わたしの心の在処
昇降口に入るといつも人気のない場所に人があふれていた。その中には顔だけ知っている先輩の姿もあった。彼らの顔にはどこか安堵の表情に満ちているように見えた。
明日は卒業式だった。
あのバレンタインの日以降一度も先輩たちに会うことはなかった。
ため息を吐き、靴箱に手を伸ばし、上履きに履き替えた。
階段にあゆみかけたとき、掛け声に呼び止められる。
振り返ると森谷君が立っていたのだ。
「おはよう」
彼は笑顔でそう告げるとわたしの傍までやってきた。
彼の視線が階段に消えていく三年の先輩のほうに流れる。
「一年、あっという間だったな」
わたしは彼の言葉に笑顔で答えた。
森谷君とあれから普通に話をしていた。それどころか今までより余計に親切になったかもしれない。
「先輩達が学校に来るのは明日までか」
彼がその言葉に込めた意味に気づきながらもあいまいに微笑んだ。
バレンタインの日以降わたしの中でかわったことがあった。それは西原先輩に対する気持ちだった。
あのピアスはわたしの気持ちを忘れさせてくれたのかもしれないと今になってみたら思う。
階段をあがり、三階に着く。同時に届いた声に思わず顔をあげた。
「香織」
驚いたのは声の主と、彼の呼び方だった。
宮脇先輩が笑顔でそう呼びかけた西原先輩のところに歩いていく。
最初に思った通りに二人はとてもよく似合う。動揺もなく、自分の気持ちに納得できた。
二人は教室の中に消えていく。
いつの間にかわたしの隣にいた森谷君が複雑そうな顔をして二人の消えた教室を見つめていた。
わたしは迷子になっていた気持ちがやっと居場所を見つけたことに、心を撫で下ろしていた。
帰りに森谷君と会い、一緒に帰ることになった。そして、愛理たちを見送った後、彼がふと言葉を漏らす。
「今朝のことなんだけど」
彼はそこで言葉を切る。何を言っていいのか言葉を探しているように見えた。
彼が何を言いたいのか大よそ感づき、口を細めゆっくりと息を吐いた。
「まだ先輩のこと好きだとは思う。でも、不思議とすっきりしているんだよね。二人ならいいかなって思えるんだ」
「先輩は宮脇先輩のことを友達としてしか思っていないように見えたのに」
「人の気持ちは変わるものでしょう」
少し得意げに言ったわたしの言葉に彼は少し笑った。
「確かにね」
一年前は誰かを好きになるとは考えもしなかった。初恋は実らなかったけれど、最後に相手の不幸や別れること、そして嫉妬でしかない気持ちを抱かなくて良かったって思う。そういう結末を迎えられたわたしの初恋はすごく幸せなものだったと思う。
そのとき、わたしのマンションが視界に入る。だが、いつもは見慣れない人影に気づいた。
わたしたちは顔を合わせ、少し足早に彼女のところに行く。
「西原先輩と待ち合わせですか?」
わたしなりに気を利かせた言葉に彼女は大げさに肩をすくめた。
「真由ちゃんに用があったのだけど、また今度にするね」
去っていこうとした宮脇先輩を森谷君が呼び止めた。
「一緒に帰っていただけですから。気にしないでください」
彼はわたしと先輩に挨拶を済ませると、マンションの前を過ぎ去っていく。
「本当によかった?」
「大丈夫ですよ? どうかしましたか?」
「話しておきたいことがあってね」
「よかったら家にあがりますか?」
宮脇先輩の表情が明るくなる。
「真由ちゃんの家に行くのって楽しみだね」
そういう表情を浮かべる宮脇先輩は可愛いなって思ってしまう。
幸い家には誰もいなかった。わたしは宮脇先輩を部屋に通す。そして、手を洗うとお茶の準備をして部屋に戻る。
彼女はわたしの入れた紅茶をおいしそうに飲んでくれた。カップの白い部分が半分ほど露わになったとき、彼女は口元を締める。
「真由ちゃんに言っておかないといけないことがあるの」
決意を秘めた瞳を見て、それが先輩とのことだということは自ずと分かる。
「稜からわたしのことは前の彼女としか聞いていないんだよね?」
わたしはうなずく。
宮脇先輩は目を細めて少し寂しそうに微笑んでいた。
「わたしと稜はちゃんとつきあっていたわけじゃないんだ」
一瞬、彼女の言った言葉の意味が理解できないでいた。頭の中のいろんな考えを整理して、宮脇先輩に問いかける。
「でも先輩は彼女だって言っていました」
「それはわたしのことを気遣ってくれたんだと思う。稜はわたしのことを好きじゃなかった。分かっていた」
戸惑うわたしをよそ目に彼女はもう一度笑った。
「わたしは子供のときから稜のことが好きだった。でも、彼にとってわたしは幼馴染だった。高校一年のときに稜に言ったの。一ヶ月だけ彼氏になってほしいって。好きになってくれなかったら諦めるからって」
彼女は長い髪にそっと手を添える。
「なんとなく分かると思うけど、一ヵ月後にしっかりと振られたの。それが稜の言っていた元カノの意味。だから、わたしが稜にとってそう思われているとは思いもしなかった」
