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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
序章:転生と邂逅

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第一話「黒猫、平安の都に降り立つ」

目が覚めたとき、世界が妙に大きかった。


いや、正確には、我が小さくなっていた。


視界が低い。地面がやけに近い。そして、何より驚いたのは、自分の手、いや、前足を見た瞬間だった。黒い毛皮に覆われた、小さな肉球。


「…………」


言葉が出ない。いや、出そうとしても出ないのだ。喉が、人間のそれとは全く違う構造になっている。


「にゃあ」


情けない声が漏れた。


我が名はアゼル・ヴァル=ローグ。異世界アルメラ魔導帝国を統べし魔導王だった者だ。永劫炉えいごうろの暴走により世界が崩壊し、次元の裂け目に呑まれ、そして、猫になった。


ふざけるな。


我は魔導王だぞ。千年に一度の天才、歴代最強の魔法使いだ。それがなぜ、こんな小さな獣の姿で、見知らぬ路地裏に横たわっているのだ。


辺りを見回す。木造の建物が立ち並ぶ、狭い路地。土の地面に、わずかな草が生えている。空気は湿っぽく、どこか生臭い。


ここはどこだ?


記憶を辿る。永劫炉が暴走し、世界が崩壊した。我は炉と共に次元の狭間に飲み込まれ、そして、気がつけばこの姿だった。


次元転移、か。だが、なぜ猫に?なぜこの世界に?


答えは出ない。ただ、一つだけ確かなことがある。


腹が、減った。


これは理論ではどうにもならない、生理的な事実だ。胃が痛いほど空虚で、四肢に力が入らない。いつからここにいたのか、分からない。だが、この小さな体は明らかに飢えていた。


「にゃあ……」


また情けない声が出た。魔導王の威厳も何もあったものではない。


立ち上がろうとして、よろめく。四本の足で歩くという行為が、思いのほか難しい。バランスの取り方が、人間とは根本的に違うのだ。よろよろと数歩進んで、我は路地の出口に辿り着いた。


そこに広がっていたのは、


「なんだ、これは……」


思わず、心の中で呟いた。


木造の屋敷が整然と並ぶ、静かな街並み。白い砂利が敷かれた道。遠くに見える、優雅な曲線を描く屋根。これは平安時代?


いや、正確にはそれに似た、何かだ。我が知る歴史の中の、古代日本の都。だが、ここは我がいた世界ではない。別の次元、別の世界線だろう。異世界に転移したのか。それも、遥か過去の、いや、過去に似た世界に。


魔法は使えるだろうか。


我は意識を集中させた。体内の魔力を探る。魔導王として鍛え上げた、膨大な魔力の奔流を。


「……ない」


愕然とした。


魔力は、ある。微かに、ほんの僅かに。だが、かつての我が持っていた力の、ほんの千分の一にも満たない。封印されているのか?それとも、この小さな体では、この程度しか扱えないのか。


どちらにせよ、今の我にできることは限られている。


まずは食べ物だ。


我は再び歩き出した。ふらふらと、頼りない足取りで。


道を行く人々が、我を避けて通る。野良猫、か。この時代にも、そういう存在がいるのだろう。


屋敷の塀沿いを歩く。どこかに、食べ物が落ちていないだろうか。残飯でも、何でもいい。


だが、都の路上は驚くほど清潔だった。ゴミ一つ落ちていない。


腹が鳴る。視界が、ぼんやりと霞んできた。


まずい。このままでは、飢えて死ぬ。魔導王が、野良猫として路上で餓死する。なんという屈辱だ。


だが、プライドでは腹は膨れない。


我はよろよろと歩き続けた。どのくらい歩いただろうか。足が動かなくなり、我はついに、とある屋敷の門の前で倒れ込んだ。


白い砂利が敷かれた、立派な門構え。藤の紋が刻まれた札が、門に掲げられている。藤原、この国の名家、か。


もう、動けない。視界が暗くなっていく。


ここで終わりか。世界を滅ぼした魔導王の末路としては、あまりにも惨めだ。せめて、誰かに看取られて死にたかった、な……


意識が、遠のいていく。


その時だった。


「あら」


声が聞こえた。


女性の、若い声。澄んで、優しい響き。


誰だ……?


