第五音
初めての本番を終え、複雑な感情を胸に緑は月曜の朝を迎えた。
通学の道中、潮風が肌に触れると指先がピリピリと痺れを感じさせる。
平常心で、緑はそう自分に言い聞かせて教室の扉を開ける。
いつものように騒がしいクラスメイトの雑談。その喧騒をすり抜け、席へと足を運んで行く。椅子に手を伸ばした時、誰かがそこに立っていることに気が付いた。顔を上げて見るとそこには直樹の姿があった。
緑の足はピタリと止まった。いつもなら「おはよ、緑!」と話しかけてくるはずの彼が、今はポケットに手を入れたまま、床をじっと睨み付けている。その佇まいは、明らかにいつもと違う、張り詰めた空気をまとっていた。
「おはよう。直樹」
緑が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた
その顔は、怒っているようで、どこか傷ついているようでもあった。
「なぁ、緑。話しがあるんだ」
直樹はそれだけ言うと、緑の腕を強引に掴み、人の少ない教室の角、窓の方へ引っ張っていった。
「マジで、お前何やってるんだよ」
彼は声を潜めながらも、今にも胸ぐらを掴みかねない勢いでまっすぐ睨み付けてきた。
「一昨日さ、ばあちゃんの見舞いで近くの老人ホームに行ったんだ。ちょうど秋のイベントのタイミングだったんで、ばあちゃん音楽好きだからさ、聞かせてやろうってホールに連れていったんだ。そしたらどうだ、お前がピアノを弾いてたんだ」
直樹の言葉に、空気が凍りつく。気づかなかった。
「なぁ、緑。お前ピアノなんて弾けたのかよ。楽譜なんて読めないって授業で言ってたよな。」
少し掠れた声が、緑の耳の奥をチクチクと刺す。
毎日学校に行っては顔なじみの連中とハメを外す。家に帰れば、誰もいない部屋で飯も食べずにそのまま寝入る。そんな色褪せた日々を、直樹とはずっと共有してきたはずだった。あんなに退屈していた親友が、自分の知らない場所であんなにも夢中になれることを見つけていたのだ。直樹が受ける衝撃は、想像するに余りあった。
「それに…」
彼の視線が緑から外れ、教室の一角、自分の席でいつものように静かに文庫本を開いてる南那へと向けられた。
「いつから、そんな関係になってたんだ。別に攻める気はないんだが、説明くらいあっても良いんじゃないか」
親友からの問い詰めに、緑はどう答えるべきか迷い言葉を詰まらせた。
パタンと本を閉じる音が教室の喧騒を割って響いた。その後すぐに南那が二人の間に割って入って来た。
教室では滅多に口を聞かない南那が自ら立ち上がって、会話に入っていったのだ。それだけで、周囲のクラスメイトたちは静まり返った。
彼女は一切動じることなく堂々とした佇まいのまま、まっすぐに直樹の視線を受け止め、言葉を交わすことはなくその瞳だけで会話する。
「そんな関係と言われても困るわ。私たちはただ…」
南那はそこで言葉を区切ると、ほんのわずかに、唇の端を不敵に吊り上げると
「…世界を塗り替えるための。相棒よ」
とわざとらしく大声で言った。南那はふっと不敵な笑みを深くすると直樹の目を見据えたまま、今度は廊下まで響き渡る声で、さらなる爆弾を投下した。
「そんなに疑うなら、私たちの企みを教えてあげるわ。今日の放課後、音楽室に来なさい。私たちのピアノを、その耳で直接感じればいいわ」
「…ちょっと待てよ」
一昨日初めて本番を終えたばかりなのに、今度はクラスの前で弾くなんて。緑は到底心の準備ができているわけがない。緑はすぐに彼女のことを止めようとした。しかし、南那は止まらず、周囲のクラスメイトに堂々と宣言を続ける。
「あなたたちもよ。私や緑のことをひっそり笑うなら、まずは確認してからにしなさい。」
その挑発的な誘いに、教室の喧騒は一気にヒートアップした。
「マジ。あの緑がピアノ?」「放課後、行ってみようぜ」と野次馬根性の混じった声が広がっていく。
直樹は挑発への怒りよりも、南那のその圧倒的な自信に好奇心が勝ち、複雑な感情をいだいていた。予鈴のチャイムが鳴り響き、各自が席へ戻っていく。緑の心臓は早鐘を打っていて、後悔で痺れていた指先はいつしか別の熱を帯びて震えていた。
昼間の時間はあっという間に過ぎていき、その間も、噂話は学校中へと広がり聴衆の期待は膨らむ一方だった。
放課後を告げるチャイムが鳴ると生徒は次々と渡り廊下を越え、音楽室へと向かっていく。音楽室にはほぼ学年の半分ほどの人数が集まり廊下にまで溢れていた。
周囲は文化祭の時のような盛り上がりを見せていた。
緑は、その群衆の最前列に立つ直樹の姿を見た。
直樹は腕を組み、壁に背を預けたまま、じっとただこちらを見てきている。その目には、怒りや迷いだけでなく。複雑に混ざりあった中にある「好奇心」が見え隠れしていた。
「……緑、行くわよ」
南那の静かな声に弾かれ、緑は重たい足取りでグランドピアノへと歩みを進めた。
二人がピアノの前に並んで座ると、室内のざわめきはピタリと止まり、何十もの視線が向けられる。緑の指先の震えはピアノの前にくるとピタリと止んだ。前回の演奏での失敗、今度はもっと多くの人が見ている。
