第一章 『魔界への誘い』③
灰となった『召喚大図』を、風が何処ともなく運んで行く。それを目で追うこともなくミカは、今も魔法円の中心に立つ男を、期待を込めて見つめた。
一方、彼女の瞳の奥にある想いなど知る由もなく、男は言った。
「では、我は魔界へ帰る。書物なき今、二度と会うこともなかろう。さらばだ」
「え? ちょ、ちょっと待ってください!」
慌ててミカが呼び止めた。
「何だ?」
「あの、助けてください。私のお母さん、病気で。助けてください」
「何故だ?」
「何故って、それは……」
ミカは言葉に詰まった。
「何ゆえ、我が貴様の母親を助けねばならんのだ。答えてみよ」
「……」
重ねられる尤もな言い分に、ミカは返す言葉なく俯いた。
男は続けた。
「人間という生き物は、実に浅ましく、また、厚かましい。古より現代まで一片の成長さえ見られず、それは、永久続くに相違ない。しかし、それでも神は、三千有余年の時を経てもなお、貴様ら人間に味方している。我にはまったく理解できぬ考えだ。ゆえに、小娘、母親を助けたく思うのならば、我ら魔の物ではなく、神に祈ることだな」
「もう祈りました」
ミカは顔を上げてそう答えた。
「何?」
「祈ったんです。神社だけじゃなくて小さな祠も巡って、全部。でも……」
「でも、何だ?」
少し興味を惹かれたように、男は先を促した。
「でも、それは、こちらから一方的に祈っているというだけで、約束ができたわけではなかったんです。私は、お母さんがこれからも元気に生きていけるという約束が欲しいんです」
「会えぬ神への祈りよりも、会うこと適う悪魔との約束。そういうことか?」
「はい」
ミカはきっぱりと頷いた。
「……なるほど。では、聞こう。貴様は、神よりも我の力を信じるというのか?」
「はい、そうです。魔法は見せてもらったし、何よりも、こうして会うことができたのだから信じます」
「我は、魔の物だ。それでもか?」
「もちろんです。魔物だろうと何だろうと、お母さんの病気を治してくれるのならば、それは、私にとっての神様です」
ミカがまっすぐに見つめてくる。
男は、その顔にほんの僅かな笑みを浮かべ、告げた。
「よかろう。貴様の母親、我が助けてやる」
「本当ですか?」
「真だ。だが、人間界の医学とやらで母親の命が救われるのであれば、我が力は素より必要ない。先ずは、その件、確かめさせてもらうぞ」
「はい。お願いします」
ミカが返事をすると、男はおもむろに両眼を閉じた。すぐさま、まるで何かが見えているかのように話し出す。
「場所は、この病院。南病棟の五〇二号室。そこに、天音美和なる女がいるが、それが貴様の母親で間違いないな?」
「は、はい。そうです」
ぴたりと言い当てられ、ミカは驚いた。だが、彼女が本当に驚くのはこれからであった。
「なるほど、確かに重い病を抱えている。しかも、人間にとって最も肝要だとされる心の臓の病だ。明日、切開手術を行う手はずとなっているようだが……」
そこで一度言葉を切ると、男は静かに目を開いた。
「どうしたんですか?」
不安げに問うミカに、男は答えた。
「結論から伝えてやろう。近きうちに、貴様の母親は死ぬ」
ミカの顔から血の気が引いた。
「え? 嘘」
「魔の物にとって、人間の死は好事。嘘などつかぬ。明日の手術により医者は、すでに手の施しようがないと気づくことになる。しかして、その二日後、貴様の母親は死ぬのだ。つまり、今日を含めても、あと四日の命ということだ」
「そ、そんな……。でも、貴方が助けてくれるんでしょう? 大丈夫ですよね?」
懇願するようにミカが尋ねると、男は言った。
「無論だ。しかしながら、我も魔の物。当然、只というわけにはいかぬ。よいか、よく聞け。母親を助けるという約束は、魔界においては契約に相当する。約束は対価を必要とせぬが、契約はそれを伴う。分かるか?」
