忘れるために
じりじりと迫る時間に押されながら、わたしは柱の陰に身をひそめ目の前の光景を見つめていた。宮脇先輩と、背中しか見えないけど、背の高いおそらく彼女と同じクラスの男の人の姿があった。
「ごめんなさい。今は誰ともつきあう気はないの」
宮脇先輩は辛そうな表情を浮かべ頭を下げていた。
「好きな奴いる?」
その言葉に宮脇先輩は一瞬寂しそうな顔をする。わたしの心をつく表情は目の前の彼にとってはそうでもなかったのか、彼は連続的に問いかける。
「西原?」
宮脇先輩の表情が固まっていた。それはそうだって告げているようなものだった。
彼女の表情は余計に胸を苦しくさせる。
「そっか。悪いな」
彼は静かな空間に感情を抑えた声を残すと、そのまま立ち去っていく。
宮脇先輩の悲しそうな顔をそれ以上見ずにすんだ気がして、胸を撫で下ろす。
好んでこんなシーンを目撃したわけではなかった。昼休みに人通りの少ない教室の前を歩いていたら、人の話し声が聞こえたが、特に気にはしなかった。だが、途中でそれが告白だったことに気づく。引き返す前に宮脇先輩の姿が目に移り、思わずその成り行きを見守っていてしまったのだ。
彼の足音が消えるのを確認して、息を吐く。昼休みがあまり残りがないことを思い出し廊下に出た。だが、足元で泳ぐ影を見て慌てて顔を上げた。そして、宮脇先輩の澄んだ瞳の中にわたしがいた。
やばいと率直に感じる。
どう取り繕うか考えていると彼女は困ったように笑っていた。
「聞こえていたんだ」
「はい」
嘘を吐いても仕方ないことは分かっていたので、素直に認めていた。だが、それ以上は何も言えなかったのだ。
彼女は艶のある髪の毛をかきあげ、先ほどのようにさみしそうに笑っていた。
「なんかダメだよね。忘れないといけないのに。本当、自分が嫌になっちゃう。全然相手にされていないのに」
その言葉に目を見張る。
彼女の言葉が理解できなかったのだ。
宮脇先輩は小さな声を出すと、苦笑いを浮かべる。
「変な話をしてごめんね。誰かに言いたかったのかな」
「いえ。でも、彼女だったのに相手にされていないなんてことはないと思いますよ」
頭で考えるより先にするっと言葉が落ちてきた。
だが、言って反省する。二人の間に何があったかも分からないのにそんなことを言えば人によっては不快感を示してもおかしくないと思う。
西原先輩に気持ちが残っているなら尚更だった。
でも、宮脇先輩はわたしのそんな言葉を聞いても嫌な顔はせず、さみしそうに笑っていた。彼女の心の傷をえぐったのかもしれないと思わずにはいられなかったのだ。
「稜から聞いたの?」
わたしは目をそらすと、うなずいていた。
「稜はわたしのことをどう紹介していたの?」
先輩の言葉を思い出し、忠実に彼女に伝える。
「元カノって言っていました」
その言葉に宮脇先輩は優しいけど、どこか切ない、心の奥にちくんと刺さるような笑顔を浮かべていた。
「そうなんだ。少しはそう思ってくれていたんだ。少し嬉しいかも」
その言葉になんとも言えない違和感があったのだ。今、好きな相手に、昔の彼女と思われて嬉しいってそんなことあるんだろうか。先輩が昔のことにしてくれて嬉しいというわけではないだろう。
宮脇先輩は今も西原先輩のことが好きで、あのピアスを大事に持ち歩いていたんだって知っているから。
「でも、つきあっていたんですよね。今でも好きなのに、どうして嬉しいんですか?」
だから、思わずそう聞いていた。すごく失礼なことを聞いていることは分かっていたが、それでも聞かずにいられなかった。
わたしの戸惑いをよそに、宮脇先輩の顔から、さっきの悲しそうな表情が消し去っていた。
「秘密。稜がそう言ってくれたなら、そういうことにしておきたいから」
わたしが先輩の立場なら嫌だと思う。過去だなんて思ってほしくはなかった。
「ごめんね。嫌な気持ちにさせてしまったかな」
「だって、西原先輩にもらったものを持ち歩くくらい好きなのに、よく分からなくて」
「これのこと?」
宮脇先輩は制服の胸ポケットからピアスを取り出していた。
「これは諦めるために持っているのよ」
わたしの想像に反して、明るい声が響く。
「ピアスって小さいから、これを失くしたときは稜のことを忘れようって決めたの。ちょっとした運試し」
運試しという言葉に首を傾げる。
宮脇先輩の言っていることが理解できなかったのだ。なんとか頭の中を整理する。
「運試しをするって、どうして忘れないといけないんですか?」
「だって、無理なのが分かるから」
先輩には好きな人がいる。わたしはそれが誰かわからない。
でも、宮脇先輩であればすべてが腑に落ちるのだ。
そして、わたしもすっきりと諦められる気がした。
違っていたら誰なんだろう。
同じクラスの人?
それともわたしの知らない人?
