Scene.7 うららかな通学路
拙い文章ではありますが あなたの心に触れられたら 幸いです
俺は、登校に向けて洗面所で身支度を整える。
歯磨きと洗顔を終え、習慣から無意識のうちに整髪剤へ手が伸び、そこではっとする。
鏡に移る俺の頭部には、セットするほどの毛量がない。
それというのも入院中の間、衛生上の理由から短く刈り上げられていたからだ。
この期に及んで、身だしなみなど気に掛ける愚かさに嫌気が差す。
鏡の前には、大嫌いな親父譲りの赤髪と碧眼を持つそいつが仏頂面を浮かべていた。
「いってきます」
玄関で靴紐を結び膝を庇いながら立ち上がると、リビングを振り返る。
閉じたカーテンの隙間から差し込む朝日により、照らされた誇りがちらちら舞うそこは学生寮の一室。
以前は後継人である叔父の家に住まわせてもらっていたが、高校に進学したのを機に、通学の利便性からこちらに移った。
こうして俺が1人の朝を過ごすのも3年目になり、この部屋に挨拶を返してくれる人間は誰も居ないことはわかり切っている。
それでも幼い頃に身に付いた習慣というのは中々抜けないもので、今朝も返事を期待しない挨拶を、しんとした空間に響かせる。
『どんなときも、挨拶だけはちゃんとしなさい』。
俺が小学生の頃に他界した母親と交わした約束だった。
温和でどこかとぼけた感じの母は、子育てに関してもおおらかだったが、こと挨拶に関してはしっかりと躾けられた。
他所と異なる出生の我が子が、将来多かれ少なかれ向けられるであろう偏見を跳ね退け、正当な評価を得られるよう考慮した育成方針だったらしい。
ありがたいことだ、と俺は思う。
母のお陰で、差別らしい差別を受けたことがないのだ。
混血児は、その生い立ちから気苦労が絶えないと話に聞くけれど、幸いなことに俺は該当しなかった。
成長してスポーツに励むようになり、体育会系の世界に身を置いていてからは、いっそう母の教えの大切さが身に染みた。
挨拶はコミュニケーションの基本だ。
これを疎かにすると、実力がどうであれまさに正当に評価されず、ベンチを温める羽目になる。
逆に言えば挨拶さえしっかりとしておけば、多少のミスにも目を瞑ってもらえることもあった。
人付き合いは得意なほうではないが、ちょっとした気遣いで心証がよくなるのだから、挨拶はしておいて損はない、というのが母直伝であり俺の経験則による自論だ。
(……嫌味な天気だ。本日は晴天なりとは、クソ親父が趣味にしていた無線の用語だったか)
寮を出て空を仰げば、憂鬱な気分とは対照的な快晴が広がっていた。
「さすがに、もういないか……」
美咲のことなので、もしかしたらと淡い期待を抱いてもいたけれど、周囲にその姿は見当たらず、どうやら俺が支度をしてる間に、さっさと先に行ってしまったようだ。
薄情だとは思わない。
むしろ迎えに訪れてくれただけ優しいのだ。
(これでいい。逆に好都合かもな)
それは断じて。そう断じて強がりとかではなく、その証拠に俺は置いて行かれてしまったことに少し安堵していた。
理由はふたつある。
ひとつは現在2人はケンカ中であるということ。
もうひとつのことは――一端、保留にしておくとして……ケンカの原因は俺にある。
(違うな。あんなのケンカじゃない……)
そう、あれは一方的な八つ当たりだった。
先行きの見えない不安とリハビリの苦労で、心身を擦り減らしていた俺は、よりにもよってその苛立ちを身近にいた美咲に向けてしまった。
それは献身的に寄り添い、励ましてくれていた子に対して、あまりにひどい仕打ち。
『俺の何がわかるって言うんだ! マネージャーはいいよな、そうやって愛想を振りまいてりゃいいんだからな!』
当時、器量よしの美咲は部の中でも当然人気があり、紅一点ということも相まってアイドル的存在だった。
彼女を囲う部員の中には色目を使う者も多く、そんな状況を快く思っていなかった俺は、ここにきて溜まっていた鬱憤をぶちまけてしまった。
