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隣の先輩  作者: 沢村茜
第八章 ほろ苦い夏
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今はこのままで

 ホームルームのない夏季補習は授業の終わりのチャイムと共に放課後となる。教室が賑わいを取り戻し、徐々に人が教室から減っていく。

 今日が長かった補習の最終日だった。

 前の席の咲が鞄を握ると振り返った。


「帰ろうか」

「愛理は?」


 わたしは自分の席で教科書をめくる愛理を確認し、問いかける。


「今日はお兄さんと帰るらしいの」

「依田先輩は補習がないの?」

「ないわけじゃないらしいけど、あくまで自由参加だからね」


 自分の席で手を振る愛理に見送られ、わたしと咲は一足早く教室を出る。

 あれから咲とは普通に話をしていた。いつも通りのはずなのに先輩とデートをしたことだけは愛理にも咲にも言い出せなかった。


 靴箱は人でにぎわっていた。わたしたちはそれぞれの靴箱に行き、靴を履きかえる。

 咲の細い指先から木製の扉が離れ、彼女は短く息を吸った。


「今日、用事ある?」


 わたしは咲の言葉に首をかしげる。


「わたしの家に来ない?」

「いいけど、急に行って大丈夫なの?」

「大丈夫。一応、親には友達を連れてくるかもと言ってあるから」


 彼女の笑顔を不思議に思いながらも一緒に学校を出た。いつもは別れる曲り道を今日は一緒に歩いていく。


 わたしが知る限り彼女と先輩が一緒に会っている気配はなかった。あくまでわたしが見る限りなので、実際がどうなのかは分からない。


 彼女の足が止まったのは前原というプレートのかけられた庭付きの一戸建ての前だった。鉄製の柵の向こうには薄紫の朝顔が物静かな姿で佇んでいた。


「お花がいっぱいだね」

「お母さんの趣味なんだ」

「なんかいいね」


 咲はわたしの言葉に笑顔を浮かべ柵に手をかけ、家の中に入る。わたしは彼女の後をついていく。

 彼女が玄関を開けると、咲とはあまり似ていないわたしのお母さんと同じ年くらいの女性が出てきた。わたしは軽く会釈をすると、家の中に入る。


「飲み物は後で取りに行くから」


 咲はわたしに合図すると玄関から少し入った場所にある階段を上がっていく。そして二階の一番奥の部屋で足を止めた。


 彼女は少し待っていてというと、部屋の扉を開けっ放しにして中に入る。机の上に置いてあった白のリモコンに手を伸ばした。


「少し暑いと思うけど」


 中に入ると何気なく辺りをちら見した。彼女の部屋は可愛い雑貨などが置いてあるイメージだったが、びっくりするほど物がなくさっぱりとした部屋だった。以前少しだけ見た先輩の部屋にどことなく似ている気がした。


 咲の出してくれた水色のクッションに腰掛け、出ていく彼女を見送った。

 すぐにアイスティーを手に戻ってくる。彼女はそれをサイドテーブルの上に並べると、再び立ち上がる。引き出しの中から何かを取り出し、机の上に置いた。そこには特定の映画の名前が記されていないチケットがあった。


