第二音
あの嵐のような日から一週間が経った
粕谷南那は、学校では相変わらず氷の人形だった。休み時間にクラスの誰かがおずおずと話しかけても、小さく一言二言返すだけで、すぐに文庫本に目を落としてしまう。周囲に高い壁を巡らせ、誰も寄せ付けない。
そんな彼女が心を露にする。そんな瞬間が放課後の音楽室にだけあった。
夕日が二人の影を長く落とす
南那はピアノの隣に静かに立ち、感情の読めない瞳で緑の手元を見つめている。
「――違うわ、緑。もう一度」
彼女の声は決して荒げられない。低く、穏やかで、だからこそ異論を許さない絶対的なこだわりがあった。
「力任せに鍵盤を叩かないで。その硬い音は、この曲には必要ないの。肩の力を抜きなさい」
「抜いてるつもりなんだけどな」
緑は鍵盤から手を離し、息を吐いた。
頭の中には、彼女が弾いた完璧な旋律の設計図がある。どこをどう叩けばその音が鳴るかも、耳が覚えている。なのに、自分の右手がそれに追いつかない。特に薬指が、まるで目に見えない糸で中指と縛られているかのように、独立して動いてくれなかった。
もどかしさに駆られてもう一度鍵盤を押し込むと、ピアノから潰されたような、締まりのない音が響く。
南那は怒るでも呆れるでもなく、ただ小さく息を吸うと、緑のすぐ隣に座り直した。
彼女が静かに動くたび、都会の、なんとも言えない洗練された香りが鼻腔をくすぐる。
「見てなさい。これが、クラシックの『打鍵』よ」
南那が、緑が弾こうとしていた同じ鍵盤に、そっと指を乗せる。
線の細い指先が、鍵盤の底へ向かって、滑らかに、寸分の迷いもなく吸い込まれていった。
鼓膜が、かすかに震えた。
ただの一音なのに、それは緑が鳴らした泥のような音とは完全に別物だった。まるで、濁りのないガラスの球体が、深い水の底に静かに沈んでいくかのような、圧倒的な硬度と透明度。
その響きは、さざ波のような空気の振動となって緑の肌にそっと触れて、彼女の見ている世界の輪郭を鮮明に削り出していく。
「ピアノは鍵盤楽器 だけど、同時に歌わせる楽器なの。一音一音に、あなたの血液を巡らせなさい」
南那は緑の右手を掴み、正しい位置へと置き直す。彼女の指先は冷たいのに、その奥にある情熱は驚くほど熱い。
「さあ、合わせて。あなたの耳なら、私のこの低音が『次にどこへ行きたがっているか』が、聴こえるはずよ」
南那の左手が、ピアノの低音域へと構えられる。
彼女が地を這うような深い低音を鳴らした。それは、緑の心臓の裏側を直接指先で小突くような、静かだけど確かな衝撃だった。
その音のあと緑はすぐに 気が付いた。鍵盤の上に夕闇に伸びる一本の光の線が見える。
「――ここだ」
緑は薬指の強張りを意識から消し去り、その光の線の先にある鍵盤へと、指先を滑り込ませた。
南那の低音の波に、高音がカチリと噛み合う。
その瞬間、音楽室の狭い空間が、一気に果てしない大海へと広がっていくような強烈な浮遊感が、緑の体を突き抜けた。
大海へと広がっていくような残響が、ゆっくりと音楽室の壁に吸い込まれて消えていく。
緑は鍵盤から指を離し、自分の手のひらを見つめていた。確かに今、粕谷南那の音と一つになった感覚があった。
南那はピアノの椅子に座ったまま、小さく息を整えている。
「――緑。今弾いたフレーズ、もう一度1人で弾いてみて」
「え? ああ、さっきのな」
促されるまま、緑はさっき南那の低音に重ねたメロディを思い浮かべ、鍵盤に指を伸ばした。
――ポーン、ポツリ、と。
情けない音が鳴り、指がピタリと止まる。
おかしい。頭の中には完璧に音が鳴っているのに、南那の低音が、あの夕闇に伸びる光の線が消えた瞬間、次にどの鍵盤を叩けばいいのかが、霧が立ち込めたように分からなくなってしまったのだ。
「やっぱりね」
隣で、南那が静かに、だけどどこか満足気に唇の端を上げた。学校では絶対に見せない。少し意地悪で、それでいて嬉しそうな微笑み。
「あなた、知識はないけど感覚だけで演奏してる。だから私の音がなくなって、1人になったら途端に弾けなくなるのね」
見透かしたような瞳が、緑をまっすぐに射抜く。
「耳だけで世界と戦えるほど、音楽は甘くないわ。……はい、これ」
南那はピアノの譜面台から、何枚かの紙の束を緑の胸元に押し付けてきた。
受け取ると、そこには黒いオタマジャクシのような記号が、気の遠くなるような密度でびっしりと並んでいた。クラシックの楽譜だ。
「これ、さっきの曲の譜面。線の意味も、記号の意味も、これから全部あなたに叩き込むから」
「おい、俺は楽譜なんて読めないって――」
「読めるようになってもらうわ。感覚という野生の才能に、楽譜という『世界の言語』が加われば、あなたはたちまち化けるんだから」
南那はそう淡々と言い放つと、トントン、と細い指先で楽譜の冒頭を叩いた。
