夕日の車
彼女は、車がほしいと言った。
赤くて。速いやつ。
タイムカードを押さなくてもよくて、休みの理由を言わなくてもよくて、どこへ行くのか説明しなくてもいいやつ。
できれば、夕方に走り出せる車がいい。
校門を出て、コンビニを過ぎて、体育館を過ぎて、信号を過ぎて、出席簿も、課題プリントも、来週の試験も全部追い越して。
そのまま太陽の向こう側まで行ける車。
僕は言った。
「車なんて持ってないよ」
彼女は言った。
「知ってる」
僕は言った。
「でも、タイヤなら一つある」
彼女は僕を見た。
「なんでタイヤを一つだけ持ってるの?」
「拾った」
「どこで?」
「駐輪場の裏」
「なんでタイヤなんか拾ったの?」
「君が車をほしがったから」
彼女は少し黙った。
「車にはタイヤが四ついるよ」
僕は言った。
「だから、これは始まりなんだ」
次の日、僕はそのタイヤを彼女に見せた。
タイヤは少し歪んでいて、回すと音がした。縁には泥がついていた。校舎裏の花壇のそばに転がっているそれは、世界に捨てられたばかりの円みたいだった。
彼女はしゃがんで見た。
「壊れてる」
「壊れてない」僕は言った。「ちょっと、丸さが厳密じゃないだけ」
彼女は少し笑った。
「変なの」
「僕もそう思う」
「それでも続けるの?」
「続ける」
「どうして?」
僕は少し考えた。
「もうタイヤが一つあるから」
彼女は僕を見た。何か言いたそうだったけれど、結局言わなかった。
風が彼女の髪の先を抜けていった。その日の雲は低くて、学校全体にふたをしようとしているみたいだった。彼女がタイヤを軽く押すと、タイヤは二回転して、倒れた。
彼女は言った。
「君の車、今のところバランスがかなり悪いね」
僕はうなずいた。
「改善する」
三日目、僕は二つ目のタイヤを見つけた。
それは子ども用のスケートボードについていたもので、とても小さく、青くて、真ん中に塗装の剥げた熊の絵があった。
彼女は言った。
「最初のと大きさが違う」
僕は言った。
「車にだって個性はあっていい」
「タイヤの大きさが四つとも違う車なんて見たことある?」
「ない」
「じゃあ、どうして走れると思うの?」
「まだ誰も試してないから」
彼女は笑った。
僕はその笑顔を、心の中にしまった。
四日目、タイヤは見つからなかった。
代わりに、壊れた傘を見つけた。
骨は曲がっていて、布には穴があり、開くと一か所だけへこんだ。灰色の空の一部が、機嫌を悪くしているみたいだった。
僕は言った。
「これは屋根」
彼女は言った。
「屋根なのに、なんで雨漏りするの?」
「この車も泣くから」
彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「じゃあ雨の日はどうするの?」
「ゆっくり走る」
「スポーツカーはゆっくり走らないよ」
「じゃあ、雨のほうに急いでもらう」
彼女は首を振った。
「君って本当に道路交通の常識がないね」
僕は壊れた傘を寮の裏へ持って帰り、二本の木材に固定した。木材は捨てられていたベッドの板だった。板にはボールペンで、誰かがこう書いていた。
明日は絶対早起きする。
五日目、僕は赤い布を見つけた。
古い広告幕から切り取ったもので、そこにはこう書いてあった。
情熱セール
僕は「セール」の部分を切り落とした。
残ったのは「情熱」だけだった。
車はセールなんかしない。
車はただ、情熱であればいい。
僕はその赤い布を車の前にかぶせた。
風が吹くと、布はふくらんだ。
もう走っているみたいに。
道を知っているみたいに。
僕よりも先に、ここを出ていきたがっているみたいに。
彼女が見に来たとき、しばらく立ったまま何も言わなかった。
「この赤、けっこういいね」
僕は言った。
「でしょ」
「燃えそう」