「映画のチケットをもらったんだ。この前言っていた映画を一緒に見ない? 人からもらったの」


 わたしは迷いながらも先輩とのことを話すことにした。


「その映画先輩と一緒に見たの」

「そうなの?」


 咲は澄んだ目を見開く。


「この前、愛理の家に泊まった翌日に連れて行ってくれたの」

「先輩は優しいね」


 彼女は優しい笑顔を浮かべていた。


「別の映画を見に行こうよ。これって劇場招待チケットだからさ」

「ありがとう」


 確証はなかったが咲が誘ってくれたのは先輩と同じ理由ではないかと思った。


「愛理も誘おうか。三枚あるから」


 彼女の誘いに笑顔でうなずいたとき、笑顔でいた咲の表情が一瞬強張る。彼女は血色のいい唇を軽く噛んでいた。


「変なこと聞いていい? 違っていたらそう言ってね」


 わたしが頷くと、彼女は下唇から歯を離した。


「わたしと先輩が買い物に行った日、真由は後を追いかけてきたんだよね。そのときにわたしと先輩の話を聞いた?」


 あまりに具体的な言葉はわたしの記憶を鮮明に蘇らせた。

 一瞬嘘をつこうか迷った。だが、先輩とのことがあったからそれではいけないと考え直す。


「聞いた」


 彼女は一瞬、さみしそうに笑った。


「わたし、好きな人がいるんだ」


 先輩に対してさみしそうに笑っていたあのときの彼女と今が重なっていく。


「西原先輩?」


 とっさに出てきた言葉に、彼女は苦笑いを浮かべて、肩をすくめていた。


「やっぱりそう思わせちゃったんだよね。そんな気はしていたけど。でも、その人は西原先輩じゃなんだ。西原先輩はかっこよくて優しいけど、好きな人とは違う」


 西原先輩じゃないんだ。安堵する気持ちと共に疑問がわきあがってきた。他に知っている先輩といえば依田先輩もいるが、依田先輩を咲が好きになるというイメージがわかないこと、他にも上級生はいることから具体的に聞くことはできなかった。


「今まで、真由に黙っていてごめんね。でも、どうしても真由には言えなかったんだ。その人、真由のことを気に入っているから」


 咲の言葉が理解できず、彼女の顔を凝視する。

 好きとか?

 自分で考えて否定する。そんなことを言われたことは一度もない。だからそれは咲の勘違いとしか思えなかったのだ。


 だが、彼女はそんな心を見透かしたように、目を細め天を仰いでいた。


「あの日の夜から元気がないことに気づいて、愛理から真由の戻ってきた時間を聞いてそのあたりの話を聞いてしまったんじゃないかとずっと思っていたの。全部話そうかと思ったけど、その人が真由のことを好きなんじゃないかと思う気持ちがあってどうしても言えなかった。真由が西原先輩のことを好きだと思っていても、いつか気持ちが変わってそうでなくなるかもしれない。そんなときわたしの気持ちが邪魔になってほしくないの。だからこんな嫌な言い方をしてしまってごめんなさい」


 あのときの言葉の意味をくみ取り、溜飲を下げる だが、同時に言いようのない気持ちを作り出す。


「でも、わたしは西原先輩のことが好きだし。他の人のことを好きになるなんて考えられない」

「ごめんね。そうだよね。西原先輩と両想いになってくれれば嬉しいと思っているのは本当。でも、真由の気持ちもいつか変わるかもしれない。真由がその人を好きになったら好きだと言われたときに、わたしが理由で断ってほしくないって思う。告白されてね、その人のことをきちんと見て、返事をしてほしいって思うんだ。自分に好きと言ってくれた人がわたしの好きな人だったら気を遣うでしょう? それがたとえ西原先輩だとしても」


 彼女の言葉は的を得ていた。告白を受けるか受けないかはともかくとして、それが友達の好きな人だったら悩むとは思う。


「わたしの気持ちは届くことがないのは分かっているから、だからもう少しだけ待って欲しいの。好きな気持ちが思い出になるまで。自分勝手でごめんね」

「辛くないの?」


「それはないかな。彼が好きな人と幸せになってくれたらわたしも嬉しい。その相手がわたしじゃなくてもね。わたしじゃ無理なのはわかっているもの」


 その言葉になぜか花火大会の日に逃げ出したことを思い出していた。

 わたしにそんな気持ちが欠片でもあれば、あんな卑怯な行動はとらなかっただろう。

 わたしは西原先輩の好きな人を知ったとき、そう思えるんだろうか。だが、きれいごとでもできるとは言い難かった。自分が敵わないと思う人なら、諦められるかもしれない。でも、それは諦めるであって、応援するとは違う。


 無邪気な印象だった彼女はわたしの想像以上に大人びていたんだと感じさせられた。初対面で彼女の容貌に目を奪われていたが、それだけではなく無意識のうちにそんな芯の強さを感じていたのかもしれない。


 咲の言っていた好きな人って誰のことなのか知りたい気持ちはあったが、それ以上追求しないことに決めた。いつかその日のことをまとうと決めたのだ。


「愛理も西原先輩も悪くないの。二人はわたしの好きな人のことを知っていて、わたしが気にするなら黙っていてもいいんじゃないかって言ってくれたの」

「分かった」


 だが、ふと数か月前のことが頭をよぎる。


「前、咲とあったときもそのことだったのかな」

「何が?」

「愛理の誕生日を買いに行った日、先輩が咲のことを気にしていたんだ。わたしと愛理なら大丈夫かなって」


 だが、自分で口にして矛盾点が気になった。その理屈でいえば愛理の話題がでてくるわけがない。

 彼女は何の話か分かったのか、小さな声を出していた。

 明るかった彼女の表情が暗くなる。そして、彼女は長い髪の毛をかきあげた。


「それはまた別の話だと思う。梅雨の時期にね、二年の先輩がわたしのことをいろいろ言っていて、たまたま先輩が一緒だったんだ。そのことを知っているから先輩はいろいろ気にしてくれていたんだと思う」

