5
突然の闖入者を認めると、アルプーは傍の食器棚の中からフォークを取り出してガリーナの喉に突きつけた。
「子供、動くとこの娘を殺すぞ。術も使うな」
キリアは慌てて立ち止まる。言われなくたってもう冥魔術は使えない。連続して何度も使うと命に危険を及ぼす事は、術を嗜む者ならば誰しも熟知の所である。
だから力の限り、肥えた領主と佇むカイムを睨み付けた。彼女を人質にとられては何一つ出来る事は無い。
アルプーが焦燥的な、ヒステリーじみた声を上げた。
「よくも私の館を滅茶苦茶にしてくれたな。お前は死刑だ、小僧。村に帰って余計な事を言われても困るからなあ、ひひ。どうやって死にたい? お前も私の夕餉になるか? ひひひ」
「じ、冗談じゃねえ!」
危うい色を放ち始めた男の目に、少年は小さく身を震わせて顎を引く。この身を切り刻まれてこの男の血肉となるなんて、想像するだに吐き気がする。ご先祖様に顔向けが出来ないにも程がある死に様である。
カイムはまだ黙っていた。そしてアルプーの手の中のフォークと、ぐったりしているガリーナを代わる代わる眺め、やがて持っていた包丁を俎板の上に突き立てた。
「もう止めましょう、旦那様」
低く漏れた言葉は、領主の予想の範疇内にあったものらしい。
彼は邪悪な笑みをますます深くし、鼻を鳴らした。
「意味が解って言っているのなら狂気の沙汰だな、カイム。お前達は人殺しだ。私が口を噤んでいるからこそ、お前は平穏な生活を送ってこられたんだぞ」
キリアは柳眉に怒りを顕わにして領主を凝視した。
(この野郎、最後には全部料理人の所為にする気だ)
もしも彼の所業が明らかになった場合、領主といえども殺人の罪は逃れられない。しかし彼は、その罪の全てを「料理人達が勝手にしたこと」だと言うつもりなのだ。ゆえに自分は知らずに少女達を食べた、と。一介の小間遣いがどう反論しようとも、ロードの権力はそれを一蹴出来る。
「てめえ、汚え脂肪どころか頭ん中にも腐った味噌を詰めてやがるのか」
「馬鹿を言うな、お前達が馬鹿なだけだ。後先も考えず、その場凌ぎの行動をする――まこと民草は頭が悪い。それを支配し束ね上げる我々の苦労も少しは考えて欲しいものだ」
「なんだと……!」
体中を循環していた血液がすべて頭に昇るのを感じ、キリアはその奔流に任せて術の発動の準備をした。今撃てば恐らく鼻血の一つでも出して昏倒するだろうが、それでも構わない。
この怒りを発散出来なければ、すぐにでも憤死してしまいそうだった。
つい先程見つけた最も自分に適した呪文、最高の精度の金の術を引き出す言霊、目の前の男に対する世界で一番冴えた悪態を探しながら、少年は両手を前に突き出す。
そして小さく息を吸い込み――。
「キリア」
突然かけられた声に、キリアははっとしてアルプーの手元を見た。
片手に抱えられたガリーナ、そしてもう片方の手に握られたフォーク。その先端は彼女の喉に密着させられている。
声をかけたカイムを見ると、厳しい顔をして少年を見つめていた。
「お前……」
何考えてんだよ、と喉の奥で唸りながら、キリアはどうにか掲げた両手を降ろした。
カイムは今まで、領主の命令で少女達を殺してきたはずだ。そして今更になって、もう殺したくないと言い出している。何故、今なのだ。何故、領主の命令に従わないのだ。彼にとっては、何時までもアルプーの保護下で罪を犯し続ける方が得であるはずなのに。
キリアは怒りと混乱と情けなさではち切れそうな頭を無理矢理に横に振って搾り出すように言った。
「今更悪かったとか思うんなら最初からやるんじゃねえよ、ぼけかす変態白髪はげ」
「変態でも白髪でもはげでもない」
「じゃあ食人鬼殺人鬼でぶ馬鹿あほ外反母趾」
青年は僅かに眉を吊り上げ、キリアを睥睨する。
「……君と話す気は無い。さっさと帰れ」