「さあ、夜はまだ長いわよ。まずはこの最初の小節、音がどう動いているか、あなたの耳と目で一致させなさい」
気がつけば、窓の外はすっかり帳が下り、濃い藍色の闇が港町を包み込もうとしていた。誰もいない音楽室に、ただ一つ、ピアノの上の手元灯だけがオレンジ色の光を落としている。
そこから、文字通り夜が更けるまでの居残り練習が始まった。
南那の、静かで一切の妥協を許さない声が響く。
五線譜の読み方、音符の長さ、休符の持つ意味。彼女の指先が示す通りに、緑は一音一音、鍵盤を確かめるように鳴らしていく。
1人では何もできない。だけど、彼女が隣で楽譜を指し示し、その音が持つ正しい響きを隣で鳴らしてくれるたびに、緑の脳内にあった滅茶苦茶な「感覚のジグソーパズル」が、カチリ、カチリと恐ろしい精度で組み上がっていくのが分かった。
空っぽの家に帰りたくないわけじゃない。
だけど、この手元灯の小さな光の中で、彼女の静かな熱量に巻き込まれている時間が、緑の麻痺していた日常に、見たこともない鮮やかな色彩を焼き付けていくようだった。
音楽室を出たときには、墨を流したような深い闇が港町を支配していた。
昼間は騒がしかったウミネコの声も消え去り、聞こえるのは、どこか重々しい規則正しい波の音だけ。並んで自転車を押しながら、緑と南那は街灯のまばらな坂道を上っていた。
昼間の都会的な洗練された佇まいはそのままに、夜風に揺れる彼女の黒髪が、月光を浴びて淡くきらめいている。
「……驚いた」
南那の口から、ぽつりと声が零れた。前を向いたまま、その表情はよく見えない。
「何が?」
「あなたの、その耳。楽譜の読み方を一つ教えたら、瞬時に脳内で音を組み立てて、鍵盤の位置と一致させていく。普通の人が何年もかけて身体に染み込ませる文字を、あんたは一瞬で食べてしまうみたい。……本当に不気味な才能ね」
不気味、と言いながらも、彼女の声にトゲはなかった。むしろ、どこか遠い場所を見つめるような、寂しげな響き。
「褒められてる気がしないな」
「褒めてるのよ。それと、少しだけ嫉妬してるのかも」
南那は足を止め、ガードレールにそっと手を置いて、黒く広がる夜の海を見下ろした。緑も自転車を止め、彼女の少し後ろに佇む。
「私ね、世界に6人しかいない名誉――『六大聖響 』の座に、本当にあと一歩で届くはずだったの。」
彼女の細い指先が、ガードレールの金属をかすかに弾く。
「でもね、あのステージに立たされた時、私は思い知らされたの。そこにいた『6人』は、私みたいに綺麗に磨かれた秀才なんかじゃなかった。……音が、音そのものが生きてたのよ」
南那の肩が、思い出す恐怖からか、小さく震えた。普段の冷徹な彼女からは想像もつかない姿だった。
「あるギタリストは、指から血を流しながら、聴衆の心臓を掴んで引きずり回すような音を鳴らした、あるジャズピアニストは、楽譜なんて最初から存在しないみたいに、その場の空気を一瞬で自分の色に塗り替えた。彼らにとって音楽は『技術』じゃなくて、自分の命を削って吐き出す『呼吸』そのものだった。それに比べて、私のクラシックは……ただの小綺麗な死体だったわ」
彼女は自嘲気味に小さく笑う。その瞳に、夜の海の深い黒が反射していた。
「私の音楽は、あの怪物たちに完膚なきまでに叩き潰された。それが悔しくて、怖くて、鍵盤を見るのも嫌になって、この何もない静かな町に逃げてきた。……でもね」
南那がゆっくりと振り返る。
月光に照らされた彼女の顔は、教室での氷の人形のようでも、音楽室でのストイックな教師のようでもなかった。
「あなたのあの、めちゃくちゃで、だけど魂を直接揺さぶってくるような耳コピを聴いた瞬間、私の凍ってた何かが、大きな音を立てて割れたの。……弾きたい。あの怪物たちを、今度は私のクラシックで、あんたのその感覚で、引きずり下ろしたいって、本気で思っちゃったのよ」
物静かな彼女の瞳の奥で、静かに、だけど絶対に消えない炎が揺らめいている。
「だから緑。……私を、もう一度あの場所へ連れて行きなさい」
静かに紡がれたその言葉は、波の音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。だけど、緑の胸の奥の、一番深いところに、ズンと重く落ちてきた。
誰もいない家に帰るだけの、色褪せていた緑の毎日に、彼女は途方もない嵐を持ち込もうとしている。
「……手厳しい先生だな。楽譜もまともに読めない奴に向かって」
緑が少しぶっきらぼうに言うと、南那は「ふふっ」と、今度は悪戯が成功した子供のように静かに笑った。
「明日からはもっと厳しいわよ。覚悟しなさい」
再び歩き出した彼女の背中を追いかけながら、緑は心臓がドクドクと熱く脈打つのを感じていた。暗い海の底だと思っていたこの港町の夜空に、いつの間にか、無数の星が眩いほどに輝き始めていた。




