第三章 EP10番外編02 兄弟
取調室。
ヤス田直人は、机の向こうに座っていた。
三日前まで刑事だった男。
今は、容疑者としてそこにいる。
扉が開いた。
入ってきたのは、鈴木ヨシヒコだった。
いや。
ヤス田ヨシヒコだった。
直人は、ゆっくり顔を上げた。
直人「兄さん」
ボス「その呼び方は、久しぶりだな」
直人「呼んでいいんですか」
ボス「知らん」
ボスは椅子を引いた。
向かいに座る。
机を挟んで、兄弟が向かい合った。
刑事と容疑者ではなかった。
まだ、そう呼ぶには近すぎた。
ボス「直人」
直人「はい」
ボス「すまなかった」
直人は、すぐには答えなかった。
取調室の時計が、こつ、と鳴った。
直人「何に、ですか」
ボス「全部だ」
直人「全部」
ボス「父のことも。家のことも。お前のことも」
直人は、机の上の自分の手を見た。
ボス「俺は逃げた」
直人「逃がしたのは、俺です」
ボス「逃げたのは俺だ」
直人「兄さんは、あの時、まともに歩ける状態じゃなかった」
ボス「それでも逃げた」
直人は、少しだけ息を吐いた。
直人「十年経っても、そこは譲らないんですね」
ボス「譲る話じゃない」
直人「兄さんらしい」
ボスは、笑わなかった。
直人も、笑わなかった。
*
ボス「お前は、俺を守った」
直人「守れていません」
ボス「守っただろう」
直人「守ったつもりでした」
ボス「同じだ」
直人「違います」
直人は、顔を上げた。
直人「守ったなら、兄さんは十年も苦しまなかった」
ボス「苦しむ理由はあった」
直人「俺が作りました」
ボス「違う」
直人「違いません」
二人の声は、どちらも荒くなかった。
だから余計に、取調室は重かった。
ボス「お前は、あの夜、俺を逃がした」
直人「はい」
ボス「東京へ行けと言った」
直人「言いました」
ボス「ヤス田ヨシヒコは、ここで終わったことにしろ、と」
直人「言いました」
ボス「俺は、その通りにした」
直人「はい」
ボス「鈴木になった」
直人「はい」
ボス「父を殺した人間が、名前だけ変えて生きた」
直人の手が、少しだけ動いた。
直人「兄さん」
ボス「何だ」
直人「そこです」
ボス「何がだ」
直人「俺は、父を殺した人間を逃がしたんじゃありません」
ボスは、直人を見た。
直人は、まっすぐ見返していた。
直人「俺が逃がしたのは、兄さんです」
ボス「同じだ」
直人「違います」
ボス「父は倒れていた」
直人「はい」
ボス「俺もいた」
直人「はい」
ボス「部屋には、父と俺しかいなかった」
直人は、少しだけ目を伏せた。
直人「俺が入った時には、兄さんもいました」
ボス「なら、同じだ」
直人「違います」
ボス「何が違う」
直人は、しばらく黙っていた。
言いたくない言葉を、十年分、探しているようだった。
直人「俺は、父が死んでいるところを見ていません」
ボスは、動かなかった。
取調室の時計が、また鳴った。
こつ。
それだけが、やけに大きかった。
ボス「何だと」
直人「俺は、父が死んでいるところを見ていません」
ボス「お前は、父を見たと言った」
直人「見ました」
ボス「倒れている父を」
直人「はい」
ボス「俺を」
直人「はい」
ボス「だから、俺を逃がした」
直人「はい」
ボス「なら」
直人「死亡確認はしていません」
ボスは、何も言わなかった。
直人「息も見ていません。脈も見ていません。体にも触れていません」
ボス「……」
直人「俺は、父が倒れているのを見た」
直人「兄さんがそこにいるのを見た」
直人「それだけです」
ボスの目が、少しだけ揺れた。
直人「俺は、父の死体を見たんじゃありません」
直人「倒れた父を見たんです」
*
ボスは、机の端を見ていた。
何もない机だった。
それでも、そこに十年前の畳があるように見えた。
倒れている父。
床に広がる黒い染み。
自分の手に残った服の感触。
息のないように見えた部屋。
ボス「なぜ言わなかった」
直人「言えませんでした」
ボス「十年だぞ」
直人「はい」
ボス「十年、俺は」
そこで言葉が止まった。
直人は、うなずいた。
直人「分かっています」
ボス「分かっていない」
直人「分かっていません」
直人は、すぐに言い直した。
直人「でも、見ていました」
ボス「何を」
直人「兄さんが、父を殺したと思って生きていることです」
ボスは、直人を見た。
直人「警察に入ったことも知っていました」
ボス「……」
直人「鈴木ヨシヒコとして、刑事になったことも」
ボス「なぜ黙っていた」
直人「兄さんが、自分で戻ってくると思ったからです」
ボス「戻ったか」
直人「戻りました」
ボス「遅すぎる」
直人「はい」
ボス「お前もだ」
直人「はい」
ボス「俺もだ」
直人は、何も言わなかった。
ボス「父は、あの時まだ生きていたのか」
直人「分かりません」
ボス「分からない?」
直人「分かりません」
ボス「お前は見たんだろう」
直人「見ました。でも、確認していません」
ボス「なぜだ」
直人「怖かったからです」
その言葉は、短かった。
直人「父を見るのが怖かった」
直人「兄さんを見るのも怖かった」
直人「その場に残るのが、怖かった」
直人「だから、兄さんを逃がしました」
ボス「俺を守るためじゃないのか」
直人「守りたかったです」
直人「でも、それだけじゃありません」
直人は、机の上の手を握った。