「そうは問屋が卸しませんよド低能。おれが帰る時はガリも一緒だっつってんだろがうんこ」
「聞こえないのか、帰れと言ったんだ!」
「良いとも、二人して一緒に居るがいい。土の下でな」
低音で口論をしていたカイムとキリアは、その鶴の一声で息を止めて領主を見た。
カイムの表情が凍ったのが視界の端に映った時、キリアはアルプーがフォークを頭上に翳す姿を見た。
「カイム、お前が殺せないのならば私がやる。血のスープは、今回は諦めるよ」
料理人が息を飲んだのが聞こえ、キリアは呆然とその銀色に鈍く光る食器の先端を見つめた。
「よせ……止めろ。それを振り下ろしてみろ、おれはお前に同じ事をしてやるからな!!」
アルプーは口の端で笑っただけだった。
キリアは竦んだ体で駆け出そうと思った。
カイムが俎板に突き立った包丁に手をやった。
その時だった。
閉じられていたガリーナの目がゆっくりと開かれたのは。
彼女は眠そうな目を擦り、ぼんやりと地面を眺めていたが、やがて自分を抱えている男に目を遣った。
キリアは少女の名を呼ぼうとして声が出ない事に気付く。体が硬直している。カイムも、アルプーも、キリアと同じく時間が止まったように今や完全に覚醒したガリーナを見つめた。
彼女は振り上げられた頭上のフォークには目もくれず、じっと視軸をアルプーの顔に置いている。状況が理解出来ているのかいないのか、今迄の会話を聞いていたのかいないのか、妙に凛々しい表情をしていた。
そして彼女は、ぽつりと呟いた。
「きのこ」
「……何?」
突如ガリーナは領主の腕の中からすり抜け、胸元から木槌を取り出す。
そして振り翳した。――アルプーに向けて。
「覚悟ぉおー!!」
「な、な、な!?」
間一髪、アルプーは巨体を転がして無様に地面の上を横滑りした。ガガゴン、という硬い音と共にすぐ後に置いてあった椅子の背が真っ二つに叩き割れる。ザロク元料理長が愛用していた椅子である。
あわや脳天炸裂、いや頭蓋骨陥没の危機。聖女の握り締めた木槌は、恐ろしい強度を持っているようだった。
彼女の攻撃は一度では終わらず、転んだザロクを追い回し、彼の放棄したフォークを粉々に折り砕き、実に十回続いた。
カイムもキリアも、口を開けて呆然とその様子を眺めているだけだった。
一度相手と距離を取り、一息ついたガリーナは、竦み上がっているアルプーに木槌を突きつけて高らかに宣言した。
「いつもいつも私の邪魔ばかりしてああ悔しいったら今日こそはこの私の軽やかなステップでぎっくり踏み潰してあげらすれろ」
駄目である。
瞳の中にうずうずが出来ている。
「執事の飲ませた薬だ」
カイムが目元を引き攣らせながら呟き、キリアはそれでなんとなく状況が解ったような気がした。一体何を飲ませたらここまでおかしくなるのだろう、と妙に冷えた頭で冷静に考える。只でさえアレな聖女が益々とんでもない事になった。
そして次の瞬間、これが好機だという事に気付いた。
「ガリ! ガリーナ! 強敵と書いて友と読む猫が川原でひっくり返った俺の空色のガリーナ、こっち来い!」
「あんですかっ」
彼女は領主を追い掛け回すのを止め、キリアを振り返る。相変わらずうずうずはそのままだったが、効果はてきめんだった。少女は覚束無い足取りで少年の元まで来ると、
「蜂蜜一緒に食べたいんならあの人にお願いしてください」
と一言言ったきり、再び崩れ落ちる。慌てて彼女を抱きかかえ、重みで膝をつきながらもその穏やかな寝息を確認し、キリアは今度こそ地面に座りこんだ。
キリアの苦労も周りの惨劇も自分の現状も知らず、あんまり幸せそうな寝顔をするので段々腹が立ち、頭を叩いてやる。
その時、何時の間にか隣に来ていたカイムが、少年の頭の高さまでしゃがみ込んだ。それに気付かなかったキリアは大いに驚いたが、彼の次の言葉ですぐに冷静になる。