「方向は合ってるってことだ」
彼女は赤い布を撫でた。
「手、どうしたの?」
下を見ると、指に小さな切り傷ができていた。
「広告幕を切ったときに」
彼女は鞄から絆創膏を出した。
僕は手を差し出した。
彼女はうつむいて、貼ってくれた。
絆創膏は薄い黄色で、小さなウサギが描いてあった。
貼り終えると、彼女は言った。
「車を作るのって、けっこう危ないんだね」
僕は言った。
「偉大な事業には犠牲が必要だから」
「君の車、まだ偉大じゃないけど」
「じゃあ、まずは小さな犠牲から」
彼女は僕の手を見た。
笑わなかった。
六日目、僕はクラクションを見つけた。
押すと、アヒルが足を踏まれたような音がした。
僕はとても気に入った。
彼女は気に入らなかった。
彼女は言った。
「スポーツカーはこんな鳴き方しないよ」
僕は言った。
「僕のはする」
「恥ずかしい」
「恥ずかしいってことは、まだ生きてるってことだ」
「スポーツカーに生きてる必要ある?」
「君を連れていくから」
彼女は、僕が取り付けたばかりのクラクションを見下ろした。
「私、いつ行きたいなんて言った?」
「言ったよ」
「車がほしいって言っただけ」
「だいたい同じだ」
「全然違う」
僕は黙った。
彼女は階段に腰を下ろした。隣にはいちごミルクが置いてあった。その日、彼女は白い上着を着ていて、袖口が少し汚れていた。どこかの壁にもたれたのかもしれない。
彼女は言った。
「ただ、学校が息苦しいなって思うときがあるだけ」
僕は言った。
「車なら窓を開けられる」
「ただ、ときどき離れたいって思うだけ」
「車なら離れられる」
「ただ言ってみただけ」
「僕もただ作ってるだけ」
彼女は僕を見た。
「君のは、ただじゃないよ」
僕は聞こえなかったふりをした。
クラクションをもう一度押した。
アヒルが悲鳴を上げた。
彼女はやっと笑った。
僕はほっとした。
七日目、僕は彼女のために助手席証を作った。
厚紙で。
表面には透明なテープを貼った。
かなり真面目に書いた。
氏名:彼女。
有効期限:彼女が乗りたくなくなるまで。
権利:曲を選ぶこと、窓側に座ること、眠ること、急に「止まって」と言うこと。
義務:飛び降りないこと。
備考:運転手は迷うかもしれないが、努力する。
彼女は受け取って、二回読んだ。
「どうして飛び降りちゃだめなの?」
「危ないから」
「じゃあ、降りたくなったら?」
「止める」
「止められるの?」
「いま練習中」
彼女は助手席証をノートにはさんだ。
赤い角が少し見えた。
小さな車が、彼女のページの中に停まっているみたいだった。
そのことが、僕を長いこと嬉しくさせた。
嬉しすぎて、寝る前にもう一度、自分の車を見に行った。
そのころ、それはまだ車にはほとんど見えなかった。
大きさの違う二つのタイヤ。
雨漏りする傘。
情熱と書かれた赤い布。
アヒルみたいに鳴くクラクション。
プラスチックの椅子。
電池の入っていない懐中電灯。
ハンドルにするつもりのフラフープ。
半分だけ残った白いペンキ。
どこかで拾った鉄の棒が三本。
それから地図が一枚。
地図は車内に貼ってあった。
コンビニでもらったもので、裏には唐揚げの割引券がついていた。
彼女は昔、その地図を指でなぞりながら、ここには海があって、そこには山があって、その向こうには湖があると言った。
あとで調べた。
彼女が海と言った場所は、本当は貯水池だった。
山は公園だった。
湖は人工池だった。
僕は彼女に言わなかった。
僕は、自分自身も車の中へ入れ始めた。
最初は靴ひもだった。
靴ひもが長すぎて、いつもほどけた。僕は少し切って、プラスチックの椅子の横に結びつけ、安全ベルトだと言った。
次はボタンだった。
制服の袖口からボタンが一つ取れたので、車の前に貼りつけた。これは始動ボタンだと言った。