薄れゆく意識の中、我は微かに目を開けた。そこに、少女がいた。


十六、七歳だろうか。白い小袖に、淡い萌葱色の袴。黒く長い髪を、後ろで一つに結んでいる。


そして、その瞳が、我を見つめていた。


深い、漆黒の瞳。だが、その奥に宿っているのは、闇ではなく、光だった。優しさ、という光。


「可哀想に……」


少女が屈んで、我に手を伸ばす。


細い指が、我の毛皮に触れた。温かい。人の体温が、冷え切った我の体に伝わってくる。


「大丈夫よ。もう、大丈夫だから」


少女は我を、そっと抱き上げた。


その瞬間、我の心に、何かが満ちた。


温もり、だ。人の、温かさ。


かつて我は、人を支配する側だった。臣下たちは我を恐れ、敬い、崇めた。だが、こうして、純粋な優しさで触れられたことが、あっただろうか。


「痩せているわね。きっと、ずっとお腹が空いていたのでしょう」


少女が我を胸に抱いて、屋敷の中へ歩いていく。


その腕の中で、我は、泣きそうになった。


いや、猫に涙腺があるのかは分からないが、心が、震えた。


何だ、これは。何なのだ、この感覚は。


温かさに包まれて、守られて。


ああ、そうか。


我は、救われたのだ。



「さあ、これを食べて」


少女が差し出したのは、小さな木の皿だった。その上には、白い米と、焼いた魚の切り身が乗っている。


我は、がっついた。


魔導王の威厳も何もない。ただ、ひたすらに食べた。飢えた体が、栄養を求めて悲鳴を上げていた。


「ゆっくりでいいのよ。誰も取らないから」


少女が、優しく笑う。


その笑顔を見て、我は、初めて、この世界に来て良かったと思った。


いや、違う。まだそこまでは思わない。だが、少なくとも、この少女に会えたことは、悪くない。


食べ終わると、腹が満たされた安堵感と共に、強烈な眠気が襲ってきた。


「疲れたのね。ここで休んでいいわ」


少女が、柔らかな布を敷いてくれた。


我は、その上に丸くなった。猫の本能が、自然と体を丸める姿勢を取らせる。


「私は真白。藤原真白ふじわらのましろよ」


少女、真白が、我の頭を撫でた。


「あなたの名前は……そうね、黒くて綺麗な毛並みだから、玄丸くろまろ、と呼ばせてもらうわ」


玄丸。我の、新しい名前。


「よろしくね、玄丸」


真白の手が、優しく我を撫でる。


その温もりの中で、我は眠りに落ちた。


夢の中で、我は思った。


これは、罰なのか、それとも、救いなのか。


世界を滅ぼした罰として、猫の姿で生を得た。だが同時に、真白という、優しい少女に出会った。


理だけを追い求めた我に、何を学べと言うのだ。


その答えは、まだ分からない。


だが、少なくとも、今は。


この温もりの中で、眠らせてくれ。



目が覚めたとき、我は柔らかな布の上にいた。


部屋の中には、淡い光が差し込んでいる。障子越しの、優しい陽光だ。


体が、軽い。飢えの苦しみは消え、代わりに心地よい倦怠感だけが残っている。


「起きたのね」


真白の声が聞こえた。


見ると、彼女は部屋の隅で、何かを書いていた。筆を走らせ、紙に文字を綴っている。和歌、か。


この時代の貴族は、歌を詠むことを嗜みとする。言葉に力を込め、心を表現する。言霊の文化だ。


「ねえ、玄丸」


真白が、我を見て微笑んだ。


「あなた、不思議な瞳をしているわね。まるで、人のような、いいえ、人以上の何かを見ているような」


我は「にゃあ」と鳴いた。


それしか、できない。


だが、真白は、我の目を見て、何かを感じ取ったようだった。


「きっと、あなたには何か特別なものがあるのね」


真白が立ち上がり、我に近づいてくる。


そして、再び我を抱き上げた。


「これから、一緒に暮らしましょう。この屋敷で、私と」


その言葉に、我は、拒む理由が、見つからなかった。


いや、正直に言えば、拒みたく、なかった。


温かかったのだ。真白の腕の中が。


かつて世界を統べた我が、一人の少女の優しさに、救われている。


何という皮肉だろう。


だが、悪くない。


今は、そう思った。


我が名はアゼル・ヴァル=ローグ。いや、今は、玄丸。


黒猫として、平安の都に降り立った、元魔導王。


これから、どんな日々が待っているのだろうか。


真白の温もりに包まれながら、我は、ほんの少しだけ、期待していた。

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