第十七話「実俊の悩み」
晩秋の午後、実俊が屋敷を訪れた。
いつもの堅苦しい表情ではなく、どこか疲れた様子だった。肩が落ち、足取りも重い。
我が名は玄丸。屋敷に座敷童子のわらべが住み着いてから、屋敷全体が少し賑やかになった黒猫である。
「実俊様、どうぞお上がりください」
真白が実俊を迎える。
「真白殿、お邪魔いたします」
実俊が礼儀正しく頭を下げる。だが、その声には元気がない。
我は縁側で、二人の様子を観察していた。実俊の気配がいつもと違う。何か、悩み事があるのだろう。
真白も、それに気づいたようだ。
「実俊様、お顔色が優れませんが、何かございましたか」
真白が心配そうに尋ねる。
「いや、大したことでは……」
実俊が言いかけて、言葉を濁す。
「真白殿、少し、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
実俊の声が、珍しく弱々しい。
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
真白が実俊を庭へと案内する。
我は、少し離れた場所から、二人を見守った。
*
真白と実俊が庭の東屋に座る。秋の風が、二人の間を吹き抜けていく。
我は木の陰から、二人の会話を聞いていた。
盗み聞きというわけではない。ただ、真白の傍にいるだけだ。たまたま、会話が聞こえるだけだ。
「実俊様、何があったのですか」
真白が優しく尋ねる。
実俊が深く息をついた。
「陰陽寮での、立場のことです」
実俊の声が、重い。
「私は、見習いとして陰陽寮に入って、もう三年になります。ですが、いまだに一人前として認められません」
実俊が拳を握りしめる。
「私は、誰よりも努力してきたつもりです。夜遅くまで文献を読み、術の練習を繰り返し、師の教えを忠実に守ってきました」
実俊の声が、悔しさに震える。
「ですが、同期の者たちは次々と昇格していくのに、私だけが取り残されている」
実俊が顔を伏せる。
「師からは『お前は理屈に頼りすぎる』と言われます。『術は心で感じるものだ』と」
実俊が苦笑する。
「ですが、私には分からないのです。心で感じるとは、どういうことなのか」
実俊の言葉に、真白が静かに耳を傾けている。
「私は、理屈で物事を理解します。それが、私のやり方です。ですが、それが陰陽寮では評価されない」
実俊が拳を握りしめる。
「私は、このままでは一生、見習いのままなのではないかと」
実俊の声が、不安に満ちている。
我は、実俊の言葉を聞いていた。
理屈に頼りすぎる、か。
それは、かつての我と同じだ。
我も、理だけを追い求めていた。感情など、理の前では無意味だと思っていた。
だが、真白と出会い、我は少しずつ変わった。
理だけでは、世界は成り立たない。
感情があるからこそ、世界は美しい。
「実俊様」
真白が口を開く。
「私には、陰陽の術のことは分かりません。ですが、ひとつだけ、申し上げても良いでしょうか」
「はい、真白殿」
実俊が真白を見る。
「実俊様は、誰よりも真面目で、誠実な方です」
真白の声が、優しい。
「そして、人を救いたいという想いも、誰よりも強いと思います」
真白が実俊を見つめる。
「ですから、きっと、いつか実俊様の努力は報われます」
真白の言葉に、実俊の目が僅かに潤む。
「真白殿……」
「ただ、もしかしたら」
真白が少し考えてから、言葉を続ける。
「理屈で理解することと、心で感じることは、対立するものではないのかもしれません」
真白の声が、静かに響く。
「両方があって、初めて完全なのではないでしょうか」
真白の言葉に、実俊が目を見開く。
「両方、ですか」
「ええ。実俊様は、理屈で理解することがお得意です。それは、素晴らしい才能です」
真白が微笑む。
「ですから、その才能を捨てる必要はありません。ただ、それに加えて、心で感じることも大切にされてはいかがでしょうか」
真白の言葉が、実俊の心に届いているようだった。
「心で、感じる……」
実俊が呟く。
「はい。例えば、今、実俊様がこうして悩んでいらっしゃること。それは、心で感じているからこそ、ですよね」
真白の言葉に、実俊が頷く。
「理屈だけなら、悩む必要はありません。ですが、実俊様は悩んでいる。それは、心があるからです」
真白が優しく微笑む。
「ですから、実俊様には、既に心があるのです。ただ、それに気づいていないだけなのかもしれません」
真白の言葉に、実俊の表情が和らいだ。
「真白殿……ありがとうございます」
実俊が深く頭を下げる。
「あなたの言葉に、救われました」
実俊の声が、少し明るくなっている。
「いえ、私は何も特別なことは申し上げておりません」
真白が謙遜する。
「いいえ、真白殿の言葉は、いつも的確で、温かい」
実俊が真白を見つめる。
「私は、真白殿に出会えて、本当に良かったと思います」
実俊の声に、特別な感情が込められている。
我は、それを聞いて、胸が少しざわついた。
実俊の目が、真白を見つめている。その目には、明らかに恋慕の情がある。
