第四音
弾けるような清々しい和音が、狭い多目的ホールに響きわたった。
鍵盤の右側、高音域を駆使する緑の指先が、ステップを踏むように軽やかに跳ねる。そのすぐ隣、低音を支配する南那の左手が、力強くも温かいベースラインを刻み、ホールの空気を心地よく震わせていた。
ペダルが踏み込まれるたび、グランドピアノの弦が豊かな倍音を響かせる。まるで、五線の上の音符たちが金色にきらめきながら空間を舞い踊るかのようだ。
観客たちは、目の前で繰り広げられる、高校生2人による息の合った瑞々しいセッションに、笑みを浮かべ聴き入っていた。
ホールに鳴り響いているのは、誰もが一度は耳にしたことがあるあの情熱的で陽気な旋律。
ブラームス、『ハンガリー舞曲第5番』。
なぜ、緑たちがこの場所で、この曲を弾くことになったのか。
―—―—―—―—
「ハンガリー舞曲第5番?」
放課後、手元灯のオレンジ色の光の下で、緑は手渡された新しい楽譜を見つめて眉をひそめた。これまで二週間かけて必死に読んできた南那の曲ではなく、そこにははっきりと、有名なクラシックのタイトルが印字されていたのだから。
「ええ。来週末の本番は、これを弾くわ」
南那はピアノ椅子に静かに腰かけたまま言った。
「せっかくあっちの曲の譜面が読めるようになってきたんだ、それに今から一週間で別の曲を譜読みするのか。確実に間に合わないし出来たとして、映えないだろ」
「問題がないとは言わない。だけど、あなたの耳ならとっくにメロディが頭に入っているはず、あとは練習あるのみ」
彼女はまた悪戯っぽく笑った。
「この曲なら、世界中の誰もが知っているわ。もちろん、来週末にお客さんになるご年配の方々もね。……つまり、誰もが知っている有名な曲だから、一音でもミスをするとすごく目立つの。誤魔化しは通用しない」
「すごく、プレッシャーだな」
「初心者が本番で緊張しないわけがないもの。これは私からの最低限の課題よ。それに」
南那はトントンと、指で楽譜の速度記号を叩いた。そこには「Allegro molto」の指示がある
「この曲はテンポがそれなりに上下するわ。ゆっくりになったら、 次には弾けるように加速する。それを、2人でピッタリ息を合わせて弾ききるの。最高にワクワクするでしょ」
物静かな彼女の言葉の裏には、かつて世界に君臨したピアニストとしての、エゴと情熱が見え隠れしていた。
ただのボランティアの演奏会。しかし、最初から彼女は生ぬるい演奏をする気なんてなかった。常に全力で演奏する。誰もが知る名曲だからこそ、自分たちの音で鮮やかに彩り、完璧に弾ききって観客を巻き込もうとしている。
「…わかったよ。ただ、合図はお前が出せよ」
「ええ、その代わり。一瞬でも見逃すことなくついて来なさいよ」
そう言って、南那はつと楽譜に視線をおとした。
それからの新曲の譜読みと合わせ練習は、それまで以上に厳しいものになった。
ハンガリー舞曲第5番の難しい部分は、彼女の言う通り、伸縮するそのテンポにあって、純粋にメトロノームだけでは完成できない。
南那はメトロノームを止めて緑に言いつけた。
「これからは、あたしとあなたの感覚が頼りよ」
彼女の出す低音が、急激に重さを増して歩みを遅らせたかと思えば、次の瞬間には弾けるようにしてトップスピードへと加速する。
互いに流れを合わせて演奏しなければならない。少しでもズレてしまえば、演奏としての価値、評価は地に落ちてしまう。
「良い?もう一度やるわよ。今度はきちんと私の音を聞いてタイミングを合わせて」
「合わせようとはしてるって」
緑はそう言いながら南那の横顔を盗み見た。
楽譜のグリッドに無理やりハメ込まれた緑の不格好な手が、もう何時間も悲鳴を上げている。楽譜にびっしりと書きなぐった黒インクのメモを何度も見返した。頭の中に出来ているビジョンに、彼の身体はどうしても追いつかなかった。
