閑話43 天敵の居ぬ間に……
すみません、書いている内にヴァンダルーの出番がなくなったので、閑話に変更しました。
ある男が狭い部屋に監禁されていた。
程良く柔らかい寝床に、白いシーツ。白い壁に青い天井、そして板張りの床。部屋に備え付けられた便所に、与えられた簡素な衣服。全てが清潔だ。
だがここは監獄である。罪人である男を監禁しておくための。
男は元々、アルクレム公爵領に店を構える奴隷商に雇われていた。仕事は真面目にこなし、雇い主と同僚からも信頼され、稼ぎも悪くなかった。問題は、その奴隷商が違法奴隷……山賊が攫った人々を奴隷として買い取って売りに出していた事だ。
男は雇い主の違法な商売を知っていたし、関わっていた。気分は良くなかったが、世の中はそんなものだと思い込んでいた。
売られる者達を助けてやろうとは思わなかったし、衛兵に通報しようともしなかった。そんな事をしても自分が組織に消されるだけだ。
売られる連中は、運が無かったのだ。殺されるよりは、自分達に売られる方がまだマシなはずだ。自分達が違法奴隷の売買をする事で、山賊に殺されるはずだった連中の命を救ってやっている。
働き出した最初の頃はそう自分を言い聞かせていたが、その内感覚がマヒしてそんな事をしなくても、ぐっすり眠れるようになった。
だがある日、男は雇い主と何人かの同僚と一緒に攫われ、顔を剥がされた。男は奴隷商人の護衛も兼ねており、腕にはそれなりの自信があったが、黒い肌をしたゴブリン達に抵抗する事も出来なかった。
顔をナイフで削がれる激痛のあまり気絶し、気がついたらこの監獄に入れられていたのだ。
元通りになっていた顔と、殺されなかった事を喜んだ男だったが、そこからが地獄の日々の始まりだった。
得体の知れない薬を毎日飲まされたり打たれたりして、幻覚や幻聴等の副作用に悩まされる。それが軽い日には、運動と称して外で半日かけて穴を掘らされ、そして半日かけて埋めるよう強制される。
運が悪ければ、「教材」として「顔を剥ぐ練習」や「拷問の授業」に使われる。終わった後は元通り治療されるし、食事や睡眠は確保されているから死なずに……いや、死ねずにいる。
何処かの組織で犯罪奴隷同然の扱いをされている。それは男も分かっていた。しかし、これでは話に聞いた鉱山送りの方がまだマシだ。
男が死を望むようになった頃、彼はいつもの監獄や実験室ではなく、広い部屋に連れて来られた。
「27番、体調はどうかね?」
だだっ広い部屋には、男を番号で呼ぶ細身に髭を生やした人物、ルチリアーノ。そして奥の暗がりには幾つもの気配を感じる。
「……今日は比較的良いな。今度はどんな薬を打ってくれるんだ、イカレ野郎?」
自暴自棄から挑発的になっている男は、27番と番号で呼ばれる事に抵抗する意思はなかった。そんな彼に対してルチリアーノは「それは結構」とだけ答えて、手元の書類に視線を落とした。
「今日は、君に新しい実験に付き合ってもらいたくてね。喜びたまえ、君は我々の審査を合格した。
この実験の結果次第では、君をここから解放してあげよう」
「……なんだと?」
疑いの眼差しを向けて来る27番に、ルチリアーノはにたりと笑いかけた。
「君はこの施設の実験体の中では、比較的マシな部類だ。貧しい孤児院出身で、就職先にあの奴隷商人が経営する商会を選ばなければ、もしかしたら真っ当に生きていたかもしれないと我々が考える程度にはね。
そこで、この実験に協力してくれれば君を自由の身に……なれるとは限らないが、まあ監視付きで普通の生活を送れるようにしてもいい」
「……それで、どんな碌でもない実験をするつもりだ?」
27番は胡乱げな視線をルチリアーノに向ける。うまい話には罠が在るのが当たり前だ。犯罪奴隷に「解放してやる」と甘い言葉をささやいてやる気にさせ、死ぬ事が前提の危険な仕事をさせると言う話を、彼は職業柄何度も聞いた事があった。
「やる気になってくれたようで、私も嬉しいよ。私も今の内に……私をダンジョンや魔境に連行し、肉体的なトレーニングに付き合わせ、研究が進まないよう妨害工作を企むボークスがいない今がチャンスなのでね。では、早速実験にかかろう」
