男の苦悩と決意
いつものように二人のお茶会中。フィアナが、あふ、と欠伸をかみ殺した。今日、何回目だろう。
「フィアナ、眠いのか?」
「申し訳ありません。昨日、少し夜更かしをしてしまって」
首を振って眠気を飛ばそうとするフィアナを引き寄せる。
「無理をするな。時間になったら起こしてやるから、少し寝ろ」
無理矢理、頭を胸に押し付けると、こてんと身を預けてくる姿が愛おしい。
「では、少しだけ……、お言葉に、甘え、ます、わ……」
フィアナは、そのまますやすやと夢の世界へ旅立った。
二十分後。
自分で促しておいてなんだが、この体制は、辛い。起きているフィアナがくっついてくる分には平気なのだが、眠ってしまって色々無防備なフィアナを見ていると、こう、何か湧き上がってくるものがあるわけで。
フィアナをそーっと、起こさないように少しだけ体制をずらす。ずらして、色々、当たらないようにする。
「ケイド、ソフィ・ジェルマンの定理を」
「はい」
「ご苦労。下がってていいぞ」
すっと差し出された本を受け取り、侍従に休みを取らせる。
今日、偶々これを借りていた幸運に感謝したい心持ちだ。
この本は、フェルマーの大定理に挑んだものであり、オイラーのように指数を個別の値に限らず、一定の範囲に対して切り込んだものである。これが、大定理が正しいか否かという大いなる命題への大いなる前進であることは言うまでもなく。
内容はやや難しいが、代わりに、全てを忘れて数学の世界へと引き込む力が……。
すりっ。
「フェルマーの大定理は、x、y、z のいずれかが p で割り切れる場合と、p で割り切れない場合とに分類され、p が 2p+1 も素数となる奇素数の場合、前者については正しいことが証明される。それは……」
作文発表のように、分厚い本をすっと眼の高さに持ち上げ、声に出して読み上げる。
「ん、うぅん」
どうやら、数学の世界へと引き込む力は、万能ではなかったようだ。首元にかかる息に、美しき数式の世界はいとも簡単に吹き飛ばされた。
侍従を下がらせたのは失敗だったかもしれない。今はフィアナの侍女もいないため、この場にいるのはカイルとフィアナの二人きりなのだ。他に気を紛らわせるものがないかと必死に辺りを見回すが、生憎と丁度いいものは見当たらない。
カイルは一つため息を吐いて、無駄な努力を放棄すると、フィアナが動かないように抱きとめた。
自分の忍耐の限界を試そうとする無邪気な悪魔は、まるで自分がいれば何も心配ないというかのように、安らいだ顔で眠っている。試しに、つんと頬を触ってみるが、起きる気配はない。
カイルは、その肩に頭を埋め、今ここにフィアナがいる奇跡を噛み締めた。
一度は完全に失ったと思ったもの。自分の人生そのもの。そして、少し運命の振り子が違った揺れ方をしていれば、永遠に失われていたはずのもの。
今更、フィアナを手放せといわれて、出来る訳がない。こうして共にいる今、どうやって離れていられたのか、思い出すことすら困難だった。
――このまま、何もせずに終わらせて良いんですの? 後悔はいたしませんの?
――今なら間に合いますわ。きっと彼女は、貴方が来るのを待っていますもの
メイリーンに見限られた時、必死に自分を励まそうとしたフィアナ。その顔にかすかに隠し切れない悲しみが浮かんでいた。
――彼女を好きでしょう? 共に歩みたいと思ったのでしょう? その気持ちは間違いではなかったはずです
自分が独りになろうとしないよう、メイリーンの元に戻るように説得しようとしたフィアナ。ずっと一緒にいたいと言ってくれていたのに、その気持ちを押し隠して、私が幸せになれるよう、背中を押してくれようとしていた。
――どうして……
――だって、かいるさま、もう、わたくし、いらないって。めい、りーん、すき、だって
信じられないとばかりに泣くフィアナ。けれど、信じたい、愛されたいという想いが湧いてくるのが見えた。
――いやっ! もういや! カイル様なんて、カイル様なんて、大っ嫌いですわ!
