第12話 紹介状の主の沈黙
数日前まで街のあらゆる汚れを洗い流そうとしていた激しい豪雨は、神戸の古い石畳の隙間に、決して消えることのない深い湿り気と、肌にまとわりつくような沈滞した熱を遺して去っていった。
佐伯は、普段の無造作で投げやりな空気を、まるで塵の一つを払うかのような手つきで捨て去り、鏡の前で一点の曇りもない純白のシャツの襟を、自らの指で厳格に正した。
濃紺のネクタイを締めるその手つきは、淀みなく、冷ややかな決意を布の結び目の中に封じ込めていくかのような、機械的なまでの精密さを保っている。
(……また、あの時の格好や。佐伯さんがこの服を着る時は、誰かの人生を根こそぎ暴きに行く時なんやね。普段の気だるそうな雰囲気はどこにもなくて、まるで研ぎ澄まされた抜身の刀みたい。見てるだけで、胸の奥が締め付けられるわ)
春奈は、彼の背後から漂ってくる清潔な石鹸の匂いと、空気を震わせるような緊張感に、自分自身の脈動が激しくなるのを止めることができなかった。
彼が背負う漆黒のジャケットは、真実という名の光を一切通さないほどに深く、自身の孤独を強調するようにその肩に馴染んでいる。
部屋の隅に置かれた古びたトランクが、これから暴かれる真実の重さを予感させるかのように、鈍い光を反射していた。
佐伯は一度だけ鏡の中の自分を突き放すように見据えると、迷いのない足取りで部屋を後にし、春奈はその背中を追うようにして、湿った街へと踏み出した。
二人が訪れたのは、旧居留地の歴史を静かに語り続ける石造りのビルに居を構える、加納法律事務所だった。
木製の手すりを伝い、高い天井が影を落とす廊下を進むたび、春奈の靴音が不吉な予言のように静寂の中に響き渡る。
案内された応接室は、磨き上げられた床が窓からの柔らかい光を不規則に反射し、壁一面を埋め尽くす分厚い法律書の背表紙が、この場所に積み上げられた重苦しい時間の長さを誇示している。
「お待たせいたしました、佐伯先生。今日はどのようなご用向きでしょうか」
応接室に現れた加納弁護士は、春奈が父の遺品について相談した際、迷うことなくこの終筆士を紹介した人物である。
彼は柔和な笑みを浮かべて二人を迎え入れたが、佐伯はその温厚な仮面の下に隠された、濁った澱みのようなものを、入室した瞬間に見抜いていた。
佐伯は、案内された革張りのソファに深く腰を下ろすと、長い脚を組み、加納に対して極めて丁寧な、それでいてどこか突き放すような一礼を返した。
「急な訪問にもかかわらず、お時間を割いていただき心より感謝いたします。加納先生」
佐伯の言葉遣いは、春奈に向けて放たれる乱暴な語気とは対照的に、一分の隙もないほど洗練されていた。
しかし、その丁寧な物腰こそが、相手の警戒心を剥ぎ取り、その懐へと鋭く踏み込むための最も効率的な武器であることを、隣に座る春奈だけは知っている。
(……怖い。丁寧やからこそ、余計に逃げ道がない感じがする。佐伯さんは、加納のおじさんが何を隠しとるか、もう確信しとるんやわ)
「先生。あえて単刀直入に申し上げます。あなたが、山城さんに渡したあの紹介状、あれは単なる親切心から書かれたものではありませんね?」
佐伯の声は、穏やかな波紋のように部屋の空気を震わせたが、その底には逃げ場を許さない冷ややかな響きが潜んでいるようだ。
加納は手に持っていた茶碗をゆっくりとテーブルに置いたが、陶器が触れ合うカチリという小さな音が、張り詰めた空間に異様なほど大きく反響した。
加納は、一瞬だけ瞬きを繰り返し、デスクの上に置かれた自身の指先を無意識のうちに隠すようにして握りしめた。
しかし、その僅かな、本当に僅かな指先の震えを、佐伯の眼光は逃さなかった。
「先生ともあろうお方が、これほど分かりやすい動揺をなさるとは意外です。あなたは、正蔵氏の良き友人としての役割を全うしようとなさっている」