次は影だった。
夕方、車のそばに立つと、影が地面に長く薄く落ちた。それが車のドアみたいに見えた。太陽の角度さえ合えば、誰でも僕の影から乗り込める。
次は心臓の音だった。
彼女が近づくと、胸がどくどく鳴った。
僕は赤い布に手を置いた。布も風に合わせて動いていた。
僕は言った。
「聞こえる? エンジン」
彼女は言った。
「君が緊張してる音しか聞こえない」
「緊張も、一種の始動だから」
「じゃあ君の車、すごく始動しやすいね」
「性能がいいんだ」
彼女は言った。
「故障が多いだけかも」
僕は言った。
「故障ランプはまだ点いてない」
彼女は手を伸ばして、僕の額をちょんとつついた。
「ここ、ずっと点いてるよ」
それが褒め言葉なのかは分からなかった。
でも彼女が僕の額をつついたとき、車全体に電気が通った気がした。
その後、僕はますます自分のことを車みたいに言うようになった。
彼女の授業が長引くと、僕は言った。
「臨時停車」
彼女が鞄を渡すと、僕は言った。
「積載テスト」
彼女がミルクティーを飲みたいと言うと、僕は言った。
「ナビを開始しました」
彼女が落ち込んで、うつむいて歩いていると、僕は言った。
「乗って」
彼女は聞いた。
「車は?」
僕は胸を叩いた。
「ここ」
彼女は笑うときもあった。
笑わないときもあった。
僕をちらっと見て、僕が冗談を遠くまで走らせすぎているみたいな顔をするときもあった。
あるとき彼女は言った。
「疲れないの?」
僕は言った。
「車は疲れない」
彼女は言った。
「君は車じゃないよ」
僕は言った。
「まだね」
彼女は黙った。
その日の夕日は淡かった。赤くはなくて、水で薄めすぎたオレンジジュースみたいな色だった。
彼女は言った。
「本当に車になったりしないでね」
僕は言った。
「じゃあ、それでも乗りたい?」
彼女は言った。
「私は、君に隣に座ってほしい」
僕は分からなかった。あるいは、分かっていた。
でもそのころの僕には、もうタイヤが二つ、赤い布が一枚、クラクションが一つ、それから半分の自分が取り付けられていた。
車は走り出すと、止まりにくい。
彼女は少しずつ来なくなった。
僕は理由を聞かなかった。
車を作り続けた。
三つ目のタイヤが来た。
壊れたスーツケースについていたものだった。
小さいけれど、よく回った。
四つ目のタイヤがいちばん見つからなかった。
最後に、僕は廃品回収所で車輪を一つ買った。
店のおじさんが聞いた。
「それ、何に使うの?」
僕は言った。
「スポーツカーを作るんです」
おじさんは僕を見て、二十円まけてくれた。
彼もきっと、車の分かる人なのだと思った。
僕はライトを取り付けた。
懐中電灯を二つ。
左は点いた。右はあまり点かなかった。
三回叩いたら、点いた。
よかった。車にも励ましは必要だ。
フラフープのハンドルをつけた。
回すとぐらぐらした。
でも方向なんてものは、もともとそんなに安定していない。
プラスチックの椅子をきれいに拭いた。古いタオルを敷いた。
助手席は、快適でなければならない。
彼女が座らないとしても。
彼女が行くことを教えてくれたのは、彼女自身だった。
その日、僕たちはグラウンドの端に座っていた。
最初のときと同じように。
夕方だった。
バスケットコートでは誰かがシュートを打っていた。
葉が裏返った。
コンビニのほうから、フランクフルトの匂いがした。
太陽が落ちていくところだった。
彼女は言った。
「しばらく行くことになった」
僕は聞いた。
「どこへ?」
彼女はある街の名前を言った。
遠い場所だった。
僕は言った。
「車で?」
彼女は言った。
「新幹線で」
僕は言った。
「新幹線はロマンがない」
彼女は言った。
「でも速い」
僕は言った。
「僕の車だって速くなる」
