一年生と三年生
入学式の日、まだ違和感の残るセーラー服に袖を通し、家を出た。
春の日差しが通路に差し込んでいる。初めての場所で、初めて同じ年の人に会う。そのことは自然と心を躍らせていた。行きは母親と一緒に行き、帰りは別々に帰宅することになったのだ。
「この道をまっすぐ行けばいいんじゃなかったっけ?」
母親は眉をひそめ、何の変哲のない住宅街ばかりの道を眺めていた。
「地図は?」
「置いて来ちゃった」
軽く言い放つ母親の言葉に落胆を隠せなかった。
彼女が持ってきていると思っていたのが甘かったのだ。
スーパーに行くときに迷子になったときのように、この辺りは家々が立ち並び、お店などの目印があまりない。こうした地形はお店の位置を目印にしてきたこともあり十分に堪える。
それは学校までの地図を見ても同様だった。目印となるものがなく、地図上に学校の位置と、適当な場所に目印を書かれてもどこをさしているのか分からない。
「タクシーでも呼ぶ?」
母親は困りあぐねてそう言い出した。
「でも、現在地をどう説明するのよ」
家を出て二十分。本当なら十分ほどで学校に到着しているはずだった。その余計に歩いた十分間で変な場所に行ってしまった可能性がある。通りのタクシーがいればいいが、そんな都合のいいものはどこにもない。
元の位置に戻るにも、今からマンションまで戻ると入学しにには間に合わないだろう。大通りを探し、その辺りをとまっているタクシーを探すしかないと思ったとき、足に影がかかる。
「新入生?」
背後から聞こえてきた言葉に思わず振り返る。そこには学ランを着た男の人の姿があった。彼を見て、思わず声をあげそうになる。
そこに立っていたのは以前迷子になったときに案内してくれた西原さんだったからだ。彼が同じ鞄を持っていることに気付いた。
挨拶を交わすべきなのか、学校へ行けないと返すべきなのか分からずに、ただ彼を睨むようにして見つめていた。その私と彼の間にわたしより長身で細身の女性が駆け寄っていく。彼女は人懐こい笑顔を見せていた。
「偶然ですね。西原さんもこのあたりに学校があるんですか?」
彼はちらっとわたしを見ると、笑顔を浮かべる。
「行き先は一緒みたいだから、学校まで案内しますよ」
彼はそう言うと、わたしたちを先導するように歩き出した。母親は目を合わせる。彼は制服から同じ学校であることを悟ったのだろう。わたし達はその後についていくことにした。
そこから迷路のような道筋を辿ることになった。歩いてきた道を思い描くだけで混乱しそうになりながらも、彼の後をついていく。一言も話をしなかった彼の足は曲がり角を曲がったところで止まった。その先に見覚えのある門構の学校が聳え立っていた。
胸をなでおろす。彼がまた笑っているのに気づいた。彼の印象は穏やかでよく笑う人だった。その彼の背後を同じ制服を着た人が親連れで歩いていく。
学校の中に入ると、彼の足が再び止まった。
「保護者の方は体育館に入ってもらいますから、あそこです」
彼の指差した先にはすぐに体育館と分かる建物があった。だが、そのくすんだ外壁は新しいとは言いがたく、少し老朽化しているようだった。その手前には木々が立ち並び、外観以上にその中は植物で溢れているのだと感じた。
「もし、分からなかったらあそこにいる先生にもで聞いてください」
彼が指したのはスーツを着た男性だった。彼の元に時折、たどたどしい態度の生徒や、親がよっていき、言葉を交わしていた。
母親は西原さんにお礼を言うと、その方角に向かって歩いていく。
彼女を途中まで見送ると、彼の視線がわたしに向き、心臓をつかまれたような気分だった。
「で、クラスを確認しないといけないか」
「自分で確認しますから大丈夫ですよ」
そう言ったのはこれ以上彼に迷惑をかけさせたくなかったから。
彼はそんなわたしの気持ちを見透かしたように苦笑いを浮かべていた。
「いいよ。どうせ途中までは行き先が同じだろうし。俺も一年生と同じ校舎だから」
彼はわたしの答えも聞かずに、颯爽と歩き出す。彼が向かったのは校舎の前にある人だかりだ。そこには木製の老朽化した掲示板が立てかけられていた。そこには一組から五組までのクラスの名前が敷き詰められるように記されている。自分の名前を探そうと、視線を向けたとき、隣から声が聞こえてきた。
「安岡、何?」
突然苗字を呼ばれて、心臓がいつもとは違う鼓動を刻みだす。掲示板を見るのを忘れ、西原さんをじっと見ていた。彼は戸惑いを隠せない表情を浮かべていた。
「下の名前を教えて欲しいんだけど」
