明治39年(1906)初秋
明治39年、初秋。
見慣れた赤茶色の国鉄の制服から、真新しい濃紺の制服に袖を通した瞬間から
私の新しい人生が始まった。
「満州鉄道株式会社」――通称、満鉄。
日露戦争の薫りがいまだ生々しく残る大陸の玄関口、大連。
そこから北へ、ロシアから引き継いだばかりの広大な線路網が果てしなく伸びている。
国鉄からの転籍組として、この広大な大地を走る歯車の一つとなった。
朝の点呼は、まるで軍隊のように厳格だった。
「気をつけ!」「休め!」
元軍人や政府高官出身の幹部が並ぶ前で、私たちは背筋を伸ばす。
かつての日本国内の鉄道とは違う。
ここは「国策の尖兵」であり、大陸における日本の威信を背負う場所なのだ
という緊張感が、肌をピリピリと刺していた。
「中村、今日の貨物列車の組成は滞りなく進めろ」
「はっ!」
配属されたのは、大連駅構内。
ロシア式の名残を残す巨大な機関庫と、
無骨なクランク音を立てる巨体の蒸気機関車が吐き出す石炭の匂いが漂う中、
貨物列車の荷主管理組成が朝のルーティンだ。
足元を踏みしめると、かつてのシベリア鉄道が遺した枕木の硬さと、
真新しいバラスト(砕石)の感触が入り混じっていた。
昼下がり、駅のプラットホームは喧騒に包まれる。
そこを行き交うのは、日本人だけではない。
辮髪を揺らした清国人の労働者たち、ロシア人の難民、
そして馬子唄を歌いながら荷物を運ぶ荷馬車の御者たち。
様々な言葉が入り混じるカオスの中、喉をからして叫ぶ。
「おい、そこ危ない! 線路に近づくな!」
ロシア語混じりの看板、キリル文字が記されたままの貨車。
不慣れな環境に加え、大陸特有の乾いた砂塵が
風に乗って舞い上がり、目と喉を容赦なく痛めつける。
ふと、故郷の穏やかな田園風景が脳裏をよぎった。
日本の、あの緑豊かな単線のプラットホームが恋しくなる。
だが、手元のポケットにある辞令を見つめると、引換に支給された破格の給与手当と、
会社が背負う「2億円」という巨大な資本の重みが現実へと引き戻した。
私たちは、ただの鉄道員ではない。大陸の開拓者なのだ。
夜。新しく建てられたばかりの社員寮に戻る頃には、
全身が石炭の煤と砂埃で真っ黒になっていた。
狭いながらも支給された真新しい畳の部屋。
窓の外を覗けば、見知らぬ大陸の夜空に、どこまでも広がる星が冷たく輝いていた。
同僚たちと囲む夕餉の席では、もうじき運行が始まる
「満州の巨峰」――超特急列車の噂でもちきりだった。
「聞いたか? あの特急が走り出せば、大連から長春まで一気に結ばれるそうだ」
「ロシアの軌間を日本式に改軌するだけでも大変な大工事だったのにな」
不安がないと言えば嘘になる。
家族を日本に残してきた者、単身でこの荒野に飛び込んできた者。
誰もが胸にそれぞれの事情を抱えながら、
それでも「満州を俺たちの手で動かしている」という奇妙な連帯感と高揚感に包まれていた。
ランプの微光の中、明日履く制服のブラシをかける。
果てしない平原の彼方へと続く線路の音が、
耳の奥に懐くかのように鳴り響いていた。




