先輩の携帯番号
お昼時、自動販売機の前には人だかりができていた。わたしは緑茶が売っている自販機の前に立ち、順番が来るのを待っていた。愛理と咲は別の自販機に並んでいる。
わたしの前に立っていた人が横にそれ、やっと順番が来たので、前にコインを投入しようと、財布を開けたときだった。甲高い音とともに財布から銀色や銅色の小銭が出て来て、あっという間にコンクリートに散らばる。
落ちた小銭を拾おうと屈もうとしたとき、目の前にすっと銀色の重みのある硬貨が二枚差し出された。
目の前に立っていたのは肩の辺りまで髪の毛を伸ばした何度か遠くから見たことのある女性だった。遠くから見ても綺麗な人だと思っていたが、近くで見ると、その睫毛の長さが際立ち、顔のパーツが想像以上に整っていた。
「わたしが拾っておくから、先に購入しておいたほうがいいよ。後ろに並んでいる人がいるし、また並ぶのは面倒でしょう?」
わたしが突然のことに動けないでいると、彼女はわたしの手に硬貨を押し込めて、首を後方に向けた。促され、後ろを見ると、髪の毛をショートにした女性がわたしを怪訝そうに見つめていた。
遅れて彼女の言葉を理解し、買うつもりだったお茶を購入する。出てきた商品と小銭を手に取ると、脇に抱え、列から離れた。
さっきの女性は黙々とした表情で、わたしの落とした小銭を拾っていく。最後と思われる十円玉をつかみ、辺りを見渡すと、左手の小銭をわたしに渡す。
「これで全部みたいだね」
わたしは彼女から借りた分の同額の小銭を彼女に渡す。
「さっきのお茶の代金。迷惑をかけてごめんなさい」
彼女の指先がわたしの制服の腕をつかんだ。突然、腕をつかまれ、びくっと反応する。
「ここだと通行の妨げになるから、向こうでお話しましょう」
その言葉に我に返る。確かに自販機の立ち並ぶこの場所は人通りが多く邪魔になる。
通路の端まで来ると彼女は肩をすくめていた。
「気にしないで。誰にでもこういうことってあると思うから。困ったときはお互い様だと思うの」
得意げになることもなく、当たり前のように澄んだ声で答える。彼女が肩をすくめると、その艶やかな髪の毛も揺れていた。外見だけではなく、中身も備わっている人だと気付き、思わず彼女に見入ってしまいそうになる。
「真由」
わたしを呼ぶ声に反応し、振り返ると、既に飲み物を手にした咲と愛理の姿がある。
「依田君の妹さんと知り合いだったのね」
「はい」
「そっか。彼女、いい子よね」
わたしがその言葉にうなずくと、彼女は目を細め、「じゃあね」というと、わたしが並んでいた自販機に並んでいた。
わたしはもう一度彼女に頭を下げ、愛理たちのところへ歩いていく。
「さっき宮脇先輩と一緒だった?」
「うん。お金を落としたら拾ってくれたの」
「さすが宮脇先輩だよね」
笑顔でそう返す愛理を見ながら、先輩の好きな人の話が頭を過ぎり、彼女がすごくいい人なのに、寂しいような、切ないようなそんな気持ちを感じていた。
やわらかそうな髪をした、優しい雰囲気の女性。人の性格というのは見た目や雰囲気に意外と出てくるものだが、表面的な優しさでは絶対に出すことのできない、穏かな毒々しさのない雰囲気を持っていた。彼女と交わした他愛ない言葉が耳の奥に残る。
「裕樹、そろそろ携帯は置きなさい」
母親の言葉で我に返る。わたしの目の前にはから揚げに、サラダ、野菜スープなど夕食の食事が並べられている。
今日、初めてあの先輩と話をしてずっと彼女と先輩のことが頭から離れなかった。彼女が先輩の好きな人ではないかとかんぐっていたのだ。人を好きになるということが具体的にどういうことなのかは分からないが、冷静に見ると彼女ほど魅力に溢れた女性はなかなかいない気がしたのだ。
裕樹は母親の言葉に適当な返事をすると、携帯をテーブルの上に置いた。わたしが買ってもらったのと同時に、親に買ってもらっていた黒の携帯。彼自身が望んだわけではなく、親に嫌々持たされたといった形で手に入れた携帯だったので、それを置いたままどこかに出かけることも少なくなかった。だが、ここ最近、携帯を頻繁に触ることには気付いていた。
あまり人に執着しないのか、興味がないのか、人との距離を適度に保つ弟にしては珍しいことだった。
「学校の友達とメールしているの?」
「稜と」
彼は首を横にふり、わたしの問いかけに答える。
その名前にぼうっと聞いていた頭が過剰に反応する。
「隣の?」
「そう」
一緒に買い物に行ってから、先輩と裕樹が仲がよくなったことは知っていた。だが、携帯の番号をやり取りしているとは考えもしなかったのだ。そのことに反応したのはわたしが先輩の番号を知らないからだ。