「逃げるんだ、今なら衛兵も門衛も混乱している。あの馬と一緒に出れば大丈夫」
「おま……兄ちゃんは、どうすんだよ」
俺は大人だから、と彼は何時もの困ったような笑顔を作る。
「責任を果たさないとね。今からなんて、遅すぎるくらいだけど」
つまり、それは――殺人の罰を受けるという事なのだろうか。
そんなもの、死罪に決まっている。首を刎ねられた後、悪ければ晒し首だ。
嫌だ、とキリアは咄嗟に息を飲んだ。カイムは憎むには余りにも善良すぎる人柄をしている。そんな酷い死に方をして欲しくない。
けれど、罪は罪だ。自分一人が我侭を言った所でどうにもならない。
少年は神妙に頷いてみせ、それを合図にカイムも立ち上がった。正面には、荒い息をついて髪の毛を乱しに乱したアルプーが起臥していた。
「き、貴様ら、許さんぞ……。絶対に許してなるものか! 村ごと焼き払ってやる!」
「何馬鹿言ってんだ、おっさん!」
ガリーナを背負った為に下がった頭が遮る視界にふらふらしながら、キリアは叫んだ。出口が見えないらしかった。
「もう終わりだぞカイムお前の罪を公にしてやる、お前達の罪をな! ザロクも、他の料理人も、まとめて五人とも死刑だざまあみろ! ついでにそいつら二人もだ!」
そう叫ぶと、満身創痍の領主は高らかに哄笑した。
カイムが小さく嘆息する。その醜態に呆れたのか、諦めたのか、力の無い溜息だった。
「皆辞めましたよ」
言いながら、前掛けのポケットから四通の手紙らしきものを取り出す。
笑い声を引っ込めたアルプーがぽかんとそれを眺め、手紙がどうやら辞表らしいと気付き始めたと同時に、その顔にはどんどんと血が昇っていった。初めてカイムの赤い腕章に目を遣ると、聞き取れない程の早口で唾液を飛ばしながら大声で叫ぶ。
「あいつら、逃がすものか! 必ずひっ捕らえて全員縛り首にしてやる!」
「旦那様、お話があります」
「いや縛り首よりも打ち首かな何せ人殺しだからなあ、極悪人は風紀の為に見せしめにする必要が大いにあるから」
「旦那様」
「勿論貢税は一割増しだぞいやもっと上げてやる、この私をコケにした罪は何よりも重」
「うるさい黙れ」
「………」
アルプーは再び黙り込んだ。今の言葉がすぐに理解出来なかったのだ。
その言葉を発したカイムは、普段と変わらぬ静かな表情に、ほんの僅かな決意らしき色を浮かべている。今のは聞き間違いか何かだろうか、とアルプーは懊悩し始めた。彼の知っているカイムスターンという男は、下賤な出の割には誰よりも礼節を弁えた人間だった。流れの料理人だった身元も曖昧な彼を雇った事は大層感謝されたし、アルプーにとっても彼の料理は一番のお気に入りだった。誕生日に出されたマカプのゼリーはまるで海の底から生まれた青い宝石のようで、頬っぺたが落ちそうな舌触りと芳醇な香りに乗せられた味わいは水の女神もかくやの絶品。
ごん、と音がして彼は我に返った。
前の見えないキリアが見当違いの壁にガリーナの頭を打ち付けもんどりうって倒れた音だった。その衝撃でお玉と俎が軽い音を立てて二人の上に降り注ぐ。
「……何だ、カイム。命乞いか?」
少し落ち着きを取り戻し、血相をやや元に戻してアルプーは尋ねる。
「まさか。俺のした事はした事、誰にも許しを乞う気はありません。それよりも大変でした、貴方の望みの後始末をするのは。少女には家族も生活もありましたから」
「今更恩を売ろうというのか。感謝しているぞ、お前の料理した少女は絶品だった。だからお前の墓参りくらいはしてやるつもりだ」
カイムは首を振った。
アルプーはそれを達観と見做したが、妙に落ち着いた態度が鼻についた。
「何より大変なのは、人食いなどという事をしたら冥界の奴らの好奇の目が集まる事です。冥人達が面白がって貴方の所へやって来るかもしれない――だから俺は一層心を砕いたんです、この件の始末に」