言いながら、ぎゅっとしがみついてきたフィアナ。全身で、安心させてほしいと訴えていた。
フィアナはどうするだろう? あれだけ心配させ、混乱させて、精神的な苦痛を与えたであろう一連のやり取りを、自分が身体中震えが来るほど喜んでいると知ったら。
フィアナを他の何からも守りたい。その気持ちは自分の中に、絶対のものとしてある。
フィアナが泣けば、胸が引き裂かれるし、フィアナが心を押し殺さねばならない事態なんて、考えるだけで苦痛だ。笑ってほしいし、思いっきり泣いてほしい。いつだって、自由に飛び回って、疲れたなら、自分の腕で休んでほしい。
好奇心旺盛なフィアナが、いつだって楽しく動けるように見守り、帰る場所になる。それが、自分の幸せだった。
それは、確かに本心からの思いである。幼い頃の自分であれば、ただそれだけだった。
だが。
カイルは、相反するもう一つの思いが湧き上がってくるのを感じていた。
『メチャクチャニシテヤリタイ』
自分を想って涙するフィアナが見たかった。自分のせいで傷付くフィアナが見たかった。他の何者にも傷付けられないフィアナが自分のためだけには傷付く、フィアナの想いが見たかった。
『傷付いてほしくなんてない。まして自分が原因でなんて絶対に嫌だ』
『傷付イテホシイ。ソノ原因ガ、自分以外ナド許セナイ』
あの時は、思いもしなかった考え。自分を罵るのでも叩くのでもいい。泣き喚いたっていいから、無理に自分を殺さないでほしいと願っていたはずなのに、今あの時を思い出すと、黒い感情が胸を渦巻く。
――このまま、何もせずに終わらせて良いんですの? 後悔はいたしませんの?
――今なら間に合いますわ。きっと彼女は、貴方が来るのを待っていますもの
決着をつけようと思った。自分が傷付けたメイリーンのためにも、フィアナのためにも。きちんと話して、フィアナを慰める権利がほしいと思った。
自分ヲ気遣イナガラ、己ガ傷付クフィアナガ見タカッタ。自分ガ手ニ入ラヌ悲シミヲ宿シタ顔ガ。
――彼女を好きでしょう? 共に歩みたいと思ったのでしょう? その気持ちは間違いではなかったはずです
無理をさせているのが辛かった。こちらのことなんて考えずに、自らの望みをぶつけてきて良いんだ、と叫びだしたかった。
ソノ一瞬浮カンダ痛ミヲ堪エルヨウナ顔ガモット見タカッタ。自分ガ他ノ人ヲ好キダト己ノ言葉で再確認シテシマッタ苦シミガ。
――どうして……
――だって、かいるさま、もう、わたくし、いらないって。めい、りーん、すき、だって
――いやっ! もういや! カイル様なんて、カイル様なんて、大っ嫌いですわ!
これだけ深く傷付けた自分が悔しかった。あれだけ気丈に支えてくれていたフィアナに、こんな風に言わせてしまうなんて。抱きしめて、悲しみを吐き出させてしまいたかった。フィアナがまた笑えるように。
深ク傷付イテルノガ、嬉シカッタ。自分ハコレダケフィアナヲ傷付ケラレル存在ナノダト、モット実感シタクテ。泣イテ縋ッタ君ヲ突キ放シタラ、モット絶望シテクレル?
もしも感情が実体を持ったなら、粘りつく泥のようになるだろう、おぞましい気持ち。
けれど、確かに存在する気持ち。こんな醜い感情を、フィアナが知ったらどう思うだろう?
怒る? 幻滅する? 逃げようとする?
けれど、もう逃がせない。泣かれようと、懇願されようと、叫ばれようと。例え、義父上達が駄目だと言おうとも自分の前からフィアナが消えるなんて許せなかった。フィアナを奪おうとするものなど、全て消し去ってやる、と凶暴な心が暴れ叫ぶ。
「フィアナ。俺は、聖人君子にはなれないんだよ」
カイルは、呟く。
いつだって、自分を純粋に慕ってくれる眼差し。その眼に映っている『カイル様』は、本当に自分だろうか? それとも、まだ何も知らずにいた頃の、フィアナに優しいだけでいられた自分?