だが、ルチリアーノは27番の態度をあまり気にしていないようだ。瞳を狂的な好奇心に光らせて、彼に問いかけた。
「それで、君はどんな女性が好みなのかね?」
27番は、ルチリアーノが言った言葉がすぐには理解できず、思わず「は?」と聞き返した。
「異性の好みだよ。容姿やスタイル、身長、そして種族。全てに応えるのは無理だが、できるだけ応じる準備がある。ああ、同性が良いと言う希望は実験の性質上叶えられないが」
「な、何でそんな事を言わなきゃならねぇんだ!? 馬鹿か!?」
訳が分からず困惑している様子の27番に、ルチリアーノは「何でって、そりゃあこういう事だからよ」と言って指を鳴らした。
すると、部屋の奥の暗がりから、幾人もの女が現れた。歳の頃は十代から二十代まで様々で、人種が多いようだがドワーフや獣人、巨人種、それにエルフ等の姿も見える。
だが27番は思わず引きつったような悲鳴をあげた。
『ぐるぅぅぅ……』
『ア゛ア゛ア゛ァァァ』
光の無いどろりとした瞳に、血の気の失せた肌。中には首や胴体に縫合した跡がある。そう、女達は全員ゾンビだったのだ。
「な、なるほど、俺をこいつ等の餌にするつもりか」
これから行われるのは処刑を兼ねた実験だ。特殊な薬品を注射した27番を摂取したゾンビに変化が起こるかどうか、若しくは男がアンデッド化した時どんなアンデッドになるのか、それを確かめるための実験に違いない。
27番はそう思った。
生きたままゾンビに貪り食われる。かなり凄惨で苦痛に満ちた死に方だが、このまま薬品漬けにされながら拷問の練習台として生かされ続けるよりは、まだいいかもしれない。
それに、今まで何人もの罪も無い人間を今の自分と似たような境遇に落として来たのだ。相応の最期だろう。そう思うと笑えてくる。
「好みなんてねぇよ。何人でも良いぜ、好きなだけ喰わせてやる!」
一匹や二匹のゾンビに喰われるよりも、何十匹ものゾンビに喰われた方が速く死ねるだろう。そう思った彼は、そのままルチリアーノに答えてしまった。
「それは剛毅な事だ。しかし、全員と言う訳にはいかないから女性側の好みも聞いて……ふむ、希望者は七人か。まあ、丁度いいんじゃないかね」
そう言うと、集団の中から手を上げた七匹のゾンビが歩み出てきた。ゾンビ達は27番に近づくと、彼を掴んで部屋の反対側へ連れて行く。すると、スポットライトが点灯し、それまで暗くて見えなかったキングサイズのベッドが出現した。
ゾンビ達はそのベッドに27番を押し倒すと、服を脱がせ始めた。
「……は? な、何のつもりだ?」
様子がおかしいゾンビ達に困惑する27番。そんな彼に、ルチリアーノは答えた。
「何って、これから君と彼女達で生殖実験を行うのだが、何か勘違いしていたのかね?」
「せ、生殖!? 生殖ってあれか!? あれだよな!?」
「もちろん、いわゆる子作りだが」
「馬鹿野郎! ゾンビとガキが出来る訳ないだろうが!?」
この世界では、科学が未発達で顕微鏡も存在しないため、『地球』のように生殖の過程が解明されてはいない。
しかし、死んだ畑に種を撒いても子供が出来ない事は流石に知られていた。
ただ例外もあり、ライフデッド……生命属性魔術で死後間もない死体を強引に生かしている状態……なら、子供を作れる事を知っていた。分類的にはアンデッドだが、魔術によって鼓動と呼吸をしているので、臓器は生きているからだ。
だが、今彼の服を脱がす女達の手は冷たく、男に近づける唇は蒼白で、見つめる瞳に輝きは無い。死臭は何故かしないが、どう見ても完全にゾンビである。
そんな存在と交わっても、子供が出来るはずがない。
「馬鹿野郎、だと!?」
だが、何故かルチリアーノは激高したように叫び出した。
「君は私と師匠の魔導技術を愚弄しているのかね!? 既に動物を使ったアンデッドと生者の交配実験は成功している! 君以外を使った人体実験でも、時間の関係でまだ新生児は誕生していないが経過は良好! 君は可能か不可能か調べるためではなく、より詳しいデータを取るための実験に協力しているのだよ!