今までわたしのしてきたことは彼女を傷つけてきたのかもしれない。忘れるという言葉がより現実的なものにある。
宮脇先輩はわたしの手をギュッと握っていた。
「ありがとう」
彼女は優しく笑い言葉をつづけた。
「わたしには稜の気持ちは分からないけど、真由ちゃんをあれだけ心配していたってことは嫌いなわけじゃないと思うよ。気持ち、あいつに届くといいね」
彼女に手を握られたまま、その言葉に仰け反っていた。
「気づいていたんですか?」
「これを見つけてくれた日に言ってくれた、稜にはわたしが似合うという言葉を聞いてね。やっと今までのことが納得できたよ」
「でもわたしには無理です。恋愛対象外と言われたことがあって」
冬の始まりに彼から聞かされ、引っかかっている言葉だった。
宮脇先輩に聞かれたので、そのときの状況を話してみることにした。
「真由ちゃんが自分のこととして考えてみたらどう思う? 全く親しくない子から好きな人いるって聞かれたら、稜のこと話す?」
「話しません」
そう言って気づく。
「その可能性もあるってこと」
やっぱり宮脇先輩は大人でできた人だと思った。二年後わたしは彼女のような人になれるのだろうか。
宮脇先輩は鞄に手を伸ばし、ピアスを取り出し、テーブルの上に置いた。それが少し机の上を統べる。
「付き合っているときに買ってもらったの。本当はこの奥の指輪を見ていたのだけど、言えなくてね。ずっと稜を好きになったことを後悔していた。でも、これからはこれも、稜を好きだった気持ちも大事にしようって思ったんだ。そう思えたのは真由ちゃんのおかげだね」
わたしは飲んでいた紅茶をむせてしまっていた。
戸惑いながら彼女を見る。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「わたしは何もしていないのに」
「あのバレンタインの真由ちゃんを見て、敵わないなと思ったの。そう思ったら、ずっと好きだった気持ちがなんだかするっと抜けていった気がした」
「そんなことないですよ。宮脇先輩はわたしに勝っていることばかりじゃないですか」
「そんなことないよ。わたしも欠点ばかりの人間だもん。真由ちゃんはいいところをたくさん持っていると思うな」
わたしにはその具体的な何かがさっぱり思い浮かばなかった。
そのとき、わたしを呼ぶ母親の声が聞こえた。いつの間にか帰ってきたようだった。
「長居してごめんね」
彼女はわたしの出した紅茶を飲み干し、ピアスをケースに片づける。
わたしは彼女を外まで送ることにした。
もう辺りは日が沈みかけている。
「卒業してからも都合があえば遊ぼうね」
わたしは彼女の言葉に頷いた。
彼女はわたしを指さした。
「真由ちゃんも気持ちをなくしたらダメだよ。あのとき言ってくれたお返し」
彼女はそう告げると、背を向けて帰っていく。
小さくなっていく彼女を見ながら、もう明日には学校を卒業してしまうことが不思議でならなかった。
そして、ただため息を吐いた。
その日の夜ベランダで物音が聞こえ、外に出た。
「先輩?」
「何?」
手すりに寄りかかると、隣の家を見る。
そこには先輩の姿があった。
「今日も寒いですね。先輩は空を見ていたんですか?」
「まあね。寒い日はより遠くまで見える気がして」
そう言った先輩の目はすごく輝いており、未来を見ているんだと分かった。
先輩がやりたいのは天文関係のことだって、少し前に教えてもらった。
それは宮脇先輩も同じで、そのためには志望している大学に通いたいということなんだろう。
先輩は後ろを振り返ったり、何かに悩んだりしないんだろうか。だが、それはないだろう。誰だってそういうものを持っているから。
「誕生日プレゼント 決めた?」
「まだです」
わたしがほしいのは、物じゃなくて、先輩と一緒の時間。隣にいられる権利。
だが、そんなことを言えるわけもない。
「そんなに高いものじゃなかったら大丈夫だから」
彼の言葉に相槌を打つ。
買ってもらうなら身につけるものにしたかった。
春になろうとしているのに、まだこの時期の風は夜になると冷たい。
白い息がこぼれ、手を合わせると、息を吐く。
「風邪引くから、中に入ったほうがいいよ」
家の中に入れば先輩と話ができなくなってしまう。それが分かっていたけど、口に出せなくて、うなずいていた。
なぜ日本は春が冬の次にあるんだろう。外国みたいに九月から新学期だったら、寒さを感じずに温かい季節だから先輩と一緒に話せるのにと思わずにはいられなかった。
「冷たい風を浴びたいからあと十分だけ」
「無理するなよ」
少し困ったような先輩の声が聞こえた。それでも先輩ともう少しだけ一緒にこうしていたかった。
それが臆病なわたしの精一杯の気持ちだった。




