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「君って俺が好きなんだよね?」


 志野森先輩にそう問われて、一瞬だけ迷って、答えた。


「すみません。私は志野森先輩のこと、全然まったくこれっぽっちだって好きじゃありません。むしろ苦手です」

 正直に話す。

「ぶっははははっ」

 返答をきいた志野森先輩は声をひそめながら爆笑した。図書室内ではお静かにしてください。

 でも、私にとっては不運なことに、現在の図書室の利用者数はごく少数だ。なので多分、少しくらい声が漏れても図書室から強制的に退場はされない。

 志野森先輩は猫背を折り曲げてお腹をよじるように心底楽しそうに口を押さえて笑った。笑うところだろうか。こっちは真剣なんだけどな。

「いやー。痛快だな。」

 笑いすぎの涙をぬぐいながら、彼は満足そうに頷いた。


「遠藤先輩は志野森先輩の数少ないお友達なのに。その彼女とキスしちゃう人って不潔だと思います」

 できるだけ志野森先輩にと言葉の棘がひっかかるような意地悪な言い方をしたつもりだった。けれど、それを聞いた彼はますます楽しそうになった。底が見えない人だ。

 困惑する私の視線に志野森先輩が目を細める。ああ。このひとの顔。私のことをどう苛めてやろうかと考えてる。姉と同じにおいがする。

 本当に嫌いだ。


「あのさ。俺は君が好きだよ。百合ちゃん。」


 呼吸が止まるかと思った。


 なんて。

 なんてぺらっぺらの嘘だ。

 誠実さのかけらもない。せめて心を込める演技くらいしろよ。いっそ感動するくらい口調が軽く胡散臭かった。

 志野森先輩の目をみた。

 指紋で汚れまくった眼鏡の奥にあるのは、睫で縁取られたとても美しい目だった。でも、なんの感情も読めない。


「……なんのつもりですか。」

 尋ねる。まったく意味がわからない。

「あはは。理解が悪いね。百合ちゃん。」

 覚えの悪い生徒に接する教師のような事務的な口調だった。


「僕は君が好きだよ」

 繰り返された声は言葉としては愛の告白だ。でも、どこか蔑んでいるような声色だった。


「はぁ。反応薄いね……いいかい。茜さんは俺に恋してる。多分彼女の初恋だよ。」

 志野森先輩は驚愕の事実をたいしたことでもなさそうに口にする。

 ああでも、やっぱりそうなんだ。姉さんこの人を好きなんだ。え。あ。やっぱり納得は出来ないような気がするんだけど。

 すこし混乱して頭が止まっている私に関係なく志野森先輩は続ける。


「で、それをよくふまえた上で考えてくれる? 彼女の初恋の相手が『百合ちゃんを好きだ。』と茜さんが知ったら、どうなるかな?」


「……は?」


 どうなるって。そんなの。そんな事実はどこにもないくせに。

 あまりに現実的じゃない設定で、理解がおいつかない。

 整理する。

 私が優位にたつことを姉はひどく嫌がる。

 姉にとって、踏み潰してヒステリックに攻撃できる砂袋ーーサンドバックだ。

 私がかわいいねと褒めたと知れば、そのとき着ていたワンピースを強奪する。私が絵がうまいねと褒めたと知れば筆を二つに折り、絵の具をぐちゃぐちゃ混ぜ合わせて放置する。それが姉だ。

 だから、私は姉を刺激しないようにしないように極力息を殺して生きている。今回の好きなひとを誤解させることだって、せめてものささやかな嫌がらせだった。

 それなのに。

 はじめて姉が人を本気で好きになった思い人が、私を好きだと言い出したら?

 結論は……そんなの地獄を見るに決まっている。

 

 ああ。つまり。

 ……志野森先輩は私を脅している?

 そんな脅しなどくだらない、と笑うことはできなかった。

 多分、姉はなんだってやるだろう。自分の奪われた矜持のために。泥のついたプライドのために。妹をどんな目にだって遭わせたって平気なひとだ。

 警察沙汰になる一歩手前か、それ以上。

 嫌な情景が脳裏に浮かぶ。

 急に息が苦しくなった。心臓の鼓動が跳ねて、ばくばくと嫌なリズムを奏でる。


「一週間に一時間デートしてほしい。それだけでいい。君が望まない以上、ハグもキスも……君の言う不潔な行為はしないって約束する。だから俺の新しい恋人になって」

 さも楽しげに彼は続けた。


「じゃなかったら、君を好きだ、と朝も夕もなく大声で告白して全校中に知らしめる。そうすれば、もちろん、茜さんの耳にも入るだろうね」

 薄く口を歪めて笑う。

 至近距離で見る彼は、ぐしゃぐしゃの髪もシャツもそのままなのに、なぜだか悪魔のように美しくて、ただ怖かった。


「よく考えて」


 私の髪を一撫でする。彼の指が触れた皮膚からめまいが広がって頭がくらくらする。

 寒くてたまらない。二の腕のあたりがぶわ、と鳥肌がたったのが分かった。足が押さえようとしながらも細かく震えていた。

 その様子を認めたうえで、彼は私を撫で、たまらなく嬉しそうにやわらかく微笑んだ。

 

 髪を撫でて去っていた志野森先輩の背中を見つめながら、私は動けなかった。

 

 どうして。どうして。どうして。こんなことになる?

 

 ああ。


 人を呪わば、穴二つとかそういうの?


 懺悔を。


 言わせてもらえるのなら。


 私は、姉を恨んではいるけれど、同時に幸せになってほしいと思っていた。

 いつか、姉が本当にちゃんとした恋をするのを望んでいた。

 遠藤先輩とつきあうみたいに、私への嫌がらせなんかに、姉の唇やら身体を、利用しないでほしかった。

 大切にしてほしかった。その空っぽだけど美しい肉体を。


 ちょっとだらしない男の子と付き合って、少し反省してほしい。


 それは、遠回りだけど、姉の幸せへの道だと思ってた。


 ああ。ただ、自分が馬鹿だってことはよく分かった。


 

 志野森先輩を見誤ってた。絵を見たら分かったはずなのに。

 普通に見えるはずなのに、なぜかひどく怖くて破滅的。

 そのままの人だったのに。



 

 結局、その日自分がどうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。

 そのままベットに倒れこんで突っ伏して寝た。

 晩御飯も食べず夢も見ないで、ただ眠った。


 翌日。

 ああ。朝日が恨めしい。そう思いながら目がさめた。

 お腹がぐぅ、と鳴って、強い空腹を感じた。ああ。こんな朝でもお腹が減る。

 食パンとハムエッグを自分で用意して食べながら、情けなさを感じていた。

 あ。卵が固くなりすぎた。なにもかもうまくいかない感じがしてきた。

 洗面所の鏡を見ると、目がパンパンに腫れていた。いつものように髪を適当に櫛でといて一つにまとめる。ああ。とんでもなく不細工だけど、ちょうどいいや。志野森先輩と付き合いはじめる記念日にふさわしい顔だ。

 やけっぱちな心でそう思った。


 校舎に入ったとたん、下駄箱で志野森先輩に捕まった。


「やぁ。百合ちゃん。」


 顔は見たくなくて、俯いて言った。


「おはようございます。志野森先輩」


 息を吸って、吐く。


「一週間に一時間デートするだけ。本当にそれだけなら。私、先輩とお付き合いします。」


 口に出した瞬間、悪魔と変な契約をしてしまったような、ぞわりとした居心地の悪さを感じた。

 




ムーンに行かなきゃいけないような展開にはなりません。


次は、視点変更。


とりあえず、茜さんへ。(多分)

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