以上の事から私は馬鹿野郎ではない! イカレ野郎かクレイジー、もしくはマッドと呼びたまえ!」
「な、何言ってんだ、こいつ!?」
27番は怒鳴り散らすルチリアーノに、恐怖を覚えた。まるで話が通じない、意味が分からない、理解できないと。
だがそうしている間にもゾンビ達によって27番は衣服を脱がされ、冷たい肉体が押し付けられ……そして絹を裂くような悲鳴があがった。
「大袈裟だね。何人でも来いと言った時の威勢は何処へ行ったのかね。童貞でもあるま……いや、その可能性もあったか?」
大勢の半裸の異性を前に舞い上がり、つい大口を叩いてしまった。そう考えると、同じ男としてやや可哀そうな事をしてしまったかもしれないと、ルチリアーノもほんの少しだけ思った。
彼は感覚が一般人から、大きくずれている自覚があった。しかし、ヴァンダルーに弟子入りする前は人間社会でややグレーながら社会生活を営んでいたのだ。他人がどう思うか、想像する事が出来る。
……想像した心理が、当たっているとは限らないが。
「男としての自信を喪失し、精神的に不能になられると実験に支障をきたしてしまう。とりあえず精力剤と媚薬の準備をしておこう」
ルチリアーノはその様子を観察しレポートを書く手を止めて、27番に投与する薬を準備にかかった。
その後、ヴァンダルーから魔王の大陸到達と、その地底世界に到着した事、更に真なる巨人と龍、そしてヒトデの獣王の死体が手に入ったと聞き、彼の興味は27番の実験からそちらに向かうのだった。
実験は継続されたが、行為の間中ルチリアーノに観察されずに済むようになった事は、27番にとって幸いだったかもしれない。
その頃の魔王の大陸。『岩の巨人』ゴーン率いる防衛隊は、事前に造り、外から見えぬよう偽装した拠点で、防衛体制を整える為集まっていた。
『……目的は果たした。奴等が封印された女神に近づくのを防ぎ、守った』
ゴーンは、アルダの命でヴァンダルーからボティンを守るために魔王の大陸に防衛隊を組織した。その目的は、封印によって身動きが出来ないボティンの魂を、ヴァンダルーが喰らう事を防ぐ事だ。
だから、ヴァンダルーを倒す事が出来ず、それどころか大した損害も与えられずに逃げられたとしても、負けではない。
寧ろ、追い返す事に成功したのだから、目的を達成した、勝利したと言う事も出来る。
『ぐうううう、俺の脚が……』
『脚の一本や二本でガタガタ抜かすな! 今繋いでやる!』
『ハリンシェブが虫の息じゃ! どうにか殻を繋ぎ合わせねば死ぬぞ!』
『う、ううっ、ぐぅぅぅっ……ぬぁぁぁ……』
だが、仲間達の状態を顧みれば、とても達成感や勝利の高揚感を覚えられる状態ではない。
ヴァンダルーが放った【界穿滅虚砲】での一閃に、ボークスやミハエル達の奮闘や、使い魔王の攻撃によって、多くの真なる巨人や龍が傷つき、特に『貝の獣王』ハリンシェブは貝殻を砕かれ瀕死の重傷だ。
亜神達の肉体は、その巨体に相応しい強靭な生命力で支えられている。だが、一日で四肢が生え変わるような再生能力を持つ者は少ない。
勿論、その内再生するが……自然治癒に任せていると数年から数十年、それ以上かかる事もある。
だからゴーン達は懸命に負傷者を治療していた。失った血肉を補うために狩った魔物の肉を喰らい、千切れた手足を縫い合わせ、海で手に入れた薬効のある巨大な海藻を包帯代わりにして傷に巻く。
そして戦いに出遅れた分を取り戻そうと、『角笛の神』シリウスや『陣太鼓の神』ゼパオンが聞く者の自然治癒力を活性化させる曲を奏でていた。