分からない。昔の自分は、フィアナを喜ばせてきた。フィアナを望む有象無象と比べて、自分が優位に立っていられたのは、婚約者という立場の他、フィアナの幸せのために行動していたからだ。
けれど、今の自分は? たとえフィアナが不幸になろうとも、自分の傍に縛り付けたいと願う自分。逃げられぬように組み敷いて、泣き叫ばれようと懇願されようと鎖で雁字搦めに繋いでしまいたいと思ってしまう自分。
こんな自分が、フィアナに相応しいなどと言えないのは分かっている。だが、この歪んだ欲望を消すことすら出来ない。
すぐ目の前にある首筋に噛み付いて、自分のものだと主張したい衝動に駆られる自分は、もう既に狂っているのだろう。
「フィアナ、俺はっ……」
「カイルさま……。泣いていらっしゃいますの?」
はっとフィアナから顔を離し、ゆっくりとそちらを見ると、まだ眠そうなフィアナと目が合う。
「フィアナ、俺は泣いてなんか……」
寝ぼけ眼のフィアナは、半分夢の世界に足を入れたまま、カイルに手を伸ばしてきた。
「大丈夫ですわ、フィアがカイルさまを守って、さしあげ、ます、わ……」
フィアナは、カイルの瞼に口付けると、ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でて、そのままがくっとカイルに崩れ落ちる。
「……フィアナ?」
突然の行動に驚いて固まっていたカイルは、急に動きを止めたフィアナに声を掛ける。けれど、フィアナは既に、すやすやと眠りの世界に旅立った後だった。
「ぷっ。ふふっ」
その早さに、笑いが漏れる。カイルは、フィアナを起こしてしまわないよう、必死に笑いをかみ殺そうとした。
いつも、カイルが泣いているフィアナをあやしていた方法。それを、フィアナがやってくるとは。
自分が大丈夫だと言うと、いつも安心しきった顔で身を預けてきたフィアナ。自分もフィアナに寄りかかって良いのだろうか?
声を立てずにひとしきり笑ったカイルは、今まで自分を覆っていた靄が消え去っていることに気付く。
あれだけ、暴れ狂っていた醜い感情。押さえ込もうとすればするほど、却って存在を主張してきたそれ。それが、フィアナの光にさらされただけで消え去ってしまった。
後に残るのは、フィアナがここにいる喜びと、甘い疼きだけ。
フィアナを守りたい。その想いは絶対のものとしてある。けれど、本当に守られているのは自分なのだろう。いつだって、フィアナは自分の進む道を指し示す。間違った道も、正しい道も全て。
「けれどフィアナ。俺も君を守るから」
ずっと一緒に生きていきたい。そう願う自分を許して。君がいれば、自分は何だって出来るから。
縋るような思いでフィアナを見る。すやすやと眠るおでこに口付けると、フィアナの頬がふにゃりと緩んだ。まるで「構いませんわ」と、肯定してくれたようで、自然とカイルの頬も緩んでいた。
「大好きだよ、フィアナ」
君は僕の太陽。だからどうか、太陽を奪わないで。
本編最後のカイルの気持ちを知りたいという方と、何かテーマソングに沿ったお話を、と言われる方がいらっしゃったので、両方纏めてみました。最後にいきなり、無理矢理な文が入っているのはそれが理由です。うぅ、もうちょっと上手く繋げたかったんですが、諦めました。
テーマソングは、『You Are My Sunshine』です。カイルのフィアナに対する想い(この箇所だけ、おもいって書いたら重いになった……。正しい! やるな、IME!)って、これの有名な歌詞部分がぴったりなので。但し、全歌詞見ていたら、予定より暗くなってしまいました。
リクエストくださった方。こんな感じで……いかがでしょう?
本編よりも、ちょっぴり病み方がグレードアップしちゃいましたが、大丈夫。フィアナがいる限り、カイルは踏み止まれるので。
カイルの揺らぎは何度かぶり返したりするでしょうが、フィアナが笑えば消え去るし、フィアナが泣いていればそんなの忘れるほど慌てるので、問題なし。
ちょーっと、期待していたのとは違うかも、という気もしますが、うちの子、こういう子です。
さて、一旦カイルとフィアナの物語はここで終了。
これからも、カイルはフィアナを甘やかし、フィアナはカイルを無自覚に振り回しながら、互いの幸せを考えていくのでしょう。
ここまでお付き合いくださいました皆様、真にありがとうございました。フィアナ達に代わりまして御礼申し上げます。
それではまた、お会いする機会がありましたら、よろしくお願いします。