「……冥界? な、何を言っているんだ。そんなの迷信だろう」
訳が解らないという顔でアルプーは料理長を見つめる。
殺人への罪悪感と死への恐怖でついに狂ったか、と戦慄する領主に目もくれず、相手は俯いて自らの赤い腕章を弄り始めた。
「美味しかったでしょう、少女の血のスープとソテーは。肉を絡めたパスタも」
「あ、ああ、絶品だった。お陰で私はお肌ツヤツヤ、むくみも取れて髪は若返り精力も回復して」
それは良かった、とカイムは覇気の無い声で呟いた。
「町で一番の豚ですからね」
…………。
「――――――へ?」
間抜けな声が響く。
次いで、ごべ、と音がした。出口からは遠く離れたあらぬ所で彷徨っていたキリアが、驚いてガリーナを床に落とした音だった。
当のカイムは表情も変えず、腕章に目を落としたまま続ける。
「あほですか、あんたは。常識で考えてください。誰が人間を殺して食卓に上げますか。全部豚ですよ、あれは」
「な、な、なんだとおおオオォォ!?」
あらん限りの声を振り絞った絶叫は厨房を震わせ、館を揺らし、遠く庭で整列し避難していたメイド達を不審がらせた。最も古参のメイドはその奇怪な声を怨霊と勘違いし腰を抜かした挙句臈たけし乙女の如く可憐な姿勢で失神した。
それはともかく。
「で、では、ザロクは――他の料理人達は」
粟を食うとか鳩が豆鉄砲を食らうとは正にこの事である。
アルプーは喉を通る空気の摩擦音と共に、喘ぐように目を白黒させながら訊いた。対照的にカイムは緩やかに視線を上げ、両手を前に組んで主に答える。
「皆、貴方を騙し続けるのが面倒になったんですよ。少女に資金を渡して王都に逃がした上で、あたかも人間を調理するかのように慣れない味付けの豚料理を出す。勿論資金は我々のポケットマネーです。誰がこんな職場に固執しますか」
後できちんと請求しますので、と肩を竦めて続ける。
「俺はただ、平穏を好んだだけです。ガリの聖女だけは村から出す事が絶対に不可能でしたので、失敗でしたが――。遅かれ早かれ、暴露しなければなりませんでしたから丁度良いと言えば丁度良い。貴方が食人などという稀に見る馬鹿な考えを捨てなければ、全ては解決しないのですから」
領主は顔を真っ青にした後、真っ赤にし、黄色になり、土気色になり、やがてもう一度赤くした。
「ふざけるな、ふざけるな! この……ふざけるなッ!」
だんだんだんと地団太を踏み、片足だけでは憤激を押さえ込めず、ぴょんぴょん飛んではだすんだすんと地面を打ち鳴らし、しかしすぐに疲れて滝のような汗を出す。その滑稽な様を、遠く離れた壁際で少年が確りと脳裏に刷り込んでいた。
「貴方が殺人者になるのを防いで差し上げたんです。感謝こそすれ、罵倒される謂れはありません」
白々しくすまし顔で言い放つカイムを血眼で凝視し、アルプーは奇声とも悲鳴とも言えぬ音を喉の奥から搾り出した。ベストを引きちぎりサスペンダーを弾きシャツを切り裂き、これ以上無い程の激情を込めて地面を踏む。
そして絶叫した。
「ち、ち、ち、調子に乗るなよ小僧! あんな不味いものを食わせおって、か、か、覚悟しろ!!」
しろおお、ろおぉ、ぉぉ……。
木霊が消えるまで、沈黙が続いた。
肩で大きく息をしながら、領主はカイムを凝望する。相手は端然と背を伸ばし、目を閉じていた。永遠かと錯覚する無反応の時間、その後に。
青年はゆっくりと瞼を開き――
「ぁあ?」
見た事もない程の、凶悪な光を放つ黒い瞳がアルプーを射抜く。その眼光は刃に似て、アルプーの脳天を両断せんばかりの鋭さ。
領主は怒りの熱が急激に引いてゆくのを感じた。代わりに冷たい汗が毛穴から逃げるように噴出する。
本能が気付いたのだ。
怒らせてはいけない人間の逆鱗に、触れてしまったということを。
(マ、マーマ――!)