『……これで、一月もあれば全員元の状態に戻るはずだ。ハリンシェブ以外はだが』
愛用の角笛をヴァンダルーに破壊されたため、口笛で代用していたシリウスが演奏を中断して、ゴーンに話しかけた。
『やはり、ハリンシェブは無理なのか?』
『死にはしない。だが、割れた貝殻は我々では治せない。元通りに戦える状態になるまで数十年から百年はかかるだろう』
『そうか……ハリンシェブの子らへ応援を頼まなければならんな』
信者達が死後昇華して神や御使い、英霊等になって加わる神と違い、亜神達をどれだけ厚く信仰しても信者が死後亜神になる事はない。
肉体を持つ亜神達は、信者を昇華させるのではなく子を作り新たな仲間や眷属を増やすのだ。
『巨人神』ゼーノや『龍皇神』マルドゥーク、『獣神』ガンパプリオ等大神は、自然のエネルギーや自らの血肉から直接子に当たる世代の亜神達を生み出した。そうして、ゴーンや『轟雷の巨人』ブラテオ、『大海龍神』マドローザ、そしてハリンシェブやレポビリスが誕生した。
しかし、ゴーン達はゼーノ達程には神秘的な方法で子を成す事は出来ない。そのため、多くの場合同族や他の亜神と子を成す。神代の時代は、神と交わって子を成した例もある。それだけに、亜神達は自身の血筋に強い誇りを持っている。
それを応用したのが、ヴィダだ。彼女は亜神達と交わり、亜神ではなく、巨人種や獣人種、竜人等の人を生み出した。
だからこそ、亜神達の中にはヴィダ達の行為を嫌悪する者も多い。親よりも力の劣る種族を生み出しただけではなく、仕方なく共闘したとは言え、憎き魔王軍の邪神悪神にまで身体を開いた事に、血と誇りを汚されたと感じ、怒りを覚えている。
ゴーンもそんな真なる巨人の一柱だが、今はヴィダへの怒りを封じて、戦力をどう立て直すか苦心していた。
『レポビリスの子等だけではなく、ハリンシェブの子等からもか。それぞれ最も親に近い子は、親に代わって自分達の眷属を治めているから動かすのは難しいぞ。獣王の統制下から離れた眷属が魔物と化したら、一大事だ』
『それはそうだが……二番目以下に複数来てもらい、数で補うしかあるまい』
レポビリスとハリンシェブの眷属は多いが、獣王である親と同等なのは魔王グドゥラニスとの戦いを親と共に生き残った、それぞれ一個体ずつだけだ。
他の子等は魔王との戦いの後に産まれた若い個体だけで、亜神と呼ぶには弱い者ばかり。一体では、レポビリスとハリンシェブが抜けた穴を塞ぐ事は出来ない。
『なら、ペリア様の護衛隊から応援を呼んではどうだ?』
『水と知識の女神』ペリアが眠っている聖域にも、ゴーン達と同程度の規模の護衛部隊が配置されている。ペリアの腹心である『流れの女神』パーグタルタは動かないだろうが、龍や真なる巨人達は即戦力になる。
『いや、それは危険だ。ヴァンダルーがペリアを狙わないとは限らん』
今回ヴァンダルーは魔王の大陸に現れた。しかし、ペリアの魂を狙っていないとは限らない。
寧ろ、実は全てヴァンダルーの作戦で、魔王の大陸にアルダ勢力の神々の注目を集めておいて、本命はペリアであると言う事も考えられる。
『しかし、他に救援の当てがあるのか? 時間があれば他の亜神達が新たに加わるかもしれないが……』
ゴーンはアルダ勢力に属する亜神達に、広く声をかけた。だが、全ての亜神達が動ける訳ではなかった。
それぞれ危険な魔境が広がらないよう抑えていたり、人間では攻略が難しい場所に出現したダンジョンで魔物が溢れないよう間引いたり、【魔王の欠片】や邪悪な神の封印を守ったりと、亜神達も決して遊んでいる訳ではないのだ。