大きなプレッシャーを感じ、緊張しながらも興奮していた。
南那が鍵盤の上に手を添える。彼女の横顔には微塵の怯えも見えず、やはり圧倒的自信で満ちていた。二人は視線を合わせ、小さくうなずく。
二人は同時に、鍵盤を叩いた。
重厚で、哀愁を帯びた「ハンガリー舞曲第五番」の冒頭が、音楽室の壁を抜け廊下間で響き、聴衆の鼓膜を震わせた。
ジャン、ジャ、ジャン、、
重く、引きずるようなシンコペーション。
直樹が老人ホームで耳にした演奏とはまるで違った。二人の手が織り成す音の厚みは、あの日のものを遥かに凌駕 していた。
緑の奏でる高音が、鋭く、それでいて華やかに空気を切り裂く。
それに合わせて南那が、丁寧な指使いで鍵盤を底まで深く沈み込ませるように、重低音を響かせて緑の音を煽り立てた。二人の演奏は、高音と低音がピッタリと合わさり。まるで一人の演奏かと聴衆に錯覚させた。
そして、メロディは哀愁を帯びた旋律から一転して、突然の跳躍をみせる。
小気味よく跳ねるパッセージ。二人の息は完璧にシンクロしていた。鍵盤を離す指先の残像までももが鏡合わせのように美しい。
直樹はその演奏につい見入ってしまった。それは演奏のようでまるで踊っているかのようで。周囲のクラスメイトたちもその場で立ち尽くし言葉を失っていた。毎日一緒にハメを外し、退屈な日々をただ消費していたはずの緑が、そこにはいなかった。鍵盤の上を狂気的な速度で走る指。音楽に没頭し、見たこともないほど眩い光を宿した瞳。
曲は、急激な緩急へと差し掛かる。
引き延ばされるようにテンポが急激に遅くなり、嵐の前の静けさのような、息の詰まる緊張感が音楽室を満たした。誰もが息を止めた瞬間。
視線を交わした二人の手が、再び弾けた。
accelerando(急加速 )していく旋律。
緑の音が世界を塗り替え、南那がそれを加速させていく。低音と高音、二つの意思がぶつかり合い、混ざり合いながら、うねりを上げて部屋の天井へと駆け上がっていく。もはやそれは単なる演奏ではなく、二人の呼吸そのものだった。
連弾によって何倍にも膨れ上がった音の嵐が、聴衆を、直樹を、圧倒してゆく。
色褪せた暗がりにいたと思っていた親友は、もう手の届かない鮮烈な「世界」で、命を燃やしていた。
そして—―、
ジャジャジャン!!
激しい上昇気流の果てに、最後の和音が爆音となって室内に炸裂した。
余韻が、鼓膜の奥でジリジリと鳴り響いている。
静まりかえる音楽室。
緑と南那の手がゆっくりと鍵盤から離れる。誰一人として声を出せず、ただ全員が、雷に打たれたように立ち尽くしていた。
音楽室が静寂で満たされたとき、誰かが大きな音で拍手を始めた。全員がその音を目で追うとその場所には直樹が立っていた。朝の怒りや戸惑いはもうひとかけらも残っていなかった。ただ純粋に、親友の圧倒的な演奏に心を震わせた男の、晴れやかな笑顔があった。
「マジで鳥肌立ったわ! 緑、お前いつの間にこんな凄いことできるようになってたんだよ! 」
直樹がいの一番に放ったその絶賛の声で、さっきまで緑たちを遠巻きに眺め、ひっそりと笑おうとしていたクラスメイトたちも、今や目の色を変えて二人を囲んでいた。
「緑、本当にかっこよかったぞ! 」「粕谷さんも、演奏上手だったよ!」
一瞬にして、音楽室は拍手と歓声に包まれた。廊下で身を乗り出すようにして聴いていた他クラスの生徒たちまでもが、興奮気味に騒ぎ立てている。
「二人とも息ぴったりじゃん!」 「ピアノってあんなこと出来るんだな」
口々に飛び交う称賛の嵐の中で、緑は呆然としながらも、じわじわと胸の奥が熱くなっていくのを感じていた。恐怖で痺れていたはずの指先が、今は心地よい達成感で震えている。
緑は隣の南那を盗み見た。
南那は、周囲の熱狂に押されることもなく、相変わらず凛とした佇まいのままだった。しかし、その唇の端は、朝の不敵な笑みとは違う、どこか満足げで、ほんの少しだけ誇らしげな弧を描いていた。
「なぁ、今の曲なんて曲?クラシックだよね」
二人の演奏に心を掴まれたクラスメイトの一人が、キラキラ目を輝かせながら二人に問いかけた。南那がその問いに答えようと、口を開いた時。
「――ブラームスの、『ハンガリー舞曲第五番』、だよ」
廊下の人だかりを割って、少し舌足らずな、けれど妙に透き通った声が音楽室に滑りこんで来た。
全員の視線が声の主の方へと一斉に向けられる。
人だかりを分けて入って来たのは、都会の洗練された空気を纏いながらも、どこか掴みどころのない佇まいをした人物だった。その人物は、少し首を傾げながら、どこか楽し気に、それでいて専門的な響きを帯びた言葉を続ける。
「ロマの音楽、いわゆるツィゴイネル・ワイゼン の旋律をブラームスが編曲したやつ。テンポが急に遅くなったり、狂ったように速くなったりする、すっごく情熱的な曲なんだよねぇ。……でも、今の二人の演奏は、ただのブラームスじゃなかった。お互いの音を殴り合って、新しい色に変えちゃうみたいな……すっごく、ゾクゾクしちゃった」