直人「俺も逃げたんです」
ボスは、何も言わなかった。
直人「兄さんだけじゃありません」
直人「俺も、あの夜から逃げました」
直人「兄さんを逃がしたふりをして、自分も逃げました」
*
ボスは、ゆっくり息を吐いた。
ボス「直人」
直人「はい」
ボス「俺は、お前を恨んでいた」
直人の顔が、少しだけ固まった。
ボス「俺を逃がしたお前を、恨んでいた」
直人「はい」
ボス「俺に生きろと言ったお前を、恨んでいた」
直人「はい」
ボス「父を殺した俺を、見逃したお前を」
ボスは、そこで止まった。
直人は、目を伏せなかった。
ボス「でも、違ったのかもしれない」
直人「兄さん」
ボス「まだ分からん」
直人「はい」
ボス「父があの時、生きていたかどうかも」
直人「はい」
ボス「誰が記録を止めたのかも」
直人「はい」
ボス「その後、誰が部屋に来たのかも」
直人「……はい」
ボス「まだ分からん」
直人は、少しだけ眉を動かした。
ボス「だが、一つだけ分かった」
直人「何ですか」
ボス「俺は、お前に謝らないといけない」
直人は、口を閉じた。
ボス「直人」
直人「はい」
ボス「すまなかった」
直人は、何も言わなかった。
ボス「兄としても」
ボス「刑事としても」
ボス「十年、遅かった」
直人の目が、少しだけ赤くなった。
それでも、涙は落ちなかった。
直人「遅すぎますよ」
ボス「ああ」
直人「兄さん」
ボス「何だ」
直人「俺も、すみませんでした」
ボス「お前は謝る相手を間違えるな」
直人「……」
ボス「佐々木キミヤス」
直人「はい」
ボス「小宮末広」
直人「はい」
ボス「磯辺コウゾウ」
直人「はい」
ボス「そっちに謝れ」
直人「はい」
ボス「俺には、その後でいい」
直人は、小さくうなずいた。
直人「はい」
ボス「刑事だったなら、順番を間違えるな」
直人「兄さんも、よく間違えていました」
ボス「俺の話はしていない」
直人「はい」
ほんの少しだけ、兄弟の空気が戻った。
戻ってしまった。
それが、余計に痛かった。
*
ボスは立ち上がった。
直人も、反射的に立ち上がりかけた。
ボス「座っていろ」
直人「はい」
ボス「まだ聞くことはある」
直人「何でも話します」
ボス「何でもはいらん。覚えていることだけでいい」
直人「はい」
ボス「十年前の夜。お前が部屋を出た後」
直人の顔から、少しだけ色が消えた。
ボス「誰か来なかったか」
直人「見ていません」
ボス「声は」
直人「覚えていません」
ボス「女の声は」
直人は、息を止めた。
ボス「直人」
直人「……父の部屋へ行く前に」
ボス「前に?」
直人「廊下で、声を聞いた気がします」
ボス「誰の声だ」
直人「分かりません」
ボス「女か」
直人「たぶん」
ボス「何と言っていた」
直人は、目を閉じた。
十年前の廊下を、もう一度歩いているようだった。
直人「やめて、と」
ボス「やめて」
直人「そんな声だったと思います」
ボス「相手は」
直人「分かりません」
ボス「男の声は」
直人は、首を横に振った。
直人「覚えていません」
ボスは、少しだけ考えた。
そして、扉へ向かった。
直人「兄さん」
ボスは、振り返らなかった。
直人「父は、本当に……」
そこで直人は言葉を止めた。
ボス「まだ決めるな」
直人「……」
ボス「十年前、俺たちは決めすぎた」
直人は、何も言えなかった。
ボス「倒れている父を、死んだと決めた」
ボス「逃げる兄を、犯人だと決めた」
ボス「黙る弟を、守ったのだと決めた」
ボス「記録のない夜を、終わったのだと決めた」
ボスは、取調室の扉に手をかけた。
ボス「今度は、決める前に調べる」
直人「……はい」
ボス「それが刑事だ」
扉が開いた。
廊下の光が、取調室に入った。
ボスは、一度だけ振り返った。
ボス「直人」
直人「はい」
ボス「俺は、まだお前の兄でいいのか」
直人は、しばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
直人「兄さんが嫌でなければ」
ボス「嫌ではない」
直人「なら、兄さんです」
ボスは、何も言わなかった。
そのまま取調室を出た。
扉が閉まる。
直人は、机の上に置いた自分の手を見た。
十年前と同じ手だった。
逃がした手。
隠した手。
止められなかった手。
その手が、今は何も持っていなかった。
*
廊下には、ヤスと安藤が立っていた。
ヤス「ボス」
ボス「聞いていたのか」
ヤス「聞かないように努力はしました」
ボス「失敗したな」
ヤス「はい」
安藤「鈴木警部」
ボス「何だ」
安藤「確認します」
ボス「しろ」
安藤「ヤス田直人さんは、ヤス田紀之さんの死亡確認をしていない」
ボス「ああ」
安藤「コウゾウさんも、死亡確認をしていない可能性が高い」
ボス「ああ」
ヤス「つまり」
ボスは、廊下の奥を見た。
そこには誰もいなかった。
けれど、十年前の夜だけが、まだそこに立っているようだった。
ボス「父は、まだ生きていたかもしれない」
ヤスは、何も言わなかった。
安藤も、何も言わなかった。
ボス「アヤスを呼べ」
ヤス「アヤスさんを、ですか」
ボス「ああ」
ボスは、短く息を吐いた。
ボス「十年前の夜は、まだ終わっていない」
廊下の灯りが、白く光っていた。
次回、第三章 EP11 犯人アヤス。
ひとつの告白が、事件を終わらせようとします。