勿論、事の重大さは理解しているが、それで目を離した隙に重大な事態が起きてしまえば、世界を危険に晒す要因が増えてしまう。
『確かに。……十万年前の戦いで封印した、ヴィダ派の巨人や龍、獣王を説得して味方に付けられればいいのだが、主に相談できんか?』
『難しい事が分かっているのに尋ねるな。アルダ様が試みても、連中が首を縦に振るはずがない』
約十万年前のアルダとヴィダの戦いでは、魔物に堕ちず亜神としての格を保っていた真なる巨人の多くはヴィダ派についた。それは生き残っていた真なる巨人の内で、最も強かった『太陽の巨人』タロスがヴィダ派だったからだ。
そのためゴーン達アルダ勢力についた真なる巨人は、少数派だった。同じ事は龍にも言う事ができ、『山妃龍神』ティアマトを慕う龍や、その子はほぼヴィダ派についた。
ゴーン達アルダ勢力についた亜神達も数としては少なくはない。ただ、全体としては少数派だった。
だが、戦いにはアルダ勢力が勝った。つまり、戦いの中で封印された者だけではなく、死んだヴィダ派の亜神も少なくなかったという事だ。
『親兄弟を殺された彼等達が、簡単に改心するとは思えん。奴らの意思を無視して操る事も、可能といえば可能だが……ヴァンダルーの母親はヴィダの化身だ。戦闘の途中で正気に返り、敵に戻る事も考えられる』
シリウスの説明に、ゴーンはならば仕方ないと納得した。元々敵とは言え、同族を操るのは気が進まなかったのであっさりと引き下がった。
だが、これ以上の戦力を短い時間で集めるためには常道では難しいのも事実だった。
神々が英雄候補達を育てている今なら、人間を当てにする事も出来るはずだったが……この魔王の大陸の位置と環境がそれを不可能にしている。
『まさか、ここにきてナインロードの施策が裏目に出るとはな』
魔王グドゥラニスを倒した後、ベルウッド達に率いられた勇者軍は魔王の大陸を徹底的に浄化した。より正確に評すなら、破壊と評すべきかもしれない。
魔王の宮殿に邪悪な神殿、菌類の森に、黒い砂漠。そうした建造物や土地を勇者軍は徹底的に破壊し、全てただの荒野に変えた。魔王軍の残党や魔物が利用しないようにと。当時のゴーンやシリウス、そして今はヴァンダルーの背後に控えるグファドガーンもそれに加わった。
結果、十万年前の魔王の大陸は魔素による汚染から救われた。……草木一本生えない荒れた大陸になったが。
しかし、魔王の大陸に再び魔境が発生する事は明らかだった。何故なら、ボティンを閉じ込める魔王の封印があったからだ。封印から僅かに洩れる魔王の魔力が、魔素となって大陸を汚染していく。
放置すれば、魔王の大陸は元通り……いや、元以上の魔境の大陸と化してしまうだろう。
だがその後、英雄神となったベルウッドも含めて神々は世界の復興にかかりきりになり、無人で生物が存在しない魔王の大陸を気に掛ける余裕を失った。ヴィダとの戦いで更に消耗した彼等に、大陸に常駐して魔素による汚染を防ぎ続ける任務を、果たす事は出来なかったのだ。
その間もボティンの封印を解こうと様々な努力がなされ、定期的に魔物を間引き、魔境を薙ぎ払ったが、全ては徒労だった。ボティンの封印は解けず、魔境は広がり続けた。
そして五万年が経つ頃には、魔王の大陸の自然は回復していた。ただ、無数の魔物が生息する魔境の大陸としてだが。
そこでナインロードがある策を思いついた。
『魔王の大陸にはザンタークらヴィダ派と魔王軍の残党が潜む魔大陸と違い、我々の脅威は存在しない。それを利用して、あの大陸に世界中の魔素を集めてはどうだろう?