だが、考えようによっては、昔はそうでなかったが、今は宮脇先輩のことを好きという可能性だって十分にある。それを宮脇先輩が知らないだけかもしれない。一度失敗をしているから臆病になっているのかもしれない。
「ごめんね。本当にわたしのことは気にしないで」
わたしが頷くと、宮脇先輩はわたしの肩を軽くたたき、教室に戻ると言い残し、その場を去っていく。
彼女が先輩のことを諦めてくれるのがわたしにとってはいいはずだった。わたしを見てくれる可能性がほんのわずかでも増えるから。
だが、寂しく笑う宮脇先輩の姿を見てしまったからか、彼女がピアスを大事にしている理由を知ってしまったからか、彼女の言葉に唇を噛みしめていた。
橙色の淡い光が青い空を覆い尽くすように強くなっていく光をただ眺めていた。
だが、わたしの目に入ってくるのは闇の中で瞬く星ではなく、宮脇先輩の笑顔だった。
なぜどうして忘れなきゃいけないんだろう。
本当に忘れないといけないのはわたしのほうだった。
ドアの開く音が、その空に溶けていくように響いていた。
「そこにいる?」
その言葉に体を震わせる。
「いますよ」
「何かあった?」
彼はわたしの声色から何かを感じたのか、そういつもと変わらない声で聴いてきた。
だが、西原先輩の声を聴いても過ぎるのは宮脇先輩のことだったのだ。
「あんまりそこにいて、風邪引くなよ」
先輩はわたしが返事をしなかったことには触れないで、そんな優しいことばをかけてきた。
その言葉が優しくて、でも夕焼けの空のように淡くて、優しい気持ちになれるけど、どこか物寂しい感じがしていた。
先輩はこういうことをして、女の子を誤解させていくんだ。
わたしが勘違いをしそうになったみたいに。
それは悪気があるわけではなく、好きになったほうの一方的な言い分でしかないんだってことも分かっている。ただ優しいだけで打算があるわけでもない。
でも、そういうことがものすごく辛い気持ちにさせる。それは先輩を「好き」になってしまった宿命のようなものだった。宮脇先輩もだからあんなさみしい思いをしているのかもしれない。そして、やっぱり先輩に悪気はない。
「先輩」
「どうかした?」
「人を好きになるって悲しいですね」
わたしは赤く空を染めていく光を見つめていた。
その光が放つ、独特の感覚のせいか、より心の奥を同じ色の光が包み込んでしまっていた。
ベランダの向こうで物音が聞こえ、先輩の手が手すりにかけられるのが見えた。
「お前、好きなやついるんだ」
わたしは先輩の手から目を逸らし、ゆっくりとベランダの手すりにもたれかかる。天を仰ぐと、そこからは屋根と、淡い空を覗くことができる。
わたしは目を瞑ると、ゆっくりと息を吐く。
「いますよ。わたしももう十五だから」
「そっか。お前の気持ち、相手に届くといいな」
届くか届かないのは先輩次第。だが、、そんなことを言えるわけもなかった。
「そうですね。多分、失恋しちゃいますけど」
そう言うと、少しだけ笑っていた。
「そんなに脈がない相手なんだ」
「すごく遠い人です」
近いけど、やっぱり遠い。
先輩にとってわたしとのこんな話は親の愚痴を聞くみたいに、上の空で聞けるどうでもいい話って思っているんだろう。
そんなことは当たり前だから。
先輩は好きな人のことを思って悲しくなったことってありますか?
聞きたい言葉をぐいっと飲み込む。
もしあって、それが好きな人なら、その誰かは誰なのか分からないけどの知らない誰かであるくらいなら、宮脇先輩であってほしかった。あの人なら「分かる」から。
「万が一、誰かに失恋したときはいくらでも泣き言を聞いてやるよ」
その言葉に、目の辺りがじんわりと熱を持つのが分かった。
先輩はその誰かが自分だって思っていないんだろう。
それは恋愛対象に「わたし」が入っていないからかもしれない。
でも、先輩のそんな言葉が嬉しかったから、そのまま受け止めておく。
「そのときはお願いしますね。そんな必要もないのが一番ですけどね」
先輩は「そうだな」と言うと、笑っていた。
わたしはもう一度、視界にその淡い空が映るように、体を動かす。空は余計に淡さを増していた。そして沈みゆく太陽もいつもよりおぼろげで頼りなかった。
目に溜まった涙を拭うと、横目で先輩を見る。
ふとある考えが頭を過ぎる。なぜ先輩はベランダに出てすぐに、わたしがいることに気づいたんだろう。わたしの部屋から先輩の家のベランダを覗くことができないように先輩の部屋からわたしの家のベランダを覗けないからだ。
だから、なんとなく不思議に思った。
「どうして、わたしがここにいるって分かったんですか?」
すぐには聞こえてこないと思った返事は意外とあっさり聞こえてきた。
「五月に、一緒に見た空と同じ空だったから、お前も見ている気がしたんだ。呼びかけて誰もいなかったら、それでもいいかなって思った。どうせ誰も聞いてないだろうし」
そう言った先輩の顔は見えなかったが、その優しい声を聞いていると、わたしの好きな笑顔を浮かべているんだって思った。だが、星の輪郭が二重になる。今日は感傷的になりすぎているのかもしれない。
「綺麗な空だな」
「そうですね」
できるだけ今の乱れた気持ちを気づかれないように丁寧に言葉を紡ぐ。
見上げた空は、少し紫色を帯びていた。
わたしはまた、視界が霞むのを感じながら、唇を噛む。
夕焼けは温かいけど、切ない。
その空は人を好きな心みたいで、それでいて先輩みたいだと思った。




