第13話 キャンセルの亡霊
雨上がりの湿った熱気が、屋敷の古い木材の奥底に染み込んだ線香の匂いを、執拗なまでに呼び起こしている。
佐伯の屋敷の玄関先、磨りガラスの向こうに細い人影が落ち、ほどなくして頼りない呼び鈴の音が静寂を切り裂いた。
現れたのは、ひどく顔色の悪い、風が吹けば折れてしまいそうなほどに痩せ細った女だった。
彼女は、かつて佐伯に重大な鑑定を依頼しながら、真実を目前にして自らすべてを投げ出し、契約を破棄した人物である。
(……この人が、依頼をキャンセルしたっていう人。幽霊みたいに足元がふらついて、生きた心地がせえへん表情をしてる。見てるだけで、こっちまで息が詰まりそうやわ)
春奈は、冷たい空気を纏うその女性の姿に、得体の知れない不安を覚え、玄関の上がり框で硬直していた。
女は、佐伯と視線を合わせることさえ拒むように伏目がちになり、掠れた声で「忘れ物を取りに来ました」とだけ告げた。
奥の部屋から現れた佐伯は、普段の春奈に見せる無作法な態度を微塵も感じさせない、落ち着いた足取りで彼女の前に立った。
彼は、身に纏う空気そのものを入れ替えたかのように、穏やかで理知的な微笑を唇の端に浮かべている。
「お久しぶりです。お体の具合はいかがですか。お忘れ物はこちらに保管してありますので、どうぞご安心ください」
佐伯の口から零れたのは、驚くほど滑らかで、一分の隙もないほど洗練された、美しい敬語だった。
その声の響きは、相手の傷口を優しく包み込む包帯のような柔らかさを持ち、春奈の知る彼とは別人といっていいほどに洗練されている。
(……えっ。嘘やろ。依頼人に、あんなに物腰柔らかく喋ってる……。あんな丁寧な言葉、私、一度もかけてもらったことないのに)
春奈の胸の奥で、不意に突き上げられたような激しい困惑と、名状しがたい焦燥感が混ざり合う。
初めてこの屋敷を訪れた時の記憶が、苦々しい泥のような感触とともに、脳裏に鮮明に蘇ってくる。
その時の佐伯は、少女漫画を読み耽るのに忙しいと言い放ち、必死の思いで門を叩いた春奈を三十分以上も玄関先で放置したのだ。
今の彼が見せている慈愛に満ちた物腰は、当時の不遜な態度からは想像もつかないほど、プロフェッショナルな誠実さを象っている。
佐伯は、奥の棚から埃を被った小さな風呂敷包みを取り出し、膝をついて、彼女の手に優しく添えるようにして手渡す。
「無理をなさる必要はありません。あなたが選んだ道もまた、一つの結末です。どうか、これからは、お心を大切になさってください」
中身を確かめることもせず、女はその包みを力なく受け取ると、乾いた唇を不自然に歪ませて笑った。
「……二割のキャンセル料を払って、私は『真実を知らない権利』を買ったんです。高い買い物でした。でも、後悔はしていません」
彼女の瞳は、泥水のように濁り、何を見つめているのかも分からないほどに虚無の色に染まっていた。
その視線は、生きている人間のそれというよりは、深い底に沈んだ沈没船の窓から外を眺めているような、絶望的な隔絶感を感じさせる。
「あんな残酷な答えを知るくらいなら、一生、疑いという檻の中で震えている方が、まだマシだと思ったから」
その言葉は、春奈の心臓を直接冷たい手で掴み上げるような、耐え難い圧迫感となって襲いかかった。
(真実を知らへん権利……。お父さんの隠し事を暴こうとしている私の覚悟は、そんなに脆いもんなん? もし私も、この人みたいに最後に足がすくんでしもたら……)
春奈の背中に冷たい汗が流れ、加納弁護士から提示されたあの真実の重みが、急に耐え難い呪いのように感じられ始めた。
女が去ろうと背を向けたとき、佐伯はさらに一段と声を落とし、慈しむような響きを込めて言葉を添える。
「外はまだ足元が悪うございます。どうか、お体には重々お気を付けになってお帰りください。何かあれば、いつでもご連絡を」