そうすればバーンガイア大陸は勿論、空や海の魔境化を抑えられえるはずだ』
既にベルウッドは眠りについており、ファーマウンは出奔していたため、彼女に異を唱える者はいなかった。
そして世界中の魔素の多くが魔王の大陸に集まるよう細工され、多くの地で魔境の拡大が緩やかになった。
逆に、魔王の大陸は現在のように亜神でもなければ踏み入る事も難しい大陸になってしまったのである。
『今、あの時の判断をどうこう言っても仕方あるまい。魔素をこの大陸に集中させた事で、今に至るまで多くの土地が正常に保たれ、人間達が繁栄しているのだからな』
『それはそうだが……ん? ナインロードの施策……ナインロードか。戦力の足しにはなるか。レポビリスやラダテルと違い、失っても惜しくはないし』
何かを思いついたらしいゴーンに、シリウスは何をするつもりなのかを問い、彼の発した答えに驚いた。プライドが高い亜神が思いつくような方法ではなかったからだ。
しかし、確かに戦力の足しになるかもしれないとシリウスも納得し、アルダとナインロードに報告するために神域へと戻った。
『今戻ったぞ、兄弟達よ!』
『よく戦ってくれましたね。さあ、これを飲んで少しでも傷を癒すのです』
シリウスの姿が消えた頃、ブラテオと『大海龍神』マドローザ、そしてヴァンダルーとの戦いに加わっていなかった亜神達が戻ってきた。
彼らは己の血から作った秘薬を怪我人に呑ませ、破損した武具を鍛え、代わりの角笛を作り始める。
『弟よ、今その傷も鎧もなんとかしてやるぞ』
『うぅ、兄者……』
『鉄の巨人』ナバンガーが、ボークスと戦い深手を負った『青銅の巨人』ルブーグに秘薬を飲ませ、鎧の修繕を始める。
戦力の補充の目途もつき、これで再びヴァンダルーが現れるまでに体制を整えられそうだ。そう胸を撫で下ろしたゴーンに、ブラテオが驚くべき事を訊ねて来た。
『それで、何時ヴァンダルーを追撃するつもりだ? まさか、このまま逃がすとは言うまいな?』
『な、何を言っている!? 追撃だと、そんな危険は犯せないと言ったはずだぞ!』
ゴーンはヴァンダルー達が海中に逃げた時、無謀にも彼等を追おうとするブラテオを羽交い絞めにして止めていた。それは海中ではブラテオが得意とする轟雷が拡散してしまう事と、ヴァンダルー達に返り討ちに遭う危険性が高いと判断したからだ。
しばらくしたらブラテオも落ち着き、マドローザ達と協力して負傷者の手当てに当たっていたので理解してくれたかと思っていたが……そうではなかったようだ。
『何を言っている! 守るだけでは奴らを倒す事は出来んぞ!』
『その通りです。今回は退ける事は出来ましたが、次は彼等も相応の戦力を揃えて来るはず。こちらから打って出なければ』
それどころか、マドローザまでブラテオに同調してしまう。十万年以上前のグドゥラニスとの戦いで妻を失ったブラテオと同じく、マドローザも夫を失っている。そのためか、彼女もブラテオ同様に魔王を激しく憎悪していた。
『それに、倅の仇を見逃せと言うのか!?』
『ズヴォルドは、愚かしくも我が子です。この恨みを堪えよと!?』
何より、直情的な性格が合うのかもしれない。
だが、そもそも亜神の多くは直情的だ。だからゴーンにとっては不味い事に、ブラテオ達に賛同する声がちらほらとあがり始めた。
しかし、ゴーンとしてはそれを認める訳にはいかない。一緒に彼らを止めてくれただろうシリウスが居ない事を悔やみながら、口を開く。
『馬鹿を言え! 今から追いかけたところで、グファドガーンの【転移】で何処かに逃げていたら無駄足だぞ! それに待ち構えていたら各個撃破されてしまう。
我々が奴を退けられたのは、数の力があったからこそだという事を忘れるな!』
もし一柱、若しくは二柱でヴァンダルー達に挑んでいたら、ゴーンだけではなくブラテオとマドローザでも負けていただろう。
