彼女のプロローグ
「此処までか……」
男は胸の中に溜まった苦いものを、吐き出すように呟いた。
息が切れ、意識が朦朧とした。動かしていた脚を止め、男は近くの木に寄りかかった。
まさか、こんなところで『鬼』に遭遇するとは不運なものよ。お互いが相討ちで退いたが、もうすぐ、敵側の増援がくる、己は完全に詰んでしまった。
『鬼』に受けた呪詛が己の体力を奪っていた。身体中に広がる痣が全てを物語っている。
「すまぬな、鈴よ」
男は今世に残してしまう未練に、想いを馳せた。どうか、愛した女と己の子には幸せに生きてほしい。
「謝るんじゃないよ」
この期に及んで、いやこの期だからこそこんな幻聴を聴いたのではないかと男は想った。
「幻聴じゃないよ、全くこんなときにあんたって人は……」
男は目を見開き、顔を上げた。そこには、先ほど想いを馳せた女が傷だらけでたっていたからだ。
「鈴っお主!」
形容できない衝撃が身体中を駆け巡り、男は己の妻に駆け寄った。
「何故ここに居るのだ!?」
「なんか胸騒ぎがしてね、あんたを追って家を出たらこのざまさ」
「飛鳥は!飛鳥はどうした」
「抱きながら此処まできた。だけど、鬼どもに…」
目の前が真っ暗になる。こんなことになるとは、と男はよろめきながら後退し、膝をついた。
「すまない、私の不注意で…」
その瞬間、前方で爆音が響いた。二人は反射的にそちらを向いた。
「ーーっ!飛鳥!」
舞い散った埃が中心から裂けた。その先に立っていたのは、死人のように生気の感じない白粉のような肌と、光の指さない闇のような漆黒の髪、そして、その頭部には人ならざる者の証である『角』が生えていた。まさしく、鬼よ。
男の妻は『鬼』には目もくれず、抱えられていた赤子を見て悲痛に声をあげた。
「お前はこの赤子の母だったな。…成る程、この男の妻であったか」
『鬼』はそんな女の赤子を、包んでいる布ごと己の顔まで持ち上げた。
「ふむ‥半妖の童か。なるほど、本当に実を結ぶとはな‥」
まるで、物珍しい品を見つけた様に赤子を鬼は見つめていた。
「鈴、すまぬ。」
「あんたは謝ってばかりだね。‥まあいいさ、ここで逃げろと言われる方が余程堪える。」
己の赤子をあの鬼から生きて取り返すのは不可能に近いことに、男は気付いてた。
男の紅い髪が、風に揺れて鮮やかに輝いた。
男の周囲に変化が起きる。何処からともなく琥珀色の焔が生まれ男の周囲を回りだしたのだ。
「ほぅ、お前はあの朱雀の者か。」
朱雀。
遥か昔から、この国を守り暮らしてきた四神の一角。
全てを無感情に見つめていた鬼の目に色が宿った。
「面白い…朱雀の者と気を交えることができるとは、私は幸運だ。やはり、世を呪う身であっても、この地に足をつけられることは良いことだ。」
表情の無かった鬼はとうに存在しなく、ありったけの闘争に染められた狂喜がそこにはあった。
「さあ、私を楽しませてくれ」
こうして、物語は幕を開ける。
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つきの光に照らされ、暗闇に人影が浮かぶ。
全てを零に還す破壊の使者は呟いた。
「シナリオ通りだね」