その徹底した配慮、弱者に対するどこまでも丁寧な振る舞いに、春奈は自分の立ち位置が分からなくなるような眩暈を覚えた。
女が去った後も、玄関には彼女が遺した負の余韻が、淀んだ霧のように漂い続けていた。
それは、真実から逃げ出した人間が背負い続ける、消えない影の匂いだった。
佐伯は彼女を見送ると、重い木製の扉を閉めた瞬間に、纏っていた丁寧な空気を見事に霧散させる。
彼は「よっこいしょ」と言いながら、ソファに無造作に寝そべると、手元の少女漫画のページをめくり始める。
春奈は、足元から這い上がってくるような絶望感に震え、薄暗い廊下で立ち尽くすことしかできなかった。
窓の外から差し込む夕闇が、彼女の足元をじわじわと侵食し、思考を黒く塗りつぶしていく。
佐伯は春奈の方を見ようともせず、ただ最新刊の誌面に瞳を注ぎながら、独り言のような低い声を響かせた。
「……この、第百十一話の濃密な描き込みを見ろ。作者が命を削って仕上げた背景の一枚一枚に込められた気迫が凄まじいな」
その声には、先ほどの重苦しい沈黙を切り裂くような、奇妙に明るい、それでいて揺るぎない確信が宿っていた。
(……少女漫画? 佐伯さん、こんな時に何を……。第百十一話っていう単語だけじゃ何の事か分からんけど……)
春奈は、彼が放り出した表紙に目を向けた。そこには鮮やかな色彩で描かれた美少女の横に、「祝・アニメ化決定!」の文字が派手に躍っている。
(……あ、この漫画、アニメになるほど人気なんや。佐伯さんが夢中になってたんはこれやったんか。表紙の帯を見て納得やわ)
佐伯は、漫画の背表紙を指先で愛おしげになぞりながら、誰に聞かせるともなく言葉を紡ぎ続けた。
「ここで読むのを止めたら、このキャラクターがこれまで味わってきた地獄のような苦労が、何一つ報われないだろうになぁ」
彼は、溜息混じりに、しかしどこか春奈の心を強く叩くような調子で言葉を繋ぐ。
「途中で本を閉じるのは自由や。そやけどな、最後の一行を読まん限り、読者は一生その物語の呪縛から逃れることはできへんのやで」
彼はページをめくる手を止め、天井のシミを見つめるように視線を上げた。
「物語を終わらせることができるのは、最後まで見届けた者だけや」
その言葉は、一見すれば単なる読書感想に過ぎなかったが、動揺していた春奈の心に、冷たい水のような、それでいて力強い覚悟を流し込んでいった。
(佐伯さん……。わざと、私に言うてるんやね。お父さんの人生っていう物語を、途中で放り出したらあかんって。最後まで読み切らんと、お父さんも、私も、救われへんって)
佐伯は、漫画を読み終えたかのように勢いよく閉じると、そのまま目元を片手で覆い、いつもの不遜な表情に戻った。
「……あまりに筆致の激しい描写を浴びすぎて、目が疲れた。山城さん、紅茶を淹れてくれ。濃いめの、現実を思い出させてくれるようなやつをな」
彼の突き放したような言い草は、いつもの、春奈だけが知っている傲慢な”佐伯”そのものである。
しかし、その背中には、真実という名の嵐に立ち向かう者への、不器用で、深い慈しみが滲み出ているように見えた。
春奈は、震えていた拳をゆっくりと開き、自身の頬を両手で強く叩いた。
(……そうや。私は、お父さんの物語の最後の一行を、自分の目で見届けるって決めたんや。たとえそれが、どれほど醜い結末であったとしても。逃げへん。佐伯さんが隣におるなら、私はどこまでも行ける)
濁っていた彼女の瞳に、再び鋭い意志の光が宿り、キッチンへと向かうその足取りには、先ほどまでの迷いは一切消えていた。
屋敷の窓から差し込む、雨上がりの力強い夕陽が、二人の影を長く、等しく、床の上に刻んでいた。
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