「そんなことがあったの?」


 彼女は困ったように笑っていた。

 彼女が人のことを悪く言うところを聞いたところがない。そんな彼女が積極的に誰かに悪く言われていたと言い出すとは思えなかった。


「気づかなくてごめんね。何かあったらいつでも言ってね。頼りないかもしれないけど、できることなら何でもするから」

「ありがとう。そう言ってくれただけで嬉しい」


 咲は可愛いから少しのことで目立ってしまうのかもしれない。

 先輩が彼女を気にかけていた理由を知ると同時に何かすっきりしない気持ちが胸を過ぎる。彼は自分は優しくないというが困っている人を見たら放っておけないんだろう。だが、それ以上の感情が彼女に対してないとも限らない。ただ彼は彼女の好きな人を知っている。


 わたしは何も言えずにすっかりぬるくなった紅茶に手を伸ばしていた。



 夕方前に咲の家を出た。

 学校の前を通り過ぎたとき、わたしの視線の先を二人の人影が横切っていく。西原先輩と、宮脇先輩だった。

 わたしは夕焼けに染まっていく町並みを背景に小さくなっていく二人を見送りながら、心を戒めるように軽く唇を噛み、彼らとは適度な距離をとり、家に帰った。




 その日の夜、お風呂からあがるとその足でベランダまで行く。お風呂でほてった肌を夜の涼しい空気が落ち着けてくれる。額に冷たいものが垂れてきたことで、忘れていたようにぬれた髪の毛をタオルで拭く。


 瞬く夜空を見ながら、脳裏に浮かぶのは夕焼けの中にいた二人の姿だった。


 気持ちを入れ替えるために腕を前方に伸ばし顔を押し当てる。

 頬を膨らませると、息をゆっくりと吐いた。先輩の家のほうから聞きなれた声が聞こえてきて思わず反応する。


 今は夜の八時前。わたしがお風呂に入る前には家にいた弟が隣の家にいてもおかしくはないと思う。

 網戸の開く音が聞こえ、その音が闇に消えないうちに落ち着いた声が耳に届く。


「何かあった?」


 僅かに身を乗り出して横を見ると、そこには白いシャツを着た先輩の姿があった。

 頭にちらつく情景を必死に振り払いながら、ゆっくりと言葉をつむぐ。


「裕樹から聞きました?」


 そう真っ先に言ったのは、さっき先輩の家から裕樹の声が聞こえたからだ。


「真由が怖い顔をしていたって言っていたから」


 怖い顔、か。否定はできないかもしれない。

 やっぱりわたしはまだ咲のようにはなれない。


「相談できることなら、相談に乗るよ」

「考えておきます」


 先輩だけには絶対に相談できないことだった。一年後、先輩と約束をした花火大会の日にはこの気持ちがもう少し穏やかなものになるんだろうか。相手の幸せを望めないまでも、ここまで心を乱さないようになりたい。

 そのとき、少し離れた場所で弾けるような音が響いた。


「今日だったんだ」

「花火大会?」

「そう。あっちの方角かな」


 壁から除く先輩の指先を目で追う。だが、音は聞こえるのに光の欠片さえも見当たらない。


「見に行きたかった?」

「約束は来年でいいですよ」


 早く約束を消化してしまったら、もう先輩と会う理由もなくなってしまう。

 再び花火の打ちあがる音が響く。

 わたしは先輩と、何も言葉を交わすことがなく、ただ時間を過ごしていた。

 彼女にはなれないけど、今は先輩とこうして一緒の時間を過ごすだけで幸せだったのだ。


 夏休み最後の日に、愛理を誘い映画を見に行った。

 ファンタジー映画で、愛理も乗り気だった。映画帰りにごはんをたべたとき、愛理の財布が今まで使っていたものから、依田先輩が愛理の誕生日にと買っていた財布になっているのに気付きいた。


 財布を選んでいた先輩の姿を思い出し、ほほえましく感じていた。


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