沈黙の銃声、そして帰還
小高い丘の窪みに築いた第二防衛陣は、もはや要塞ではなく、三百五十名の命を飲み込む墓標と化していた。
この数時間、凪は戦術的な計算の海に溺れていた。どの方向から敵が来るか、どの射線が最も効率的か、どう動けば生存率が〇・一パーセント向上するか。だが、その計算は残酷なまでに現実に裏切られ続けていた。
戦線は崩壊し、味方の数は加速度的に減っていく。遠く離れた場所で、稲生軍曹が率いた分遣隊が壊滅したことは、もはや耳に届く銃声の欠如が雄弁に語っていた。彼らの最期の咆哮すら、今の凪には届かない。ただ、彼らの担当していた区画から敵が雪崩れ込んでくるという「結果」だけが、凪にその死を突きつけていた。
隣で戦う冴島加奈准尉の動きも、極度の疲労と失血で鈍り始めていた。彼女の赤髪は血と煤でドロドロに汚れ、ポニーテールは無惨に千切れていたが、その瞳だけは凪を支えるために、消え入りそうな光を灯し続けている。白夜もまた、その硬質な銀色の鱗を深紅に染めていた。凪と並び、襲い来る共和国兵を次々と薙ぎ倒していく。
「殺す……すべて、殺す! 私の計算を狂わせるゴミ屑どもを、根絶やしに……!」
凪の声は、自分でも制御できないほど殺意に支配されていた。師団の包囲は完全に完成し、もはや全滅までのカウントダウンは誰の目にも明らかだった。しかし、凪の意識は戦術計算という理性の檻を突き破り、ただ純粋な「殺戮」という快楽と、報われぬ怒りの淵に沈んでいた。彼女にとって、この戦場は既に、彼女自身の存在を証明するための唯一の場所と化していたのだ。
その時、ふと凪の視界の端に、手首の古い時計が映った。
秒針が、残酷なまでに正確に時を刻んでいる。
彼女自身が作成した、撤退支援のための生存計算図。その隅に記された、タイムリミットの時刻。
「……ああ。時間か」
凪の口から、無意識にそんな呟きが漏れた。
それは驚きでも、悲しみでもなかった。ただ、ずっと縛られていた見えない鎖が、唐突に引きちぎられたような感覚だった。タイムリミットを過ぎた。計算上の「支援」は完了した。もはや、この地獄で命を削り続ける根拠は何一つとして残っていなかった。
その隙を突かれ、凪は敵兵の銃剣に胸を射抜かれそうになった。
だが、その一撃は届かなかった。背後から凪の肩を強く突き飛ばす感触があったからだ。冴島准尉が身を挺して凪を庇い、敵兵の剣を弾き飛ばした。加奈はそのまま凪を強引に引き剥がし、戦線の後方へと押しやった。
「少尉、目を覚ましてください! 作戦はもう終わったのです!」
加奈の必死の叫びと、戦場の静寂が凪の脳髄を貫く。凪は息を呑み、周囲を見渡した。窪みを埋め尽くす敵の数、そして隣で力尽きようとしている味方の顔。我に返った凪の瞳から、殺意の火が急速に冷えていく。
「……作戦終了時刻、過ぎていますね」
「はい。少尉殿、もう十分です。私たち、よくやりました……」
凪は震える手で懐から、血に濡れた白い布を取り出した。それは、最初から最後まで使用するつもりのなかった「最後の手札」、降伏の証だった。
彼女は戦場に響き渡るように、力一杯叫んだ。
「――全軍、戦闘停止! 降伏を宣言する!」
丘を下る凪たちの足取りは重かった。
五十六名。重症者を白夜の背や即席の担架に乗せ、歩ける者は肩を貸し合う。彼らの姿は、かつて精鋭だった面影はなく、まるで地獄の底から這い出た亡者のようだった。
師団の全兵力が、丘の下で彼らを待ち構えていた。数千の銃口が、わずか五十六名の生存者に向けられている。その中心に、凪は捕虜としていた猟兵大隊長、アレックス・ジェレミー少佐を突き出した。
凪はゆっくりと愛銃を地面に置き、両手を上げた。白夜もまた、主の意思を察したのか、敵の群れの前で静かに膝をついた。その銀色の体は、戦いの終わりを告げるように、夕日に反射して鈍く光っている。
「帝国軍、臨時第三小隊、加瀬凪少尉。これより武装解除を行う。我々の戦いは、ここで終わりだ」
凪の毅然とした声が、戦場の静寂に響く。
共和国軍の兵士たちは、武器を突きつけながらも、そのあまりの堂々とした態度と、彼女たちが背負った「地獄」の重みに気圧されていた。捕虜となったジェレミー少佐だけが、地面に伏せられながら、悔しさと、そしてどこか得体の知れない敬意が混ざったような瞳で凪を見つめていた。
凪は深く、長く息を吐いた。
コーヒーの香りはしなかった。だが、凪の胸には、ようやく肩の荷を下ろしたという深い安堵が広がっていた。
三百五十名で始まった死の行進。生き残った五十六名の命が、霧の向こう側へと繋がれていく。加瀬家の温室で育った少女が選んだ、血にまみれた茨の道。その果てにあるのは敗北という名の結末かもしれない。しかし、凪の脳内計算機は、最後にひとつの解を導き出していた。
――生き延びた。それだけで、十分だ。




