、彼と一緒の時間に慣れることはなかった。 秋以降は専らベランダで会うことがほとんどだった。だが、そんな些細な時間もわたしを満たしてくれていた。
「おはようございます」
彼は軽く会釈する。そして、わたしの髪の毛に軽く触れた。
「髪の毛、昔に比べると伸びたな」
「髪の毛?」
思わず自分の髪に手を伸ばす。
「おかしい、ですか?」
「いや。初めて会った頃と中身はほとんど変わらないのに、少しだけ大人っぽくなったなって思った」
褒められているのか、子ども扱いされているのか分からなかったが、いい言葉だと思っておくことにした。
見た目は大きな変化はなかったと思う。でも、中身はほんの少しだけ変わったと思う。人を好きになる気持ちを初めて知ったからだ。
「先輩は変わりませんよね」
冬以降は苦しい気持ちばっかりだった。最終的に先輩の優しさを再確認して、もっと好きになっていた。その気持ちは春を目前にしても変わらなかった。
「少しはしっかりしたと思うけど」
先輩は顔をしかめる。
「先輩は前からしっかりしていたと思いますよ」
その言葉に先輩の顔が少し赤くなる。
いつだって先輩はしっかりしていて、大人びていて、わたしの憧れだった。
「変なことを言ってないで行くぞ」
先輩はそれだけを言い残すとエレベーターに向かって歩き出す。
わたしは振り向かない彼の後を慌てて追った。
外に出ると、先輩に促されて歩き出す。
どこに行くかはあらかじめ先輩に伝えておいた。この前、咲に教えてもらったお店だ。この辺りでは知られたお店なのか、店名を告げると先輩はああ、とすぐに分かったようだ。
強くなった日差しを手で遮る。寒い冬が去り、春が目前に迫っていた。だが、訪れる春を素直に喜ぶことはできない。先輩との別れを暗示しているような気がしたからだ。
「もう荷造りはしたんですか?」
「大まかなものは送ったよ。佳織と違って家探しをしなくていいのは楽だからね」
大学合格後、宮脇先輩は先輩と和葉さんと一緒に家を探していたらしい。契約にはお兄さんが行かないといけないが、土地勘がない二人で探すことに抵抗があったようだ。先輩も和葉さんも率先して彼女に協力していたようだ。
大学から少し離れた場所に家を借りる事になったと少し前に宮脇先輩から聞いていた。
先輩の足がとまる。オレンジ色の電灯と太陽光が混ざる店内で、店員の女性がお客さんらしき人と楽しげに話をしている。
「ここでいいんだっけ?」
頷くと、二人で店内に入る。レジの目と鼻の先にあるショーウインドウの前に行く。シルバーチェーンのネックレスの前に立った。その中心部では淡いガーネットが優しい光を放っている。
「これにしようかなと思います」
「似合うと思うよ。 店の人を呼んでくるから」
先輩の視線が店内を泳いだとき、ふとある一つの商品が頭を過ぎり、視線を戻した。すぐ隣の棚で輝く宝石を目に留める。
ホワイトゴールドのベビーリングが繊細な光を放っていた。その花びらの中央にガーネットが埋め込まれている。下見をしたときに真っ先に目がいった商品だ。
お店の人と話をしていた先輩が不思議そうにわたしを見る。
わたしの視線を追い、ベビーリングにたどり着いた。
「これがいい?」
「そんなことはないです」
慌てて否定したが、先輩は呆れたように笑う。
「一番ほしいものを選んで」
彼の言葉に本心を悟られているのではないかと思った。
これだと決めるときに咲や愛理にも同じことを言われていたのだ。それでも頑なにシルバーチェーンのネックレスを選ぼうとしたわたしを見て、愛理は今の先輩と同じように呆れた笑みを浮かべていた。
わたしはその商品をそっと指さす。
先輩が軽くわたしの頭をなで、お店の人に声をかけていた。
さっきの商品を出してもらい、レジまで行く。
先輩はお金を払い、受け取った紙袋をわたしに渡す。
お店の外に行くと、先輩に頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼は「気にしなくていい」と言うと歩き出した。
「それさ、いらなくなったらいつでも捨てていいからさ」
「捨てません」
思いもよらぬ言葉に驚き、先輩を見た。思わずお店の袋をギュッと握りしめた。
「そういう深刻な話じゃなくて、それくらい軽く考えてくれればいいってことだよ」
彼は慌ててそう付け加える。
先輩にとってこれはその程度のものなのだろうか。いらなくなれば捨てる事ができる程度のモノ。
唇を噛んだとき、西原先輩を呼ぶ聞いたことない声が聞こえた。二人組で二人とも見たことない。一人は背が高くてすらっとしていて美人な人。メイクをしっかりとしているからか、より大人びた雰囲気を出していた。もう一人は髪の毛を短く切った人だ。だが、はっきりとした顔立ちのせいか、さっぱりとした印象を受ける。
「三宅と、長尾か。久しぶり」
二人はわたしたちのところへ近寄ってきた。
髪の毛を短く切った女性がさっきわたしたちの出てきたお店をチラッと見る。
「彼女? 可愛いね」
「佳織とつきあってるんじゃないの?」
この人たちも宮脇先輩のことを知っているんだ。
「両方誤解だよ。彼女は高校の後輩だよ」
「怪しい」
そう言いながら、二人は西原先輩と世間話を始めてしまった。高校はどうだったのか、大学はどうだったのかといった話だ。
先輩が合格した大学名を告げると、二人は歓声をあげていた。
わたしはそんなやりとりをただ見ていた。そして、以前感じた事のある感情を思い出していた。
ベビーリングの入った袋をさっきより強く握る。
二人は何かを思い出したのか、声をかけ合い、わたしと先輩に挨拶をして去っていく。
乗る予定だったバスの時間が目前に迫っているようだった。
そんな二人を先輩は笑顔で見送る。
先輩には先輩の世界があり、その中にいろんな人がいる。そこには友達やクラスメイト、後輩など多くの人がいて、わたしはその一部分の存在でしかない。
わたしにとって先輩が特別なように、先輩にとって特別な存在になりたかった。
好きでいてくれたら後悔しない?
そう咲が言っていた言葉が何度も繰り返される。
「さっきのは中学のクラスメイト。悪いな。変な勘違いをされて」
「いいえ。いいんです」
彼の後姿を目で追いかけていた。
告白したら先輩を困らせるかもしれない。宮脇先輩のように、先輩に今までと同じように接してもらえる自信はなかった。
そのとき、先輩の影が薄くなる。いつの間にか灰色の雲が空を覆いかけていた。
「雨降りそうだし、どこかに入ろうか」
歩き出そうとした西原先輩の手をつかんでいた。