佐伯は、ゆっくりと加納を見据え、その柔らかな口調を保ったまま、刃のような言葉を滑らせていく。
「ですが、その実は、彼の隠し事の片棒を担いでおられる共犯者なのではありませんか? この手紙の本当の内容を、あなたは一文字残らずご存じのはずです」
(共犯者……? 加納のおじさんが? お父さんの親友やったはずの人が、何かを隠してるっていうの。佐伯さんの言葉には、疑いようのない確信がこもっていて、空気がどんどん薄くなっていくみたい……)
加納の視線が泳ぎ、部屋に飾られた絵画の額縁や、床の木目へと力なく彷徨うのを、佐伯は見逃さずに追い詰めていく。
春奈は、隣に座る佐伯の横顔を盗み見た。
彼の頬のラインは、冷たい大理石のように硬く、真実を追い詰めるためだけに存在する峻烈な意志が、そこに結実しているようだ。
加納は沈黙を貫いた。
部屋を支配する、耳の奥が痛くなるような静けさの中で、加納の喉仏が大きく一度だけ上下し、額に薄っすらと滲んだ汗が電球の光を反射して不気味に光る。
「正蔵氏は、人生の最後の一行を、単なる愛の言葉で締めくくるような甘いお方ではない。そうでしょう?」
佐伯は、追い打ちをかけるようにして、低く、密度の高い言葉を一つずつ、加納の胸元に正確に突き立てていく。
「あなたがそのお口を閉ざせば閉ざすほど、その裏にある罪の深さが浮き彫りになる。それは先生の本意ではないはずですが、いかがでしょうか?」
彼の瞳には、嘘を許さない厳格な規律と、真実を暴くことによって自分自身もまた傷つくことを受け入れた、悲しい覚悟が同居していた。
(……すごい。この人は、相手が誰であっても、どれだけ高い壁であっても、一歩も引かへん。真実を暴くことが、どれだけ相手を傷つけ、自分を孤独にするか分かってて、それでも止まらへんねんね)
春奈は、佐伯という男の心の深淵に、ほんの少しだけ触れたような気がした。
彼は、誰のためでもなく、ただ失われた”真実”という名のパズルの最後の一片を埋めるために、その身を孤独な闇の中に置き続けている。
真実を暴くたびに、彼は周囲の人間から恨まれ、忌み嫌われ、自分だけの領域をさらに狭めていく。
その孤高な姿に、恐怖を通り越した、激しい憧憬と愛おしさが、彼女の胸の奥で熱く込み上げてきた。
自分もまた、その孤独な旅路の果てに、お父さんの本当の姿を見ることになるのだという覚悟が、彼女の背中を静かに支えた。
加納の沈黙は、ついに数分間に及び、彼は力なく視線を落とすと、深く、絶望に満ちた溜息を吐き出した。
「……佐伯先生。あなたの仰る通りだ。正蔵さんは、どうしても私にだけは、これを墓まで持って行ってくれと頼んだんだがね」
加納の言葉が、部屋の空気を一変させた。
父が遺した、最後の一行」は、春奈が信じていたような、美しい家族への愛情表現などではなかった。
それは、過去の全てを覆し、今ある幸せな日常を根底から破壊しかねない、猛毒を含んだ告白への入り口である。
佐伯は、勝利を確信したような表情を見せることもなく、ただ静かに、次の真実を受け止めるための瞳を、加納に向け続けた。
窓の外では、再び雲が厚く垂れ込め、止んでいた雨が再び降り出そうとしているかのように、大気が不穏に震えている。
加納は震える手でデスクの引き出しを開け、一通の古びた封筒を取り出した。
(あの中に、お父さんの本当の答えが入っとるんやね。それを知ったら、もう元の自分には戻れへん。でも、隣に佐伯さんがおる。この人の冷たいくらいの強さが、今の私には一番の救いなんや……)
春奈は、逃げ出したい衝動を抑え込み、その封筒から放たれる圧倒的な因縁の重圧を、正面から受け止める決意を固めた。
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