第一音
「行ってきます」
緑の言葉は冷え切った廊下を抜けて、空っぽの家に吸い込まれていった。当然、返事は返ってこない。ただ、柱時計の秒針の音だけが、やけに大きく耳に残った。
玄関の扉を開けると、まぶしい朝の光と一緒に、かすかな潮の匂いが滑り込んでくる。前かごに鞄を放り込み、使い古した自転車に跨った。
ペダルを強く踏み込む。
朝日に照らされた海を背に、彼は一気に坂道を駆け下りていった。
今年で高校二年。両親が海外へ出張に出てから、もう五年になる。
誰もいない家にも、波の音しか聞こえないこの静かな港町にも、そろそろ慣れてしまった。慣れて、麻痺して、彼の世界からはいつの間にか、色が失われていった。
――あの、嵐のようなピアノの音が、日常を叩き割るまでは。
ここは山と海に囲まれた絵に描いたようなド田舎だ。小中から高校までほとんど顔ぶれは変わらない。学生たちのやることといえば決まって放課後の水遊びだろうか。
ここの暮らしに嫌になって都会へ出て行った奴もいたが、大抵はその忙しなさに息苦しくなりまたここへ戻ってくる。
毎日、学校へ行っては顔なじみの友人らとハメを外す。家に帰って飯も食べずそのまま寝入る。そんな色褪せた日々を過ごしていた。
今日もまた何をしようかと考える真似事だけ。そんな風にして教室に入ると、いつもと少し空気感が違うのに気が付いた。
「なぁ緑。転校生がくるんだってよ」
親友の直樹が意気揚々とこちらに話しかけてきた。
「また誰かが流したガセネタだろ」
緑は、少し突き放すくらいでキッパリ言った
直樹はその場で少しつまらなさそうにするとすぐに席に戻って行ってしまった。
前にも似たようなことがあったが、その時は引っ越した奴が戻って来ただけだった
「お前ら席つけよ」
担任が意気込んで教室に入って来る。その時になってようやく噂が現実味を帯びた
いつもあんなに素っ気ない担任がまるで頼れる先生かのごとく胸を張って教卓に立ったのだから。
「お前らに転校生を紹介するぞ」
教室のドアをその人物が通った時、まるで時間が止まったかのように部屋全体がピタッと静かになった。
「どうも、粕谷南那です」
彼女は人形みたいな顔立ちでその立ち姿もほっそりしていて美しく、つまり、美人だった。
だけど、教室を包んだ静寂は、単に彼女の容姿に見とれただけのものじゃない。
その切れ長な瞳の奥には、寄せ付けないほどの鋭い拒絶の色があった。まるで、この場にいる全員を見下しているかのような、あるいは世界そのものを憎んでいるかのような、冷え切った視線。
担任が促しても、彼女はそれ以上、自己紹介を付け足そうとはしなかった。
窓際の、緑の斜め後ろの空き席に彼女が歩いていく。
すれ違いざま、都会の、なんとも言えない洗練された香りが鼻腔をくすぐった。だけど、それだけだった。休み時間になっても、直樹をはじめとしたクラスの連中が遠巻きに眺めるだけで、誰も彼女の「壁」を破って話しかけに行くことはできなかった。彼女は最初から、この錆びついた田舎町に馴染む気なんてさらさらないようだ。
放課後の喧騒をすり抜け、緑は逃げるように家へと帰った。
結局、あの粕谷南那という転校生とは一言も交わさなかった。彼女の周りには常に高い壁がそびえ立っているようで、誰も近づけなかったからだ。
自室のベッドに寝転び、天井を見つめる。
夕暮れが近づくと、この町は急激にその表情を変える。
昼間、友人たちが「綺麗な海だ」と無邪気に はしゃいでいたあの水面は、陽が落ちれば光を一切通さない、どす黒い深淵へと姿を変える。山々に囲まれたこの地形は、さながら巨大な棺桶だ。波の音は心地よい環境音楽などではなく、この町に生きる人間の息の根を静かに止めにくる、終わりのない葬送曲。
ここは、絵に描いたようなド田舎なんか言う甘いもんじゃない。
すべてを拒絶し、すべてを飲み込む、冷たい海の底だ。
両親に置いていかれた緑は、この底の抜けた暗闇に、ただ静かに沈んでいるだけでよかった。何も望まず、何も聴かず、色褪せた世界のままで――。
――ズドン、と。
重々しい大砲でも撃ち込まれたかのような衝撃が、自室の窓ガラスを震わせた。
「な、んだ……っ!?」
思わず跳ね起きる。
音は、隣の空き家だったはずの洋館から響いていた。
間髪入れずに、信じられないほどの速度で、重く鋭い音の弾丸が次々と撃ち鳴らされる。それは、ピアノの音だった。
