ぼんやりする病
冷たい朝靄の中を歩いていると、街の衛生を管理する役人が足早に駆け寄ってきた。
その顔は深刻で、額には汗がにじんでいる。
「クレスト殿……クレスト殿はこの国に起きている“ぼんやりする病”をご存じか?」
荒れた声で切り出された言葉に、俺はわずかに目を細めた。
「ああ……ずっと空中の一点を見つめ、ぼんやりとしている人のことですね」
そう答えると、役人は眉をひそめ、周囲を気にするようにあたりを見回した。
石畳の通りには、寒空の下でただ突っ立ち、焦点の合わない目で空を見上げる者たちがぽつぽつといる。
「あれを……なんとかできないか……」
その声はひどく弱々しく、祈るような響きすら帯びていた。
「考えさせてくれ」
俺は短くそう返し、重い足取りで街を歩いた。
かつて豊かだったこの国は、西の要衝を奪われたことで一変した。
街は物乞いと戦争孤児で溢れ、商店のシャッターは閉じたまま、通りにはゴミと瓦礫が積もっていた。
戦争が終わった今も、人々は変わらず空虚だった。
まるで魂だけをどこかに置き去りにしてきたように。
街角、路地裏、屋敷の影――至るところで、空を見つめたまま動かぬ人が増え続けていた。
それが「ぼんやりする病」だった。
片付けも手につかず、仕事も満足にできない。
中には床に伏して、まるで植物のように動かない者もいた。
感染症でもなければ、明確な疾患でもない。
ただ、そこに「いる」だけの抜け殻。
国民の5人に1人がこの状態に陥り、国の再建は深刻に遅れていた。
人々は彼らを見て「怠け者」と吐き捨てたが、それで状況が好転することはなかった。
俺は屋敷に戻り、精霊タンを呼び出した。
「精霊タン。ぼんやりする病……なんとかできないか? 整理整頓で」
精霊タンはしばらく黙り、宙をふわりと漂う。
「できるよ。あれは“思考の霧”と呼ばれる状態だ。ストレス、悲しみ、慢性的な疲労や睡眠不足が積み重なると、脳が情報処理を拒否し始めるんだ。今回の場合は――戦争だね。家族や友人を失った者も多いだろう」
なるほど、と俺は唸った。
振り返れば、街の空気はどこも重く、死者の影が色濃く残っている。
「……どうしようもできないのか」
「いや。認知機能が低下していると、複雑なことはできないけど、単純な作業なら体が覚えてるんだ。例えば……掃除をさせてみるといい」
「掃除?」
「そう。街の掃除。まずは石ころを拾わせる。それだけでいいんだ。単純な作業は、壊れかけた回路を少しずつつなげる力がある。そして必ず報酬を渡すこと。パン一個でもいい。自分が役に立っているという実感が、生きる力になる」
俺はすぐに役人を集め、街中に呼びかけさせた。
その翌日――
広場には、数百人のぼんやりとした目をした者たちが集まった。
冷たい風が吹く中、彼らは無言で立ち尽くしている。
誰もが虚ろな目で、まるで夢の中にいるようだ。
俺は声を張った。
「今日やることは、たったひとつ――」
広場に沈黙が落ちる。
「小石を拾え。それだけだ。他には何もしなくていい。
そして、手を動かした者にはパンと温かいスープを渡す」
少しのざわめきが起きたが、すぐにまた静かになる。
やがて、一人の老女が、ゆっくりと腰をかがめ、小石を拾い上げた。
その動きにつられるように、近くの少年が石を拾う。
さらにその隣の中年男が――。
広場は、カチリ、カチリと石がバケツに落ちる音で満たされ始めた。
パンとスープを受け取った者が、熱そうにふーっと息を吹き、口に運ぶ。
冷え切っていたその頬に、かすかだが、血の気が戻るのが見えた。
それから数日、街は変わり始めた。
石、小枝、動物のフン――これまで無価値だったものが、広場に山のように集まった。
小石は修繕中の建物に使われ、フンは肥料として農地に送られ、小枝は燃料にされた。
「見ろ……これが再生の種だ」
精霊タンが肩越しにささやく。
ぼんやりする病は、街のゴミがなくなるのと同じように、少しずつ、しかし確実に消えていった。
街はゆっくりと、しかし確かに、戦争の痛みを癒し始めていた。




