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通算八十三回目の落下を経験した星ですら、いつもの流れはいつも通り流れていく。こればっかりは、あの力強い罵詈雑言の力をもってしても逆らえないらしい。その事実を目の当たりにする度に、湶の偉大さをまざまざと思い知る。ついでに言えば、人類の傍に広がり続けてくれる湶に対する感謝の念が、尽きることのない水源のように湧き出す瞬間でもある。
時々思うが、この湶が存在していなかったら、人類は暴言を巻き散らかす星を相手に、一体どうやって生活していたのだろうか? 墜ちた星を再び夜空に還すことが出来ず、星が転がったままの地面で、しかもその数を夜ごと増やし、代わりに徐々に星が失われていく夜空の下で、突き上げるような暴言に晒されながら、本当に、どうやって・・・、もしもそんな世の中になっていたら、人間は生活を破綻させずに生きていく事が出来たのだろうか?
・・・たぶん、無理。少なくとも、僕には無理だな。
『俺、早く戻ってやらないと駄目だよな』
ぼんやりと浮かべた仮定未来に対する、酷くあっさり出た結論。初めから分かりきっていたその結論を、そうと知りながらじっくり噛み締めていると、つい少し前まで沈黙していて、その更に前には暴言を吐き散らかしていた鋏星が、唐突に何かに気づいたかのように、そっと呟いた。それはまるで、自分の中に大切に溜めていた、何か、綺麗で柔らかでか弱いモノを、掌に包み込むようにして差し出す、そんな仕草をイメージさせる穏やかさだった。
きっと、今まで八十二回繰り返している流れ。八十一回分は知らないが、少なくとも僕は二回目になる流れに、分かっていながらそっと湶の底を見下ろせば、そこにはつい少し前までの不吉な暗色を脱ぎしてて、鮮やかな赤を燃やしている鋏星がいた。蠍座の、蠍座たる象徴、大鋏の一員を成すに相応しい、艶やかな赤い星が。
夜空の深い藍色に殊更映えるその赤は、今、湶の底で輝きを取り戻しつつあった。同時に、墜ちるまではそうであっただろう、他者を攻撃するものではない自信も取り戻しつつあって。
『ほら、俺ってば、あの目立つ鋏の中でも、一番目立つ鋏星だろ? だからさ、欠けてると鋏としての形が成り立たないって言うか・・・、みっともない形になるんだよな。そうなると、他の星達も可哀想だろう? 俺ほど目立ってなくてもさ、みっともないってのは駄目だと思うんだよ。だから一刻も早く、戻ってやらないとなぁ・・・』
・・・あぁ、そうですか、としか言えない。もし、何かを言うとしたら、だけど。自分の事より、他の星の事を思い遣っています、みたいな台詞になっているけど、少し前までは逆だったはず。それなのにどうしてこう、湶の水に晒された途端、都合良く態度が切り替わるのか。この凄まじいまでの態度の変わりようだけは、何度経験しても慣れない。というか、慣れて堪るか、という感じもする。
でも湶の上から僕が投げかけている白い目線に全く気づかない、もしくは全く気にしてないらしい鋏星は、取り戻し始めている自分の優しさに悦に入っているとしか思えない態度で更に台詞を続ける。尾星やその他の星と同様、僕一人に見せる為の舞台に立っているかの如く、少々演技かかった台詞を。
『それにさ、思い出したんだけど、実は俺の、っていうか蠍座の観察するって言ってた子供がいたんだよな。学校の宿題で、何か好きな星を数日間観察してきなさいってヤツらしいんだけど、その対象に、蠍座を選んだセンスのある子供がいてさ、確かあの時、来週からやろうとか何とか言っていたと思うんだよなぁ・・・、だから、そろそろ戻ってやらないとだろ? 俺がいなかったら鋏が完成しないし、鋏が完成してなかったら蠍座じゃないもんなっ!』
・・・あぁ、そうですか、としか言えない。もう、本当にソレしか言えない。勿論、もし何かを言うとしたら、だけど。つまりは、結局のところ何も言えずに黙っているしかないわけだけど。ただ、僕の目はいっそう白さを増す。鋭さも増す。強さも増す。攻撃性を備え、不服を覚え、怒りを感じ、今すぐにでも視線でオマエを貫いてやる、いや、視線じゃなくてこの手で円いその身を絞ってやる、ぐらいの気持ちを抱いている。やってやるぜっ、くらいの気炎を上げている。
まぁ、それも勿論、最終的に僕の外へ放出される事がない諸々だけど。
幾度となく持った、僕は間もなく内側から容量オーバーで爆発するな、という危惧を、今晩も決まり事のように抱いて、そっと、そっと、息だけを吐き出した。そうしてふと対岸を見ればいつも通り、お師匠様の穏やかな姿がある。全てを受け入れ、受け流し、泰然としてそこに在り続けるお師匠様の姿が。
その姿を見つめながら、一体お師匠様はいつからあんなに泰然と出来るようになったのか、それとも初めから仙人みたいな人だったのだろうかと、今まで一度も口にした事のない、どうしても口に出来ない疑問をこっそり、これもまたいつも通り、水草の影に隠した。