クラシックの曲なのかは分からない。ただ、それは上品な演奏などでは断じてなかった。鍵盤がへこみ、弦が引きちぎれるのではないかと思うほどの、圧倒的な打鍵。
そこにあるのは、純粋な、世界への「怒り」だ。
自分を裏切った何かに対する呪詛。すべてを叩き壊そうとする狂気。
その荒々しい旋律は、緑が閉じこもっていた暗い海の底へ容赦なく突き刺さり、冷たい海水を沸騰させていく。
気がつけば、緑は窓にしがみつき、隣の洋館を凝視していた。
二階の窓辺。カーテンの隙間から、狂ったように鍵盤を叩きつける、あの線の細い少女の背中が見えた。学校での人形のような静けさは嘘のようだ。髪を振り乱し、魂を削りながら、彼女は世界と戦っている。
鼓膜を突き破り、緑の凍りついた心臓を直接殴ってくるような、暴力的なまでの響き。
それが、緑の日常を跡形もなく叩き割った、最初の「ナナの音」だった。
心臓の音がうるさい。
授業中も、休み時間も。斜め後ろに座る粕谷南那の顔を見るたびに、昨夜のあの音が耳の奥で爆音で鳴り響いていた。世界を呪うような、暴力的なまでのピアノの残響。
気づけば、緑は放課後の音楽室にいた。
夕日が差し込む教室。中央に鎮座するグランドピアノが、手招きする。
ピアノなんて、授業の合唱コンクールの伴奏で誰かが弾いているのを遠くから見ていたくらいだ。楽譜なんて読めない。鍵盤のどこが「ド」の音なのかすら、正確には知らない。
なのに、吸い寄せられるように椅子に腰掛け、鍵盤の上に右手をかざしていた。
――鳴らしたい。
いや、確かめたかった。あの嵐のような音が、本当にこの、ただの木の箱と鉄の弦から放たれていたのかを。
人差し指で、適当な白い鍵盤を一つ、押し込んでみる。
気の抜けた、間抜けな音が響いた。当然だ。昨夜の音は、こんなに優しくない。
「違う。もっと、もっと低くて……腹の底に刺さるような……」
記憶の糸をたぐる。耳が、脳が、昨夜の彼女の打鍵の強さ、速度、音の「色」を鮮明に思い出し始める。
左側の、低い音が鳴るはずの鍵盤へ手を移す。今度は、体重を乗せて強く叩きつけた。
地鳴りのような重低音。窓ガラスが微かに震える。
「……これだ」
そこからは、自分でも信じられない感覚だった。
楽譜という道標はない。だけど、緑の耳の中に、南那が弾いていたあの狂おしいメロディの「設計図」が完璧に立ち上がっていた。
次はここ。その次は、少し飛ばしてここ。
最初は人差し指一本で、一音ずつ確かめるように探っていた。しかし、音が繋がるにつれて、じれったさが限界を迎える。
「――あぁ、クソッ、指が足りない……!」
一本じゃ追いつかない。二本、三本、親指も小指も、使えるものは全部使う。
未経験の緑の指は、滑らかな指使いなんてできない。形は滅茶苦茶で、手首もガチガチに強張っている。鍵盤を引っ掻くように、殴りつけるように、ただ必死に脳内の音をトレースしていく。
不思議と、迷いはなかった。
次に押すべき鍵盤が、まるで光って見えるかのように、緑の指を強引に導いていく。
激しさを増していく旋律。
それは紛れもない、昨夜隣の家から響いてきた、世界への怒りを宿したあの曲のサビの部分だった。
夕闇の音楽室に、素人が鳴らしているとは思えない、圧倒的な熱量の音が狂い咲く。
灰色だった緑の視界が、音の振動とともに、真っ赤な炎のような色彩で染まっていく――。
ガタッ。
背後で、激しく引き戸が鳴る音がした。
はっと我に返り、緑の指が鍵盤の上で止まる。
肩で息をしながら恐る恐る振り返ると、そこには、夕日を背に浴びて立ち尽くす粕谷南那がいた。彼女は、怒りで怒髪天を突くような、あるいは未知の化け物を見てしまったかのような、凄まじい形相で緑を睨みつけていた。音楽室の静寂を、緑たちの荒い呼吸だけが満たしていた。
夕日に赤く染まった教室の入り口で、粕谷南那はドアの縁を指が白くなるほど強く握りしめている。その瞳は、怒っているようにも、何かに怯えているようにも見えた。
「あなた……」
彼女の声は、微かに震えていた。学校で見せていた氷のような冷たさはどこにもない。
「今の、何。なんであなたが、その曲を知ってるの。楽譜なんて、どこにも出回っていないはずなのに……っ!」
一歩、また一歩と、南那がピアノの前に座る緑へと近づいてくる。その足取りはどこか危うく、だけど緑から一瞬たりとも視線を外さない。
「昨日、隣の家から聞こえたから。頭から離れなくて、つい……」
緑がそう答えると、彼女はまるで物理的な衝撃を受けたかのように足を止めた。