亡母の顔を思い浮かべて逃避を図っても無駄である。完全に目の据わった料理長は、物凄い気迫を放ちながら彼の元へと歩んで来た。気のせいか、ごおおおおおという風の幻聴すら聞こえてくる。
「豚の血のスープ、臭みを取るのにどれだけ苦労したか! 香草に浸し! 内臓を洗い! じっくり煮込み! 仄かな甘みを出す為に隠し味として最高級のジャジャ鶏の卵を使い! 肉もそうだ、普通の豚肉と違う味わいを出す為に何度夜を明かした事か! それを食べた貴様は美味だと喜んだ、違うか!」
「う、あ……いや、そ……」
がっし、と自ら破ったシャツを握られ、襟元を掴みあげられる。
「貴様は自ら感じた至福の時をも否定するのか! 幸福の在処を無に帰し、俺の料理を否定し、死んでいった豚を否定する、その感謝を忘れた態度が最高に気に食わん! 豚と親に謝れ、このブタ野郎ッ!!」
「う……うええ……」
脳裏のマーマがあらあらヘイちゃんったらおいたが過ぎたわねえいい加減にしないとママ怒っちゃうわよと笑顔で囁く。
「ほお、謝らんか。中々良い根性をしているな、糞ブタ! だが発揮する場所を間違えている――それとも、ここを」
「……ぶえ……」
「――戦場だと、認めるのか!」
――結局、延々と料理長に説教をされた領主は、土下座し涙を流して豚と親と少女達と料理長に謝った。怒涛のように迫る言葉の海に飲み込まれ、死を感じたのは生まれて初めてだった。
新料理長は、お母さん以上に怖かった――。
+
「あー、その、つまり何だ。兄ちゃんは何も犯罪を犯していないってこと?」
そう尋ねると、相手は少々極まりが悪そうに答える。
「いや、犯しているよ。少女を殺して料理しろという彼を謀って騙していたからね。それが俺の罪と言えば罪」
はあん、とキリアは間の抜けた声で返した。
後先考えぬ馬鹿どころではない。最初から騙していたのだ、この青年は。
「なんかなあ……すげえ馬鹿みたいだな、おれが。一人で空回りして大騒ぎして。はあ」
肩を落としてカイムの後を歩きながら、キリアは続けた。
青年に背負われたガリーナは、そんな少年の失意どころか自分の身に起こっている事に一切気付かず熟睡している。時々むにゃもにゃ何かを呟いて幸せそうに笑い、それがまた腹が立つやら気を挫かれるやらで、キリアは何度目かの嘆息と共に周囲を見回した。
廊下の状況は惨憺たるものだった。ミッフィーが荒らした轍に加え、まるで台風でも起こったかのような滅茶苦茶な破壊の跡があり、色々な物の破片を避けて歩くのは一苦労だった。想像していたよりも遥か上を行く惨状である。これでは暫くはこの館の機能が停止するだろう。
「要するに、アレだ。兄ちゃんはペテン師だってことだ」
「心外だな、これでも結構胸を痛めてたんだぞ」
「じゃあ詐欺師」
「……もっと心外だ」
憮然とした様子で返す青年に、キリアは舌を出して見せた。
放っておいても、彼がなんとかしてくれたのかもしれない。わざわざ慣れない馬で駆けつけ、慣れない戦いをして死にそうになった事も、本当は無駄なことだったのかもしれない。そう思うと、どんよりとした雲が頭の周りを取り巻くのだ。
「でも、君達が暴れてくれたお陰で全てを捨て去る踏ん切りがついたんだ。ありがとう」
青年が振り向いて彼に笑いかける。顔の周りの暗雲を手で叩き消しながら、キリアは別にとぶっきら棒に返した。実の所、少しだけ嬉しく思ってしまったのだが。
「ところで、なんでそんなに離れてるんだい」
立ち止まったカイムが遥か遠方で怪訝な顔で尋ねると、少年も慌てて立ち止まって一定の距離を保つ。頬を一筋の汗が伝って落ちた。
「いや、なんつーか、その。はは」
「変な子だな」
「ははは」
お前の方がよっぽど変だよ、と心中で絶叫しながら愛想笑いをする。