技術的なもの以外でも課題があった。1台のピアノを2人で分け合う連弾は、物理的な距離が圧倒的に近かった。テンポが上がり演奏に拍車がかかると、鍵盤の上で緑と南那の手が触れ合いそうなほどに近くなる。その度に緑は演奏が一瞬止まってしまっていたのだ。
カツン。と小さく鍵盤が空を切る音がして、またメロディが途切れた。
「…緑」
南那から冷ややかで、見透かしたような声が飛んでくる
「手が近づくたびに、あなたの手が縮こまってる。鍵盤の上は私たちの舞台よ。何をそんなに怯えてるの」
「怯えてるわけじゃない。ただ、狭いっていうか……俺の手はお前みたいに細くないし、動きだって滅茶苦茶だ。もし勢い余って怪我でもさせたらと思うと、思い切って弾けないというか」
緑は鍵盤を見つめたまま、本音を吐き出した。
ピアノもまだまだ初心者、連弾も初めてだった。だから、音が激しく交差する中、自分が彼女のあの繊細な一音を生み出す手を傷つけるかもしれない。その恐怖が、緑の演奏にブレーキをかけていた。
南那は驚いたようにわずかに目を見張ると、すぐに溜息を一つ、静かについた。
そして、緑のことをその音楽家としてのまっすぐな瞳で見つめる。
「気を使うなんて、音楽に対して失礼よ。良い?連弾は2人が一体となって奏でる演奏なの。手が触れることなんてのは、すべて1つの『音』になるための過程に過ぎないわ。怪我がどしたの、私の手はそんなに弱くないわ」
有無を言わせない彼女の凄み。冷たい指先が鍵盤に置かれ、地を這うような深い低音が鳴り響いた。それは緑の胸の奥を小突くような確かな衝撃となり、道を示した。緑は奥歯を噛み締め、不安を振り払うようにして目を閉じた。
彼女の出す音だけを頼りに音を辿って手を動かしてみる。少しずつ感覚で探っていく。不安を信頼で上書きするように、何度も繰り返し練習をした。
本番が近づくにつれて2人の演奏は芸術となっていった。緑の動きも見違えるほど良くなり、技術的な面でも劇的な成長を遂げていた。
「完璧ね。これなら明日の本番も満足いくように演奏ができるんじゃないかしら」
緑も、頭の中に、指先に完璧な成功のイメージが焼き付いていた。完璧な演奏を披露できる。その全能感にも似た確信が、ステージに潜むものを覆い隠してしまっていることにも気づかずに。
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ジャ、ジャ、ジャンと、曲は華やかな加速を迎え、山場へと向かっている。
緑はその雰囲気にそれとなく横目で観客席を見た。すると、観客は皆2人の演奏に釘付けで息をすることさえ忘れているようにも見えた。最高の楽しさと浮遊感、緑の心臓がドクドクと激しく鼓動する。
(いける!)
そう確信した、まさにその時だった
南那の低音が、ここからさらに、急激にテンポを遅らせてタメをつくる(リタルダンド)
練習した通り、ポジションも、合図も、すべて合わせていたはずだった。だが、初めて浴びる客席からの「視線」という未知のプレッシャーに、緑の右手が、ほんのわずかに南那の音よりも先に走ってしまった。
静寂から鳴る音は誰が聞いても二重に聞こえた。
彼女の言った通りだった、誰もが知っている有名な曲だからこそ、その一音のズレは、まるで白いシャツに落ちた黒インクのように、あまりも鮮明に目立ってしまった。
隣で完璧なベースを刻み続けている南那の肩が、一瞬だけピクリと強張る。
緑の頬に、冷や汗がすっと流れた。
それでも南那の手は戸惑う様子を見せず。その上、そのミスを強引に引っ張り上げるように、より力強い低音でテンポをリードした。緑は必死に歯を食いしばり、再び彼女の映す「光の線」にしがみついて、残りのフレーズを弾ききった。
最後の和音が響き、会場は温かな拍手に包まれる。
けれど、緑の顔には強張った笑顔しかなかった。本番直前まで、完璧に近い演奏を弾けていた緑にとって、その称賛は胸に刺さる。あまりにも致命的で、苦しい一音だった。
ステージを降りる緑の指先は、悔しさと情けなさで、じんじんと冷たく痺れ続けていた。




