伝えた想い
今なら咲に言えなかった返事を大きな声で言えるだろう。
後悔する。きっとすごく。
「安岡?」
先輩は驚いたようにわたしを見ていた。
「まずはどこかの店に入ってから、話を聞くよ」
返事をしなくてはいけないと思っても、喉の奥に何かつっかえたように言葉が出てこない。
どうしてこんなに臆病なんだろう。
わたしはずっとそうだった。臆病なあまり先輩を何度も困らせてきた。そして、先輩はそんなわたしに最後まで親切だった。
「安岡?」
先輩が悲しそうな目でわたしを見ていたのに気付く。
「帰ろうか」
頬に冷たいものが触れる。雨が降り出したということ気づくのに時間は要さなかった。
わたしの手を握り返した先輩の髪には無数の水滴がついていた。
もう笑ってくれなくなるかもしれない。
弱い心を振り払うために手に力を込めた。
先輩は足をとめ振り返る。
「先輩の彼女になりたい」
降りしきる雨に打ち消されそうになりながら、やっとの想いで口にしていた。
「だからさっきのは向こうの誤解で」
「わたしは先輩のことが好きなの」
先輩の手がわたしの手首から離れ、支えを失った手はぶらんと下に伸びる。
先輩の瞳に映った自分の姿を確認し、心臓の鼓動が早くなっていく。
体を浸していく雨も、雨粒の大きさも、冷たさも、人の声も全く感じなくなっていた。
先輩の口が動きかけたとき、車のクラクションが全てをかき消した。音はわたしたちとは全く関係ない場所で発生したものだった。自転車に乗った小学生くらいの男の子が赤信号の交差点で立ち往生していたのだ。すぐに四十歳ほどの女性がやってきて、車に頭を下げる。女性に連れられ、男の子が歩道に行く。
先輩はもう一度何かを言いかけ、短く息を吐いた。
「帰ろう」
先輩はわたしの手をつかむ。その手は雨で濡れていたが、触れられた部分だけ熱を帯びる。心臓の音や早くなる脈の音を先輩に聞かれないために、先輩から目を背けて彼についていく。
わたしたちの耳に届くのは地面を叩きつける雨音だけだった。そして、微かにそれに混ざるように人の声や車の音が聞こえていた。
先輩との無言の時間が長くなれば長くなるほど、鼓動が早くなっていく。
先輩は今、何を考えている?
迷惑だって思っている?
どうやって断ろうか考えているの?
いろんな疑問がいっぱい押し寄せてきたが、口にすることはできなかった。口に出して、自分から終わりを決定付けてしまうことを怖れていたのだ。
マンションの前に着く頃にはびしょびしょになっていた。先輩はマンションの中に入ると、つかんでいたわたしの手を離す。二人とも言葉を交わさないままエレベーターに乗る。
狭い空間に入ると、息苦しさが増す。先輩を見られずに、足元に目を向けていた。おろしたての茶色のローファーに泥がついていた。
わたしの手に冷たい手がなぞるように触れ、力強く握られる。
思わず体がびくりと震えた。
「ありがとう」
先輩が囁いたとき、エレベーターが止まる。先輩の手が離れ、彼は「開」を押すと、わたしに外に出るように促した。
家の前に来るとわたしの肩を軽く叩く。
「後で渡したいものがあるから、着替えてからちょっと来いよ」
先輩は鍵を開けると、さっさと家の中に入ってしまいその何かを聞くことがでいなかった。
幸い母親はおらず、わたしは脱衣所でタオルを取り、部屋に戻った。そして、白のワンピースに着替え、濡れた洋服は椅子に掛けておいた。ピンクのカーディガンを羽織るときに、机の上においたベビーリングの入った袋が視界に移る。袋からケースを取り出し、そっと首に通す。
乱れた髪をタオルで拭いて簡単に手櫛で整えると、先輩の家に行く事にした。
本当はシャワーを浴びたかったが先輩を待たせたくなかったのと、先輩がわたしに渡したい物が気になったからだ。
チャイムを鳴らすと、すぐに白いシャツを着た先輩が出てきた。だが、わたしの視線は彼の足もとにそれる。
彼に招かれ、リビングに通される。一年で何度も入る事になった家だ。
先輩は「少し待っていて」と言い残すと、部屋に消えていく。戻ってきた先輩の手には写真が握られていた。二枚持っていたのか、そのうち一枚をテーブルの上にひっくり返して置く。
「依田からもらったんだ」
名前で呼ばないから、それは愛理のことだろう。
見た瞬間、顔が赤くなるのが分かった。 愛理に撮ってもらった卒業式の写真だ。
映っているわたしの顔は真く染まり、先輩はそっぽを向いていた。どこかちぐはぐだが、それが逆にくすぐったい。
「そんなに無理して写真を撮らなくても良かったのに」
「記念だよ。卒業式の前の日に妹から電話がかかってきて、せっかく同じ高校に通ったんだから、写真くらい撮れば、と言われた」
愛理がわたしを卒業式に誘ったのはそんな経緯があったからだろうか。
そのやり取りを想像して笑いかけたとき、わたしの背中に手が回された。
「嫌だったら言って」
そう言われた数秒後にはわたしは先輩の胸の中にいた。
「お前は別のやつのことが好きなんだって思っていた。だから忘れようと思っていた」
思いがけない台詞に驚き、先輩の表情を確認しようとしたが、彼はわたしを強く抱きしめ、身動きを撮れなくしてしまっていた。
彼の心臓の音が伝わってくる。それはわたしが想像していたよりずっと速い。
「誰ですか?」
「言わない。というか言えない」
わたしを握る手に力がこもる。
先輩の存在を感じられた気がして、思わず涙が出てきそうになる。それを抑えるために唇を噛んだが、視界は滲んでいた。
人は幸せなときにも泣けるんだって、そのとき生まれて初めて知った。
すすりないているわたしに気付いたのか、先輩の体が離れた。
顔を赤く染めた先輩がわたしの顔を覗き込む。
「嫌だった? ごめん」
「そんなことないです。びっくりして、すごく幸せだったから思わず」
それ以上言葉が続かなかった。
先輩は少し頭をかくと、わたしの頬をつねる。
何かを言いかけた先輩の言葉をリビングの扉が開く音がかき消した。
わたしたちは突っ立ったまま、ドアを見ていた。
先輩の手がわたしから離れたのは、ドアのところに立っている人を確認した後だった。
和葉さんはわたしと先輩のところまで来ると、持っていた買い物袋を放り投げ、わたしの肩をつかむ。
先輩を鋭いまなざしで見つめる。
「泣いているじゃない。何したの?」
先輩は一瞬、顔を引きつらせていた。
「これは違うんです」
わたしは慌てて弁解する。
「いいのよ。庇わなくて。女の子を傷つけるようなことはしないと思っていたのに」
「そうじゃないんです」
和葉さんの動きがとまり、じっとわたしを見つめる。
わたしは先輩に救いを求めたが、彼は目が合っても肩をすくめるだけだった。
「やっぱり稜を庇っているんでしょう」
「違うんです。先輩がわたしを好きって言ってくれたから嬉しくて泣いてしまいました」
わたしは観念して、白状することになった。
最後の方は声が小さくなり、それ以上はもう言えなかった。
和葉さんは眉をひそめ、わたしと先輩を交互に見つめていた。