「はい。お母さんの病気を治してもらう代わりに、何かを差し出せ。そういうことですよね?」
「ほう、小娘の割には理解が早いな。して、母親の命の代わりに、貴様は我に何をよこす?」
『召喚大図』を手にした時から、いや、それよりも前から、ミカの覚悟は決まっていた。
そのため、彼女は迷いなく返した。
「私の命を差し上げます」
微かに男の眉が上がった。
「母親の身代わりになる。そう言うのか?」
「はい。もしかして、私の命だけでは足りませんか?」
「いや、そのようなことはないが……」
語尾を濁すと、男はちらりと空を見上げた。
しかし、すぐにミカへと視線を戻す。
「よかろう。母親の命と交換に、貴様を貰い受けることにする。それで、契約は成立だ」
そう宣言すると、男は魔法円から歩み出た。そのまま、ミカのほうへと真っ直ぐに近づいてくる。
靴音ひとつ立てずに、男は、彼女の目の前までやってきた。
「これより、貴様は我のものだ。異論はないな?」
問われる最後の通告にも、ミカは臆することなく男を見上げて頷いた。
「左様か。……では」
そう言うと男は、マントから右手を伸ばし、それをミカの頭の上に乗せた。
まるで氷を当てられたかのようなその冷たさに、思わずミカは身震いした。
だが、それは先ほど『召喚大図』を灰にしたあの右手である。冷気とは対極の炎に包まれる自分の姿を想像し、彼女は死の予感というものを肌で感じた。
「さらばだ」
短い別れの言葉とともに、男が右手に力を込める。
ミカは、反射的に瞳を閉じた。
直後、大量のどろりとした液体のようなものが、脳天より全身に流れ込む感覚を受けた。
「あっ」
小さな声が漏れると同時に、四肢の力が抜ける。彼女は、重力のままにうつぶせで倒れて行った。
抗うことなく、コンクリートの地面へと落ちようとするミカ。それを途中で男が支えた。
男は、ミカを両腕で抱きかかえた。そして、魔法円へと踵を返し、その中心にそっと彼女を寝かせた。
ぴくりとも動かないミカをその場に残し、魔法円より外に出る。
男は唱えた。
「我、ルシファーの名において命ずる。我が力受け継ぎし人間を、この時をもって魔界へと誘え。その名は、天音ミカ」
次の瞬間、ミカの体が地面へと沈み始めた。それは、魔法円が自らの意思を持ち、彼女を呑み込んでいるようにも見えた。
やがて、ミカは屋上から完全に姿を消した。そこには、彼女により召喚されたルシファーだけが残った。
おもむろに天空を仰ぎ、ルシファーは語る。
「魔物である我との契約に、あの小娘は一片たりとも疑いを持つことはなかった。それなのに、何故、そのような純粋な心を持つ者を貴様は悲しませる。何ゆえ、願いを聞き届けてやらぬ。消える命が必要ならば、腐敗したこの人間界、悪行働きし者たちが海山と転がっているではないか。その者たちを先に殺すのが、世の理というものではないのか? 答えてみよ、神よ」
しかし、天からは何も返ってはこなかった。
「ほう、都合の悪きことには黙りか。……まぁ、よい。だが、小娘は決して貴様の下には返さぬぞ。何せ貴様は、あれの母親を見捨てようとしたのだからな」
吐き捨てるようにそう言うと、ルシファーは魔法円に目をやった。
「ん?」
何かを見つけ、そちらへと歩み寄る。
それは、紙箱。当初、ミカが、ルキフゲ・ロフォカレを召還するつもりで用意した供物の入った紙箱だった。
ルシファーが箱を開いて中を確かめる。
「甘味か」
そうひと言呟くと彼は、プリンの入った紙箱も、ミカと同じく魔界へと送ったのだった。
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これにて、第一章は終了となります。引き続き、よろしくお願いいたします。




