第19話:最後の賭け
エルネストが「寂しい」と言った、その一言が俺の心に深く刻まれた。
明日から彼は完全に隔離される。アステリアの支配下で、今度こそ本当にエルネストらしさを失ってしまうかもしれない。
今夜が、最後のチャンスだった。
「エルネスト」
俺は彼の手を握った。
「今夜、時間はあるか?」
「今夜?」エルネストが困惑する。「明日から集中研修が始まるから、早めに休んだ方が…」
「頼む。最後に、お前と話したいことがある」
俺の真剣な表情に、エルネストが頷いた。
「分かった。どこで?」
「学院の屋上で。夜中に」
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深夜。学院の屋上で、俺はエルネストを待っていた。
満天の星空が、俺たちを見下ろしている。皮肉なことに、あの星々が、星詠み司の権威の象徴でもあった。
「クレイド」
エルネストが現れた。月明かりに照らされた彼の顔は、どこか疲れているように見える。
「来てくれて、ありがとう」
「それで、話とは何だ?」
エルネストが俺の隣に座る。
「エルネスト」俺は意を決して口を開いた。「俺は、お前を失いたくない」
「失う?」
「今のお前は、もう以前のお前じゃない。星詠み司庁に通うようになってから、お前は変わった」
エルネストの表情が複雑になる。
「変わったと言うが…それは悪いことなのか?」
「お前がお前でなくなることは、俺にとって悪いことだ」
俺はエルネストの目を見つめた。
「覚えているか? 俺たちが初めて出会った時のことを」
「それは…」エルネストが記憶を辿る。「確か、お前が上級生にいじめられていた時だったな」
「そうだ。お前は、俺みたいな目立たない奴を助けてくれた。理由を聞いたら、何と答えたか覚えているか?」
エルネストが小さく微笑む。
「『困っている人を見過ごすことはできない』と言った」
「そうだ。その時のお前の瞳は、本当に輝いていた。正義感と優しさに満ちていた」
俺は空を見上げた。
「その後も、お前はずっと変わらなかった。セレスティア様と出会った時も、グリフォン事件の時も、いつもお前は『人を助けたい』という気持ちで動いていた」
「それは…」
「でも今のお前は違う。『帝国のため』『全体のため』と言って、目の前の人の気持ちを無視している」
エルネストの表情が苦しそうに歪む。
「セレスティア様を突き放した時、お前は何を感じた?」
「それは…」
「悲しくなかったのか? 彼女の涙を見ても、何も感じなかったのか?」
エルネストが黙り込む。
「俺は感じた」俺が続ける。「お前の心が、痛んでいるのを。だが、お前はそれを『個人的な感情』として押し殺そうとしている」
「だが、それが正しいことだと…」
「誰が決めたんだ?」俺が強く言った。「アステリア様か?」
エルネストが俺を見つめる。
「エルネスト、お前は今、自分の心を信じているか?」
「心を…信じる?」
「そうだ。お前の心が『これは正しい』と感じることを、信じているか?」
エルネストが長い沈黙を保つ。
「俺は…分からない」
「それが答えだ」俺が立ち上がる。「本当に正しいことなら、迷わないはずだ。お前が迷っているということは、心のどこかで『おかしい』と感じているからだ」
「でも、アステリア様は…」
「アステリア様の言葉と、お前の心、どちらが本当のお前だと思う?」
俺はエルネストの前に立った。
「俺は、お前の心を信じている。小さい頃から一緒にいて、お前の本当の優しさを知っている」
「クレイド…」
「お前が何を選んでも、俺はお前の友達だ。でも、お前らしさを失ってしまったら、俺はとても悲しい」
エルネストの瞳に、涙が浮かんだ。
「俺は…俺は本当に、何が正しいのか分からなくなった」
「分からなくていい」俺が微笑む。「でも、お前の心の声だけは、聞いてくれ」
しばらくの沈黙の後、エルネストが小さく呟いた。
「セレスティア様を突き放した時、俺は…とても辛かった」
「うん」
「お前たちと離れると聞いた時も、本当は嫌だった」
「うん」
「でも、それは間違っていることだと思って…」
「間違っていない」俺が断言した。「大切な人を大切に思う気持ちが、間違っているはずがない」
エルネストが俺を見上げる。
「でも、アステリア様は…」
「アステリア様の言葉より、お前の心を信じてくれ」
俺は胸ポケットから、あのお守りの石を取り出した。
「これ、覚えているか?」
「俺たちが一緒に作った…」
「そうだ。お前が『友達の絆』と言って、一緒に作ったものだ」
俺は石をエルネストの手に握らせた。
「この石は、お前の本当の心を覚えている。お前が人を大切にする気持ち、友情を大切にする気持ちを」
石が微かに光る。
「エルネスト、お前はお前のままでいい。誰かに作り変えられる必要はない」
エルネストが石を見つめている。
「俺は…」
「何も急いで決めなくていい。ただ、お前の心の声を聞いてくれ」
俺は立ち上がった。
「俺は、何があってもお前の友達だ。お前がどこにいても、どんな状況でも、俺はお前を信じている」
「クレイド…」
「明日から会えなくなるかもしれない。でも、俺はずっとお前のことを考えている」
俺は微笑んだ。
「お前の本当の心を、思い出してくれ」
そう言って、俺は屋上を後にした。
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翌朝、俺は不安な気持ちで教室に向かった。
エルネストは、星詠み司庁の集中研修に向かったのだろうか。それとも…。
教室の扉を開けると、そこにエルネストの姿があった。
「エルネスト?」
彼が振り返る。その瞳には、久しぶりに以前の輝きが戻っていた。
「おはよう、クレイド」
「研修は?」
「断った」エルネストが微笑む。「アステリア様には申し訳ないが、俺はもう少し、自分で考えてみたいと思う」
俺の心に、大きな安堵が広がった。
「それで、いいのか?」
「ああ。昨夜、お前の言葉を聞いて、色々なことを思い出した」
エルネストが立ち上がる。
「俺は、俺の心を信じてみることにした」
その時、教室の扉が開いて、セレスティアが入ってきた。
エルネストは、迷うことなく彼女に向かって歩いていく。
「セレスティア様」
「エルネスト様…」
「この間は、申し訳ありませんでした」
エルネストが深くお辞儀をする。
「もしよろしければ、改めてお茶でもいかがでしょうか」
セレスティアの顔が、花のように明るくなった。
「はい! 喜んで!」
俺は、心から微笑んだ。
エルネストが戻ってきた。
本当の、エルネストが。