そのヤキモチが多分に含まれた罵声を飛ばした直後、俺は自分の失言に気付き平静を取り戻すが、後悔しても遅い。吐いた唾は呑めないのだ。
男の嫉妬ほどみっともないものはないと言うが、まさにその通りだった。
『あ、いや、俺は……』
『…………』
そのときの美咲は、理不尽な目に遭わされても怒ることはなく、ただじっと俺を見つめてきた。
反論のひとつもせず無言で立ち去る後ろ姿は、俺を見放したようであり、何より胸を抉ったのだった。
いっそ口論にでもなり真正面から争っていれば、仲直りまでの道筋も開けたかもしれない。
いっそ恨み言のひとつでも吐き捨てられていたら、いくらか罪悪感も薄れただろう。
昔は同じマンションに住んでいたとはいえ、今や子供の頃のように互いの部屋へ行き来して遊ぶことはない。
唯一の接点だった学校も、留年している高校生と大学生ではどうしたって足並みが揃わない。
だから、なかなかきっかけを掴めず仲直りできないでいた。
(自業自得とはいえ、難しいな……)
子供の頃の世界は、もっと単純にできていた。
家と学校と公園と。
見知った景色は精々数キロ範囲で、今にしてみると狭い世界だったけれど、見上げる空はどこまでも高くて、根拠のない希望と自信で輝いていた。
そんな世界で、毎日日が暮れるまで駆け回った。
転んだってへっちゃらで、泥や膝の擦り傷などなんのその。
好き嫌いがはっきりしていて、誰も彼もが遠慮なく本音をぶつけるものだから、些細なことですぐケンカになったりもしたけど、全力でぶつかった翌日には、何事もなかったのように仲直りしていた。
悩み事といえば宿題のこと。
あの子より背が低くて、全然伸びてくれないこと。
それから欲しいゲームの発売日とお小遣いのことくらいで、そんな悩みだって夕食の後には、すっかり忘れてしまっていた。
未熟ゆえに失敗の連続だったけれど、決して挫けることなく挑戦する気概に満ちていた。
それが、いつからだろう。転ぶのが怖くなったのは。
他人の顔色を伺って、自分の体裁を気にして、言いたいことや言うべきことを隠し、本音を探り合うようになってしまったのは。
(いや、逆に今は余計なことを口走ってしまい、後悔してるわけだが……)
「ハァ……だっせぇな……」
最近、暇が増えたせいで、よく昔のことを思い――以下略。
(ともかく、よくない傾向だ)
そんなことに苛まれながら通学路を歩いていると、先行していた美咲に追いつく。
俺の歩幅が広いといえ、これほど早く追いつくとは思えないので、後から合流できるように歩調を緩めてくれていたのだろう。
「…………待っててくれたのか? 置いて行っても、よかったのにな」
「へえ、そういうこと言う?」
「すんませんした」
「うむ、素直でよろしい」
「すみませんでした!」
「えっ、な、なに!?」
うららかな朝の住宅街に、俺の謝罪の言葉がこだまする。
「挨拶と謝罪は基本! この前はひどいことを言って、本当にごめんなさい!」
美咲は状況を飲み込めずにいて、まだ戸惑っている様子。
許してもらえるまで平身低頭謝罪を繰り返す。俺は土下座だって辞さない構えだ。
「い、いいからっ、もういいからっ! ご近所さんの目があるでしょ、頭を上げてよ!」
美咲は掌で俺の頬を挟み込み、無理やり頭を上げさせると、真意を確かめるように真っ直ぐ目を合わせてきた。
「ん、許す」
謝罪を聞き入れてもらえたことに、俺はひとまず胸を撫でおろす。
「改めて、おはよう」
「あ、ああ、おはよう」
「それと――」
「なんだ?」
「――ぷっ……くくっ、あははははっ! もー、ムリ! その顔、耐えらんないって!」
「お前なぁ……」
口をヒヨコのように尖らされ、間抜け面を晒していたであろう俺のことを、実行犯の美咲は腹を抱えて笑う。
ともあれ、それから俺たちはケンカしていたことが嘘のように、いつもの調子で軽口を言いながら歩調を合わせて通学路を行く。
ご高覧いただき ありがとうございました 次回へ続きます
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