始まりの満月
【古代政3982年・18の満月】
かつての秩序が、混沌に支配された地――カステリ。
オルター人と呼ばれる先住民が住んでいた時期、西から大海を渡って訪れた人間の時期を合わせると、数千年の歴史を誇っている。
約二千年前から、『クラニウム』──力を持つ者が、東に佇むオルディニス城に住み家を置き、この世界を支配していた。
王家は秩序を守ろうと、オルディニス城の陥落を目指し、幾度となく東へ進軍してきた。
だが、奴の人智を越した力には、抗えないものであった。誰もがそれに屈し、計り知れない命が奪われたのだ。
そして今宵も、幼い子供の犠牲者が現れようとしていた。
満月に照らされた森林は、動物の気配すらなく、静寂に包まれていた。
そよ風で揺らぐ草木の音に、少し物騒な音が近づいてくる。
力強い蹄の足音。一頭の馬が、木々の間をすり抜ける。
駆けている茶色の馬の上には、二人の子供が股がっていた。鮮やかな金色の髪と、ブラウンの目色をした少年少女だ。彼らが血の繋がった兄妹なのは、見るに明らかだ。
「い、いやだっ……!! しにたく、ない……!!」
涙で顔を汚す長髪の妹は、兄を抱きしめたまま、馬から落とされぬように踏ん張っていた。
「じっとしてろ、レオナ! くそ、このままだとッ、追いつかれる……!」
前の機嫌が悪そうな兄は、齢十二年といったところか。
真剣な表情だが、額から流れている汗は、焦燥をごまかせていない。馬のロープを掴み、必要以上に拍車をかけていた。
「──っ!!」
後ろの方を振り向く兄。
その背後には、黒鎧の馬に股がる、奴らの存在が迫ってきていた。
数は九頭。それらに股がるのは、死神のように漆黒に輝く騎士。
奴らは主に仕える者。敬愛する名を込め、「クラニウム・ハンド」、蛇の手と呼ばれる存在だ。
だが、それらを率いている馬は、一際装飾の施された馬鎧を着ていた。
それに跨っているのは、暗い青髪を束ね、逆風で揺らす、無表情の女騎士。
真夜中、漆黒の騎士たちに背後を追われる状況。戦慄と緊張に苛まれ、兄妹の心臓は早鐘を打っていた。
「あ、アーガスお兄ちゃん……っ!!」
「うるさいっ、黙っててくれ! はあ、はあ……もうすぐの辛抱だ、あと少しで村に着く。だから、もう少しだけ我慢を――」
だが、女騎士の魔の手が、妹に少しずつ、着実に近づいてゆく。
そして目を離した、次の瞬間。
「……!」
兄は違和感を感じ、背後を振り返る。妹は、女剣士と共に――跡形もなく消え去っていた。
腕を掴まれ、馬から転げ落ちたのだ。
「れ……レオナぁぁぁあああ────ッッ!!!」
たった一人の妹。
それを失った悲しみは、心の中にぽっかりと空白を生んでしまった。
だが今更、引き返すなどもっての外。いまだ刻一刻と、蛇の手に追われている。馬を止めてしまった時点で、妹と同じ結末になることは目に見えている。
たった独りでも逃げ切りたいという一心で、少年は馬に拍車をかけた。
馬はようやく森から脱出し、満月の光が当たる、一際高い黒い塔が目立った。
塔の村、グリムボストン。
森に囲まれた草原にそびえ立つ塔を、大きく囲むように城壁が建っている。
「頼む! 門を開けてくれー!! 頼む!」
必死に叫ぶ声が聞こえたのか、城壁の上にいる門番たちが慌てている様子が見て取れた。
ギギギ……と鈍い音を立て、門の重い扉が、少しずつ開いてゆく。
だが、まだ安堵はできなかった。数体の蛇の手が跨る黒馬は、彼の馬よりも急激に加速していた。
「……頼む、頼む、頼む、頼む、頼む……っ!」
クラニウム・ハンドの硬い指が、僅かに肩に触れる。
その直後、城壁とぶつかりそうになった奴らの馬は、とっさの判断で方向転換した。
彼が細い隙間に入っていくと同時に、その扉は完全に閉ざされる。
同時に追っ手も、門を睨んだ後、少しずつ撤退していった。
少年はこの日、故郷の村をクラニウム軍に焼き尽くされ、母を失い、大切な妹を失った。彼の中には、後悔の念しか残されていなかった。妹にしてやれることが、もしくは自身なら助けられたのではないか、と。
……これが、私が最も尊敬している英雄、「アーガス・レオ・グランカイン」の全ての始まりだ。
果てしなく長い話になるが、どうか隠居生活の暇つぶしにお付き合いいただきたい。