「昨日……? たった一晩、それも壁越しに聴いただけで、今のフレーズをなぞったっていうの? 運指も、ペダリングも、めちゃくちゃな素人のくせに……」
南那の視線が、緑の、まだ鍵盤の上で強張っている無骨な手に注がれる。
彼女のプロとしてのプライドが、目の前の現実を拒絶しようとしていた。しかし、彼女の『耳』は、緑の拙い演奏の中にあった、曲の『核心』を確かに聴き取ってしまっていた。
「嘘、あり得ない。ピアノも弾けない田舎の高校生が、私の音を盗むなんて……」
言葉とは裏腹に、彼女の瞳の奥で、じわじわと先ほどとは違う光が灯るのを緑は見逃さなかった。それは恐怖ではなく、紛れもない演奏者としての、捕食者としての「興奮」だ。
南那はつかつかと緑の目の前まで歩み寄ると、強引に緑の腕を掴んでピアノの椅子から引き剥がした。
「そこを退いて」
押し出されるように立ち上がった緑の代わりに、彼女が鍵盤の前に座る。
彼女が背筋を伸ばし、鍵盤に手をかざした瞬間、音楽室の空気が爆発する前の爆弾のようにピンと張り詰めた。
「耳コピで満足されてたまるもんですか。……本物を教えてあげる」
刹那、世界が鳴動した。
昨夜、自室の窓越しに聴いたあの曲。だけど、至近距離で放たれるその音は、破壊力がまるで違っていた。
地を這うような重低音から、鼓膜を突き刺す高音まで、完璧にコントロールされた音の奔流が緑の全身を殴りつける。南那の表情は、どこか狂気に満ちていた。
緑という「圧倒的な無自覚の才能」を目の当たりにしたことで、挫折して眠っていた彼女の闘争心が、限界突破して燃え上がっているのだ。
『負けない。私の音楽は、こんなところで終わらない』
彼女の背中が、音が、そう激しく咆哮していた。
鍵盤の上を踊る彼女の指先から目が離せない。激しく世界を呪うその旋律に、緑の心臓は、見たこともない鮮やかな赤色で激しく脈打ち始めていた。
最後の一音が音楽室の壁に跳ね返り、静かに消えていく。
粕谷南那はピアノの前に座ったまま、激しく肩を上下させていた。鍵盤の上に置かれた彼女の指先が、かすかに震えている。
「……私は、負けたの」
南那は鍵盤を見つめたまま、ぽつりと呟いた。その声は、ひどく掠れていて、だけど冷たい刃のような鋭さを持っていた。
「世界にたった6人しか座れない、あの名誉ある席。クラシックの神童なんて呼ばれて、あと一歩のところまで行った。なのに……あの悍ましいステージで、他ジャンルの化け物たちに、私のクラシックは完膚なきまでに叩き潰された」
彼女はギリ、と奥歯を鳴らし、鍵盤を強く睨みつける。
「悔しくて、死にそうで、逃げるようにこの町に来た。でも、諦められるわけないじゃない……っ! 私はクラシックを信じてる。クラシックこそが、すべての音楽の頂点だって証明しなきゃ、私の人生は一生、暗い海の底のままだわ」
南那が勢いよく立ち上がり、緑の胸ぐらを掴んだ。
細い指先からは想像もつかないほどの強い力。至近距離で見つめてくる彼女の瞳は、狂おしいほどの執着でギラギラと爛れて輝いていた。
「あなたのその耳、その再現力……粗削りで、めちゃくちゃだけど、私にないものを持ってる。あなたなら、あの化け物たちの『音』をすべて喰らい尽くせる」
「おい、ちょっと待て、俺はピアノなんて――」
「弾かせるのよ、私と一緒に!」
南那は緑の言葉を強引にかき消した。彼女は緑をピアノの椅子へと突き返し、今度はそのすぐ隣に、ぴったりと身体を寄せて座ってきた。
彼女の体温と、張り詰めた甘い匂いが一気に肌に伝わってくる。近すぎる。動揺する緑の手を強引に掴むと、彼女は緑の右手を、ピアノの右側の高音域の鍵盤へと置かせた。
「1人で届かないなら、2人でいく。あなたが私の右腕になりなさい。私はあなたの左腕になる。1つの完璧なクラシックを、連弾で編み上げるの」
南那の右手が、緑の左手のすぐそばで低い音を小さく鳴らす。
「あなたは私のライバルよ。私を置いていくくらいの音を鳴らしなさい。そして――私と一緒に、やつらの首を獲りに行くの。断るなんて選択肢、最初から与えないから」
有無を言わせない、女王のような命令。
だけど、彼女の横顔を見た瞬間、緑の胸の奥がドクンと跳ねた。
世界に拒絶され、クラシックに取り憑かれた孤独な少女。その横顔が、誰もいない空っぽの家で心を麻痺させていた緑の姿と、どうしようもないくらい重なって見えたからだ。




