第一章 『魔界への誘い』②
「……できた」
そっと呟き、ミカは小さく息をついた。それから、プリンの入った紙箱を手に取り、完成したばかりの魔法円を踏まぬよう気をつけながら中央に置く。準備は全て整った。
ミカは魔法円から出た。静かに目を閉じ、心を落ち着かせる。先ほどまで喧しいほどに鳴いていた蝉が、ぴたりとその音をとめた。
母親ゆずりの大きな瞳をゆっくりと開く。いつの間にか風もやんでいた。
時までもとまったのではないかと思わせる静けさの中、彼女は告げた。
「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。出でよ、ルキフゲ・ロフォカレ」
次の瞬間、奇跡は起きた。魔法円の上に黒い靄が広がり始めたのである。
靄は、見る間に魔法円をドーム状に覆い尽くし、次第に中央へと集まってくる。やがて、それは渦を巻き、一気に上空へと駆け昇った。
あんぐりと口を開け、ミカが空を見上げる。黒い靄は、花火がその終わりを迎えるかの如く周辺の大気に溶け込み、消えた。
ミカは魔法円へと視線を戻した。
その途端、
「あっ」
彼女は思わず驚きの声を上げた。二メートルはあろうかという長身の男が、そこに立っていたのである。
男は、父の忠志に近く、四十前後の年齢であった。黒褐色の長髪には軽いウェーブがかかり、全て後方へと流れている。夏だというのに、首より下は漆黒のマントで完全に覆われていた。
見た目は人間だが、明らかに異形の者。突如現れたことを差し引いたとしても、男から醸される雰囲気が、そうミカに伝えていた。
男は、魔法円の中心から、じっとこちらを見つめていた。切れ長の両眼は、視界に入るもの全てを拒絶するかのように鋭く、冷たかった。
まさに蛇に睨まれた蛙。ミカは身動きできなくなった。
瞬きさえも忘れる彼女の前で、やおら男は尋ねた。
「小娘。我を呼びつけたのは、貴様か?」
「は、はい。そうです」
「名は?」
「ミカです。天音ミカ」
「アマネミカ?」
「そうです。こんな字を書きます」
そう言うとミカは、コンクリートの地面に“天音ミカ”とチョークで自分の名前を書き記した。
すると、男は急に気色ばんだ。
「天音、ミカ。……天来の福音を齎す天使、ミカエル」
そんなことを呟きながら、まるで恨みでも込めるかのように彼女の名前を睨みつける。
「あの、ミカエルではなくて、ミカです」
恐るおそるミカが訂正するが、その声は届いていないようだった。
次に、男は、近くに置かれたままの『召喚大図』へと視線を移した。
「あの書物を用いて我を召還したか。小娘、どこであれを手に入れた?」
すでに平静に戻っている様子でそう聞いてくる。
ミカは正直に答えた。
「はい。あの本は、学校の図書準備室で見つけました」
「学校、か。なるほど、それは盲点であった」
憎々しげに男が吐き出す。
その声色に怯えたミカは、
「……すみません」
と意味も分からずに謝った。
「まぁ、よい。こうしてしまえば、全て終わる」
ミカを一瞥すると男は、再び『召喚大図』へと視線を戻した。それから、体の正面にあるマントの隙間より右腕を伸ばす。
黙って見守るミカの前で男は、人差し指を立て、その指先を本へと向けた。
指先から小さな赤い光が放たれる。赤い光は一直線に飛んで行き、『召喚大図』を炎で包んだ。
瞬く間に、本が灰へと姿を変える。それは、ミカにとって生まれて初めて目にする魔法であった。手品とは違い、言葉だけのマジックとも違う。そこには、決してタネなど存在しない。正真正銘の魔法であった。
人知を超えた能力を目の当たりにし、ミカは男に恐怖を覚えた。だが、同時に嬉しくもあった。彼ならば母の手術を成功させることができる。いや、それ以前に、病そのものを治すことだってできる。そう思ったのである。
【一口メモ】
今回の話の中で登場するミカの台詞、「エロイムエッサイム」ですが、私たちの年代(40歳以上)だと水木しげる先生の『悪魔くん』を思い出すのではないでしょうか。
「エロイムエッサイム」は、本来、「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」までが一文となっており、18世紀にフランスで流行したグリモワール(魔術書)に、悪魔召喚の際の言葉として実際に書かれていたものです。
つまり、現在のような情報社会ではなかったあのころに、水木先生は、フランスの魔術書についてご存じだったということになります。先生の博識には頭が上がりません。
因みに、魔法円の前で「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」と魔物を召喚する時、本当は、雌鳥を引き裂きながら行わなければならないとか……。ハードルが高いです。