彼はそう問いかけながらも目を掲示板に走らせていた。今はクラスの確認をしていたことを思い出し、深呼吸をすると自分の名前をつむぎだす。
「真由です」
やっと一息つき、探そうとしたとき、落ち着いた声が聞こえてきた。
「二組か。じゃ、隣だな。行くぞ」
彼はそう言うと、歩き出した。
彼の言葉の意味がよく分からなかったが、彼の後をついていくことにした。
昇降口で靴を履き替え、ざわつきの残る階段を上がっていく。階段をとにかく上に上がっていったとき、彼の足が廊下にそれた。そんな彼に置いていかれないように着いていく。
見知らぬ人が多くいる廊下の前にある教室の番号を確認すると、私のクラスらしい一年二組の教室の隣は三年一組の表示があった。それが彼の言った隣の意味だったのだと気付いた。
わたしが見ていたプレートを指差し、彼は目を細める。
「君のクラス。あとは多分分かると思うから」
それだけを言い残し、あっさりと自分の教室のほうへ歩き出す。彼の姿が小さくなるのに気付き、慌ててお礼を口にする。彼が振り向く前に周りの視線が集まってきているのに気付いた。想像以上に大きな声をだしてしまったからだ。彼はそんなことにも嫌な表情をせずに笑顔を浮かべ「気にしなくていいから」と言い残すと教室に入っていく。
彼を見送る形にはなったが、一足遅れて教室に入ることにした。
少し古ぼけたドアを開けると、廊下で感じていたのとは別物の好奇心に満ちた人の視線が体に刺さる。だが、すぐにそんな視線を感じなくなる。初めてということで、人が来るたびに気になって見ているのだろう。
気にするのを止め、黒板に張られた席順を確認し、窓際の列まで行く。そのとき、教室の中心の奥にはもう人の塊があった。親しそうに話をしている様子から同じ中学だったのかもしれない。
前から四番目の席に座ることにした。
ざわついた教室で、先ほどの集団から笑い声が漏れる。
知り合いがいることに羨ましいという気持ちはあったが、早々に既にできている集団の中に入っていく勇気もなかった。何もすることがなく、外を眺め空白の時間を埋めようとしたとき、わたしの机の影がかかるのに気づいた。その影に促されるようにして、顔をあげた。
戸惑いがちに差し込む太陽の光が彼女の姿を照らし出すように輝かせていた。その髪の毛は一本ずつが細いのか、繊細な姿を描き出していた。彼女は長い睫毛を震わせ、わたしをじっと見ていた。
ふっくらとした唇から声を漏らすと、踵を返し、前の席の椅子を引き、腰を落としていた。
女の子相手にも関わらず、その綺麗な容貌に一瞬で心惹かれていた。こんな可愛い子がいるんだと思うほど計算された容姿を頭に思いうかべ、自然と顔がにやけていく。さっきまで騒いでいたクラスメイトも一気に静まり返っていた。
彼女の天使の輪を描き出している髪の毛が揺れた。彼女が振り返ったのだ。
そのガラスのように澄んだ目にわたしの姿が映る。その目に鋭さはないのにも関わらず、心臓をわしづかみにされたような気がしてしまっていた。その彼女は僅かに首をかした後、頭を下げていた。
「初めまして。前原咲と言います」
大人の女性とは違う、どこか幼さの残るキーが高く澄んだ声だった。クセはあるが、耳に不快感なくすっと入ってくる。
いつの間にかクラスが先ほどのざわつきを取り戻しているのに気付いた。
「わたしは安岡真由といいます」
彼女は目を細めて笑っていた。無表情でも可愛いことに違いないが、笑顔を浮かべるとその可愛さが二割ほどは増しているような気がした。
彼女はそのまま背を向けてしまう。
今なら話せるのではないかと思い、話すべき言葉を考えるが、舞い上がったわたしの頭では思いつかない。そんなことを延々と繰り返していたとき、隣の席で物音がした。何気なく見ると、背の高い人が息を乱し、机の上に鞄を置いていた。同じ年のはずなのに、彼の容姿は大人びており、わたしよりも西原さんに年齢が近いのではないかと思ってしまうほどだった。
彼は椅子を引くと座る。
あまりクラスメイトをちら見するのも気が引け、今度こそ教室の外を眺めることにした。
しばらく経ち、ガラスの震える音と共に教室の扉が開く。角ばった肩をしたサテン地のスーツを着た男性がのっそりとした足取りで入ってきた。騒がしい教室が彼が歩くたびに静寂に満ち、教卓に立つ頃には音一つしなくなっていた。彼は持ってきた黒の表紙の出席簿を教卓の上に置くと、右手の拳を口元に当て、咳払いをした。彼は自分が担任であること、大村という名前、今日の流れを大雑把に説明していった。