先程の人が変わったような剣幕に喝破された哀れなアルプーを目の当たりにすると、カイムに安易に近づくのは蛮行であると思えた。それに、と荒れた廊下を振り返る。
厨房から離れるにつれ、嵐の爪痕は弱まってきていた。
(兄ちゃんが怒った時、確かに風が吹き荒れた。これは冥魔術だ、間違いなく。しかも半端じゃない強さの)
使用人が全て庭に避難していて良かったと思う、それほどまでに強力な術。領主に対して怒りをぶつけた際に発動されたものだとしては、純度が低く対象も厨房を中心とした広範囲という無為な風の術である。ならば恐らくカイムが無意識下で発動させたものなのだろう。
(こんな強力な術を無意識に? ありえねえ、どんな歴史上の有名な冥魔術遣いだって出来やしない)
距離を保ちながら相手の様子を伺うと、惨状に苦い顔をしただけで何も言及しようとしていない。彼が馬よりも早く館と村を行き来したのも、術が関係しているのだろう。
キリアの中で、カイムスターンという男は「厭な敵」から「危ないかもしれない味方」へと変化していた。
「さっき、領主に冥界がどうのと言ってたよな。あれってどういう事?」
警戒しながら尋ねると、カイムは再び立ち止まり、困った様な表情で振り返る。
「……冥人っていうのは、暇人が多いと聞くからね。アルプーみたいな馬鹿な事をする人間の所に見物に来るかもしれないと思ったから」
「クラビト、なんてただの伝説だろ。本当にいる訳無いじゃんか」
不審を顕わにする少年に対してカイムが言葉を詰まらせたその時、廊下の角から男が現れた。真っ先に辞表を出したであろう元料理長のその姿を認め、青年は口を噤んで向き直る。老人は青い静かな瞳にカイムを映すと、小さく呟くように言った。
「やはり、こうなったか。最後の料理長は君なのだな――カイムスターン」
ザロクはほんの僅かな悲哀と共に青年を見つめた。彼の赤い前掛けには大通りの有名料理店のアップリケが輝いている。フォークとナイフを構えたはちきれんばかりの暑苦しい笑みを浮かべる筋肉隆々の漢の絵だ。
カイムは小さな笑みを浮かべると、「ザロクさん、」と優しい瞳で見つめ返す。
「アルプーからもぎ取ったこれまでの出費の給付、貴方に分け前はありません」
矢庭にザロクの相貌に絶望と驚愕の綯い交ぜになった表情が発露した。
「な、なんだってええええ! カイムくん待ちたまえ、そこを何とか! 老い先短い老人に愛を!」
「ええい離せ! 全部俺に押し付けて逃げていった癖に、しかもしっかりと転職までして! 悪意有過失に慈悲は無いッ!」
「カイムくううううん……!」
追い縋る元料理長を蹴り倒して屋外へと駆け出す新料理長を目で追いながら、キリアは凛々しい表情と共に思った。
まあいいか、と。
門の外では、ミミが退屈そうにミッフィーの上で待っていた。
キリアとカイム、そして彼の背に負われたガリーナを目にすると相好を崩して手を振る。白い怪物が主の感情を感じ取って勝利の嘶きを上げた。しかしそれは嘶きというよりも、馬にあらざるべき咆哮だった。
「ちゃんと救出したのね、素敵だわ! 障害を乗り越えてこそ愛は成就するものよね!」
何の事だかさっぱり解らない、という顔でカイムは微笑して返す。
キリアは半眼で曖昧に頷くと、「無くてもいい障害だったけどな」と憮然と呟いた。とにかく今はただ疲れた。早く帰って眠りたい。
「という訳で、例の領主に対する噂、是正しておいてくれるかな?」
「ああ、しとくしとく。領主は豚が大好物で都に憧れる貧乏な少女に投資して王都に行かせた心の広い紳士だってな」
「それでいい、上下関係は信頼で結ばれるのが一番良いからね」
なんのことだかさっぱり解らないわ、と一人蚊帳の外にいるミミが不満げに漏らした。
「そんな事より、ガリ様に何か変わった事は無かった? をとめらしくなった?」