真白は、それに気づいているのだろうか。
真白の表情は、いつもの優しい微笑みのままだ。
「実俊様、私も、実俊様とお話しできて嬉しゅうございます」
真白が穏やかに答える。
だが、それは友人としての言葉だ。
実俊の想いとは、少し違う。
我は、複雑な気持ちでその様子を見ていた。
実俊は、真白を想っている。
それは、分かる。
だが、真白は、実俊をどう思っているのだろうか。
そして、我は。
我は、真白をどう思っているのか。
家族だと思っている。大切な存在だと思っている。
だが、それは。
我は、自分の感情が分からなくなった。
その時、真白が我を見つけた。
「あら、玄丸。そこにいたのね」
真白が我に気づいて、微笑む。
我は「にゃあ」と鳴いて、真白の元へと歩いていった。
真白が我を抱き上げる。
「玄丸、ずっとそこにいたの?」
真白が我を撫でる。
我は「にゃあ」と鳴いた。
ああ、いた。お前たちの話を、全部聞いていた。
「ふふ、玄丸は本当に私の傍にいてくれるのね」
真白が嬉しそうに笑う。
実俊が、我を見た。
「玄丸殿も、真白殿の話を聞いていたのですか」
実俊が我に話しかける。
「玄丸殿は、賢いですからね。きっと、理解しているのでしょう」
実俊が我の頭を撫でようとする。
我は、実俊の手を避けた。
別に、嫌っているわけではない。ただ、今は、真白に撫でられたい気分なのだ。
「あら、玄丸。実俊様に失礼よ」
真白が我をたしなめる。
だが、我は真白の腕の中で、じっとしていた。
実俊が苦笑する。
「玄丸殿は、相変わらず気難しいですね」
実俊がそう言って、立ち上がる。
「真白殿、今日は本当にありがとうございました」
実俊が深々と頭を下げる。
「あなたの言葉で、心が軽くなりました」
「いえ、お役に立てたなら幸いです」
真白が微笑む。
「また、いつでもいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
実俊が屋敷を後にする。
その背中は、来た時よりも少し、軽くなっているように見えた。
*
実俊が去った後、真白は我を抱いたまま、庭を歩いた。
「玄丸」
真白が我に語りかける。
「実俊様、悩んでいらしたわね」
真白の声が、少し心配そうだ。
「あの方は、本当に真面目な方なの。だからこそ、不器用なのかもしれないわ」
真白が空を見上げる。
「理屈と心。その両方を持つことは、難しいことなのかしら」
真白が我を見る。
「玄丸、あなたはどう思う?」
我は「にゃあ」と鳴いた。
難しい、な。
だが、不可能ではない。
我も、かつては理だけを追い求めていた。
だが、今は違う。
真白と過ごす中で、我は心を知った。
感情を、知った。
だから、実俊も、きっと変われる。
時間はかかるかもしれないが。
「ふふ、玄丸。あなた、何か言いたげね」
真白が微笑む。
「いつか、あなたと言葉で話せたら、きっと色々なことを教えてくれるのでしょうね」
真白が我を抱きしめる。
我は、真白の温もりを感じていた。
実俊が、真白を想う気持ち。
それは、分かる。
真白は、優しく、美しく、そして強い。
誰もが、真白を大切に思うだろう。
我も、真白を大切に思っている。
だが、我と実俊の想いは、同じなのだろうか。
違うような気がする。
だが、何が違うのか。
我には、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
我は、真白の傍にいたい。
それが、我の全てだ。
*
その夜、我は真白の部屋で、窓の外を見ていた。
月が、空に浮かんでいる。満月ではないが、明るい月だ。
真白は、既に眠っている。穏やかな寝息を立てている。
我は、今日のことを思い返していた。
実俊の悩み。真白の言葉。そして、実俊の真白を見る目。
我は、何を感じたのだろうか。
嫉妬、か。
いや、それだけではない。
もっと複雑な、何かだ。
実俊は、真白を想っている。
真澄も、真白を想っている。
そして、我も。
我は、真白を。
守りたいと思っている。
傍にいたいと思っている。
それは、家族としての想いなのか。
それとも、別の何かなのか。
我には、分からない。
だが、一つだけ、確かなことがある。
真白が幸せであること。
それが、我の願いだ。
実俊が真白を幸せにできるなら、それでもいい。
真澄が真白を守れるなら、それでもいい。
ただ、我も。
我も、真白の傍にいたい。
それだけは、譲れない。
我は、月を見上げた。
月は、何も答えてくれない。
ただ、静かに輝いているだけだ。
我は、溜息をついた。
感情とは、難しいものだ。
理だけを追い求めていた頃は、こんなことで悩むことはなかった。
だが、今は違う。
心があるからこそ、悩む。
それは、辛いことでもある。
だが、それは、生きているということでもある。
我は、真白の傍で丸くなった。
真白の温もりが、我を包んでいる。
この温もりを、失いたくない。
だから、我は、真白を守り続ける。
誰が何と言おうと。
それが、我の決意だった。