彼女は僕を見た。
「まだ止めてないの?」
僕は首を振った。
彼女はため息をついた。
「本当に、ただ車がほしいって言っただけなの」
僕は言った。
「分かってる」
「ううん、分かってない」
僕はグラウンドを見た。
太陽がトラックを赤く照らしていた。
「でも、もう車体の前の部分があるんだ」僕は言った。
彼女は少し笑った。
悲しそうな笑い方だった。
「じゃあ、自分のために置いておきなよ」
「僕は行きたくない」
「じゃあ、どうしてずっと車を作ってるの?」
僕は答えなかった。
彼女が立ち上がったとき、助手席証がノートから落ちた。
階段に落ちた。
彼女はかがんで拾い、長いこと見つめた。
それから僕に差し出した。
「これ、返すね」
僕は受け取らなかった。
彼女は証を僕の隣に置いた。
「これは、私のものじゃない」
風が厚紙を少し動かした。
彼女が去ったあと、僕は長いこと座っていた。
助手席証は階段の上にあった。
赤い角が夕日に照らされて明るかった。
最後に僕はそれを拾って、ポケットに入れた。
少ししわになっていた。
有効期限の欄にはまだこう書いてあった。
彼女が乗りたくなくなるまで。
書き直したかった。
でもペンを持っていなかった。
その後、彼女は本当に行ってしまった。
僕は駅へは行かなかった。
彼女からメッセージが来た。
> 出発したよ。
窓の外の写真も送られてきた。
一面の田んぼ。
ぼんやりした空。
遠くに一本の線。
その写真を見て、僕は新幹線がナイフみたいに、彼女と僕の間を切り開いていくのだと思った。
その夜、僕は寮の裏へ行き、尾翼を結び直した。
段ボールの尾翼は雨で柔らかくなっていた。
僕はプラスチック板に替えた。
硬くて、もっと本物らしかった。
僕は作り続けた。
観客はいなかった。
乗客もいなかった。
目的地もなかった。
それでも作り続けた。
誰かが聞いた。
「まだ諦めてないの?」
僕は言った。
「もうすぐできる」
本当は、何をもって「できた」と言うのか分からなかった。
誰も乗らず、どこにも行かない車は、どうなれば完成なのだろう。
僕はその質問をクラクションにしてみた。
クラクションは一声鳴った。
アヒルは相変わらず苦しそうだった。
きっと、あいつにも分からないのだと思った。
車になったのは、ごく普通の朝だった。
雷もなかった。
夢もなかった。
目が覚めると、空は灰色に白んでいた。
僕は寮の裏の空き地を見ていた。
隣には、あの古い車があった。
赤い布、壊れた傘、フラフープのハンドル、アヒルのクラクション、プラスチックの椅子が見えた。
それから、自分の手が見えないことに気づいた。
下を見る。
赤い車体があった。
窓には少し水滴が曇っていた。
ライトはまだ点いていなかった。
話してみた。
ラジオから僕の声が流れた。
「もしもし」
雑音が混じった。
もう一度言った。
「もしもし」
やっぱり雑音が混じった。
少し動こうとした。
エンジンが鳴った。
小さな音だった。
僕は怖くなかった。
それは普通ではないのかもしれない。
でも僕はもう、とっくにあまり普通ではなかった。
僕は、隣にある自分の作った車を見た。
それは歪んでいた。
尾翼は壊れた紙の鳥みたいだった。
タイヤの大きさはばらばらだった。
ふと、あちらのほうが本物なのだと思った。
あれは、僕が一つずつ拾い集めたものだった。
それに比べて、今のこの赤くて、流線型で、ようやく走れるものは、あまりにも完全だった。
完全すぎて、借り物みたいだった。
昼間、たくさんの人が僕を見に来た。
写真を撮る人がいた。
格好いいと言う人がいた。
誰の車かと聞く人がいた。
触ろうとした人は、僕がライトを点滅させると驚いて逃げた。
彼女が戻ってきたのは、一か月後だった。
夕方だった。夕方でなければならなかった。