「をとこらしくなった」
キリアが例の十連撃の件を掻い摘んで話すと、笑顔だった少女の顔に段々と苦渋の色が広がりだす。眉を顰めてカイムの背で眠るガリーナを見遣り、小さな溜息を吐いた。
その様子に、キリアはふと思い当たる事があった。
馬車に乗ったガリーナにミミが放った袋。あれは一体何だったのだろうか。少年の心中を読んだミミが、残念そうに頬を膨らませて応える。
「コイビトタケのコロンよ。幻覚効果まではいかずとも、それに近い効能があるって聞いたから期待してたんだけどね」
「それに近い効能……って」
名前の通りよ、と言って少女は鈴のような笑い声を上げた。
「媚薬よ、び・や・く。これを嗅ぐと傍に居る相手の事を好きになっちゃうって聞いたから折角取って置いたのに……つまんないの。王都の裏路地の占い婆さんから買ったの、結構高かったのに」
キリアはごくりと喉を鳴らした。冷や汗が首筋を伝う。
――この少女は。
「ちょっと効きすぎたみたいね、ガリ様には。仕方ない、別の作戦を考えるわ。もうちょっと過激な方法にね。ああ、楽しくなってきた! あたしこの村に来て正解よ、キリア君!」
(恐ろしい子……ッ!!)
青空に哄笑する怪馬の上の少女に、キリアはただ血の気を引かせて金縛りに遭ったかのように凝望する。
「コイビトタケだって?」
ミミの朗らかな声を耳ざとく聞きつけたカイムが、途端に色を無くして背のガリーナと馬上の少女を交互に見た。
「そうか、道理でさっきから妙な香りが……ミミ、交代してくれ! 彼女はまだコロンを持ってる」
「んん?」
子供達は振り返り、次にお互いの顔を見合わせる。ミミがにんまりと、悪知恵を思いついた悪童のような笑顔を作って首を振った。
「あたしのような脆弱ないち児童にはガリ様を支えて馬に乗る事なんてとてもとても出来ません。逞しい殿方にお任せしますわ。ああ、それからあたしは十秒どころか一刻以上も異性に触れられていたなどと彼女に告げ口するほどいけない子でもないので、ご安心を。ちゃんと村まで送って差し上げてくださいね」
では後ほど、と頭を垂れたかと思うと、ミッフィーの腹を蹴る。馬は彼女の悪魔のような所業に顔を青くしているキリアの襟元を咥え上げ、その情け無い絶叫と共に嵐の様に道を駆けていった。
「ま、待て! 冗談じゃない、まずいってば!」
突き放す事も服をまさぐる事も出来ず、カイムはひたすら慌てた。ぐっすりと眠っている少女は起きる気配は無く、そんな少女を背に負った青年はただ硬直し、そして春のうららかな風は能天気にのんびりと頬を撫でる。
コロンを嗅がないように一度彼女を降ろそうとして、カイムは凍りついた。
すぐ近くにあるガリーナの顔、そこで閉ざされていたはずの双眸が静かに開いたのだ。
少女は黙ったまま、じっと鮮やかな翠色の瞳でカイムの横顔を見つめてくる。耳元に感じる小さな息遣いから逃れようと、あらぬ方に視線を飛ばす。
「あ、いやその……」
彼は頬を引き攣らせて愛想笑いをした。他にどうしろと言うのだ、と誰に言うでもなく胸中で絶叫する。そんな彼の心を知ってか知らずか、ガリーナは小さく息を吸い込んで、明瞭な声で言った。
「ちょうちょ」
「へ」
――まだ幻覚効果から覚めていなかった彼女の至近距離からの十連撃は、確実にカイムを冥府の曲がり角近くまで追いやった。
+
小さな村の、小さな事件。
この日を境に税率は一割近くも下がり、領主の評判はいやに上がった。それに加えて寝惚けているガリーナを老馬で連れ帰った青年が頭から大量の血を流して行き倒れた以外は、特にどうという事も無い一日であった。
そして、村一番の馬鹿と名高い聖女とこの謎めいた元料理長が後々色々な事件を巻き起こすのだが、それはまた別の話である。