先輩の家は隣でチャイムを鳴らしたり、ベランダで会おうと思えば会える。家の番号も知っている。だが、意識すると知りたいという欲求に刈られる。
痺れを切らした母親に早く食べるように促され、箸を手に取る。お茶碗を持ち、ごはんをたべながらも、先輩の電話番号のことばかりを考えてしまっていた。
友達ならやり取りをしていてもおかしくないし、軽く教えてくださいといえば教えてくれるかもしれない。だが、先輩を目にして言い出せるとは思えなかった。
「そんなに知りたいなら教えてやってもいいよ」
から揚げをつかんだ裕樹が挑戦的な目でわたしを見る。
「何を?」
「稜の電話番号」
「いいよ。別に」
裕樹が先輩から教えられたのは先輩が教えてもいいと思ったからに違いない。わたしは先輩から教えてもらったわけではない。そう思うと、今朝の話はただわたしを気遣って言ってくれたのか、冗談としか思えなくなっていた。
複雑な気持ちを抱え、首を横に振ると、あまり考えないことにした。
朝、家を出たとき、自然と先輩の家に目を向けていた。閉ざされた先輩の家の玄関を見ながら、わたしと先輩みたいだと考えてしまっていた。
嫌なことを考えていたことに気付き、鞄を持っていないほうの右手で頬を抓ると、目を強く閉じ、学校への道を急ぐことにした。もうすぐ先輩が家を出る時間だということを知っていて、彼と会い変な態度を取ってしまうのが怖かったからだと思う。
補習が終わると、一気に教室内が騒がしくなる。わたしは持っていたテキストの上に顔を伏せる。
補習の時間もほとんど勉強内容が頭に入ってこなかった。
机に影がかかり、顔をあげると愛理が立っていた。
「どうした? 元気ないね」
「そんなことないよ」
その理由を言えるわけもなく、英語のテキストを机の中に片付けようとしたとき、愛理の携帯が彼女の胸ポケットの中で小刻みに震えていた。彼女は不思議そうな顔でそれを手にすると、親指で携帯を開ける。
「お兄ちゃんからだ。珍しい」
彼女の親指が携帯のキーの上で動く。
わたしが窓の外に視線を向きかけたとき、驚いたような愛理の声が聞こえてきた。
「西原先輩が真由に渡したいものがあるんだって。今から廊下まで来れるかって」
その言葉に反応して背筋を伸ばし思わず立ち上がる。足に椅子が辺り我に返り、愛理を見る。彼女は呆れたような顔をして笑っていた。
「行ってきなよ。でも、先輩に携帯の番号を教えてなかったんだ」
昨日のことを思い出し、気にしてない素振りで返事をする。
だが、愛理はわたしの気持ちに気づいたのか、わたしの肩を軽く叩く。
「教えておいたほうが便利だと思うよ。真由も知りたいんでしょう」
「そうだね」
全てを見透かされてそうな気がして、彼女の言葉に頷いてはいたが必要以上の言葉は喋らなかった。先輩に呼び出され、それを聞けずに教室に戻る気がした。聞くことで先輩に意識をしていることばばれるのではないかと自意識過剰なことを考えていたからだ。
「携帯、忘れているよ」
やけに察しがいい愛理にそう声をかけられ、渋々携帯を手に教室を出た。
それを体の影に隠し、教室の扉を開けて、外を覗くと、西原先輩と依田先輩がいた。西原先輩は黒のコーティングされた紙袋を手にしていた。わたしが二人に寄っていくと、依田先輩はわたしと先輩に声をかけ、教室に戻っていく。
右手に握りしめた携帯の感触を確かめながら、できるだけ笑顔で問いかける。
そんなわたしの目の前に紙袋が差し出される。意味が分からずに反射的に受け取り、中身を確認し、顔が赤くなるのが分かった。
「今朝、たまたま家の人と会って、お弁当を忘れていったと聞いたから預かってきたんだ。早めに届けたかったんだけど、学校着いたのがぎりぎりで悪かったな。弁当を持っていることだけでもメールしようと思ったら、メアド知らないことに気づいて驚いたよ」
先輩はわたしに携帯の番号などを教えなかったわけではなく、教えているものだと思っていたのだと知り、さっきまで胸の中で渦巻いていた複雑な気持ちが一掃されていくのに気付いた。
そのとき先輩の教室の扉が開き、七人ほどの男女の集団がまとまって出てくる。そのうち何人かがわたしと先輩を見つめていたが、その中で肩のラインで切りそろえた人が興味本位とは違う、鋭い目つきでわたし達を見ているのに気付いた。
わたしたちの前を無言で通り過ぎ、階段の踊り場に行く。しばらくして階段を降りていく音が聞こえた。無言の圧力をかけられた気がし、先輩と電話番号とアドレスを交換すると、教室に戻ることにした。
教室に入ると先輩の携帯の番号とアドレスをじっと見つめて、思わず顔をにやつかせる。
用事がないので、メールを打ったり、電話をかけることはできないけど、それでもこれでいつでも先輩と連絡が取れるのだと思うと、心を躍らせていた。