この出来事は、昼には起きてはいけない。
昼は明るすぎる。試験や行列に向いている。
車には夕方が似合う。
彼女は校舎のほうから歩いてきた。手には書類袋を持っていて、ただ用事を済ませに戻ってきただけのようだった。髪が少し伸びていて、上着も前とは違っていた。
彼女は僕を見つけて、足を止めた。
僕はライトを点けた。
彼女はゆっくり近づいてきた。
車の前に立った。
「君なの?」
僕は言った。
「うん」
声はスピーカーから出た。
少しだけ、まだ雑音があった。
彼女はうつむいて笑った。
「本当に車になったんだ」
僕は言った。
「うん」
「ばかだね」
「うん」
彼女は僕の周りを一周した。
車内に貼られた地図を見た。
助手席証がサンバイザーにはさまれているのを見た。
古いラジオを見た。
彼女は助手席のドアの前で止まった。
すぐには開けなかった。
「乗ってもいい?」
僕はドアを開けた。
彼女は乗り込んだ。
ドアは閉めなかった。
シートベルトもしなかった。
ただ座っていた。
階段に座るみたいに。
黄昏の中に座るみたいに。
完成してはいけなかったのに、完成してしまった一文の中へ座るみたいに。
僕は聞いた。
「どこへ行く?」
彼女はフロントガラスの向こうの夕日を見た。
「今は、どこにも」
僕は言った。
「分かった」
彼女はハンドルに触れた。
「車の中って、こんなに静かなんだね」
僕は言った。
「エンジンは動いてる」
「聞こえてる」
「うるさい?」
「ううん」
「クラクションはうるさい」
「知ってる」
「聞く?」
彼女は笑った。
「聞かない」
僕たちはしばらく座っていた。
太陽が少しずつ落ちていった。
道が長く照らされた。
彼女は言った。
「もう走れるんだね」
「うん」
「じゃあ、どこへ行きたい?」
僕は前を見た。
校門。
コンビニ。
体育館。
信号。
彼女が言っていた人工池。
山。
海。
太陽の向こう側。
どの場所も、そこにあった。
どの場所も、遠すぎた。
僕は言った。
「分からない」
彼女は僕のほうを向いた。
「前は、どこでもいいって言ってたのに」
「それは、君がどこへ行きたいかだったから」
「今は?」
「今は、君が座ってる」
彼女は静かになった。
しばらくして、言った。
「君、前はずっと、私がどこかへ行きたいんだと思ってた?」
僕は答えなかった。
彼女は言った。
「行きたいときも、あったよ」
閉めていないドアから風が入ってきた。
「でも、ただ誰かに一緒に座っていてほしいだけのときもあった」
ラジオから、ざあざあという音が流れた。
ごめん、と言いたかった。
けれどクラクションが鳴った。アヒルが悲鳴を上げた。
彼女は固まった。それから笑った。
僕も笑いたかった。でも車は笑えない。
だからもう一度クラクションを鳴らした。
アヒルはさらにひどい声を出した。
彼女は涙が出るほど笑った。
それはよかった。とてもよかった。
笑い終えると、彼女はシートにもたれて空を見た。
「この車は君のもの?」彼女は聞いた。
僕は言った。
「違う」
「じゃあ誰の?」
「借りてる」
「誰から?」
僕は言った。
「分からない」
「いつ返すの?」
「夕日が沈んだら」
彼女は前を見た。
太陽はまだ少し残っていた。
赤い硬貨が、ビルと空の間に挟まっているみたいだった。
彼女は言った。
「じゃあ、まだだね」
「うん」
「じゃあ、もう少し座ってる」
「うん」
僕たちは出発しなかった。別れもしなかった。
ドアは開いたままだった。夕方の風が入ってきた。
グラウンドから、バスケットボールの音が一つ、また一つと聞こえた。
葉が裏返り、また戻った。
彼女はその後、車を降りた。
僕はドアをロックしなかった。
彼女は行く前に、サンバイザーから助手席証を取って、眺めた。それからまた、元の場所へ戻した。