負けるまでにそれなりにヴァンダルー達を苦戦させ、消耗させ、もしかしたら傷を負わせる事も出来るかもしれない。だが、結局は負けるだろう。
『だが、先程十柱で仕掛けた時、手応えがあった! 戦えている、このままいけば勝てると言う手応えがな!』
『今から動ける者全員、約二十柱で追って仕掛ければ、今度こそ奴らに勝てるはずです』
そう訴える二柱に、ゴーンは眩暈を覚えた。その手応えのあった作戦を、何処の誰が台無しにしたのかと指摘したかったが、それをすると二柱が益々激高しそうなので、それは堪えた。
『確かにそうだが、ヴァンダルー達は余裕を残していた。それに、グファドガーンの力で既に『転移』で何処かに逃げているかもしれん』
そう言うと、追っても無駄足になる可能性が高いとブラテオも理解していた。だが、それでも彼は納得できないようだ。
『では、この隙を突くようアルダに進言するのはどうだ! 奴が次にここやペリアが眠る地、アルクレムと言う人間共の街に姿を現したら、奴の拠点を……境界山脈の内部を攻撃するのだ!』
『たしかに。神が通れぬ結界も、我々亜神ならば物理的に通る事が可能です。何なら、神々が育てている英雄候補とやらを抓んで持って行ってもいいでしょう。これなら――』
『……本気で言っているのか?』
ゴーンはブラテオとマドローザの、現実味の薄い思いつきに溜め息を吐いた。
ブラテオ達の思いつきは、確かに実現できれば、そして勝てるなら、確かに有用な策だ。しかし、現実的には難し過ぎる。
まず、既に一度シリウス達神々はヴァンダルーに欺かれている。アルクレムに居るヴァンダルーを偽物だと看破できず、ゴーン達に合流するのが遅れてしまった。
神の目とは言え、地上を見る時は降臨でもしていない限り、信者の目を通して見る事しか出来ない。そのため、信者と同じように……人と同じ程度にしか見る事は出来ない。
再びヴァンダルーが姿を見せたとしても、神にはそれが本物かどうか、見分けがつかないのだ。町中にいるのは偽物で、実は境界山脈内部に本物がいる。なんて事も起こり得るのだ。
次に、境界山脈を攻める為には、境界山脈を物理的に越えなければならない。肉体を持つ亜神達は、海を泳ぎ、地上を走り、空を飛んで、山脈を越えなければ攻め込めないのだ。
体長約百メートルの真なる巨人や、同じくらい大きい龍や獣王がそんな事をすれば、まず接近する前にヴァンダルーとヴィダ派の神々に気づかれる。
そして山脈に辿りつく前に、ヴァンダルーが戦力を率いて襲い掛かって来るだろう。
だが、空間属性魔術で【転移】してヴィダ派の本拠地を急襲する事も出来る。前触れも無く現れたアルダ派の亜神達が攻め込めば、ヴィダ派も防ぐ事は出来ないはずだ。
だが、境界山脈内部には原種吸血鬼達が約二十人いる。その多くは結界を維持するのにかかりきりだと思われるが、亜神達が境界山脈内部に攻め込めばそれどころではないと出て来る。
他のヴィダ派の神々も、座して死を待つのは御免だと降臨し、邪悪な神々も戦列に加わるに違いない。
そして起こるのは約十万年前と同じ大激戦だ。そして以前と同じようにアルダ勢力が勝ったとしても、多くの神が犠牲になれば、結局この世界は滅びてしまう。
約十万年間アルダが境界山脈を見張るに留め、内部に攻め込まなかったのはそう言う理由からだ。
そして現在、ヴァンダルーによってヴィダが復活し、リクレントとズルワーンまで敵に回っている。一方、こちらはベルウッドが眠り、ファーマウンは出奔した。
これまで想定されていた以上の犠牲が出るだろう。
『むぅっ……だが、ヴァンダルーは死者の声を聴く。ラダテルとズヴォルド、レポビリスが我々の事を売るとは考えたくないが、惑わされるかもしれん』
『我々の情報を手に入れたヴァンダルーが、再び攻めて来るのを待つのは危険ではないのですか?』
確かにその通りだとゴーンも認めた。だが、失われた戦力をラダテル達が知らない方法で補充する目途は既に立っている。
『半月……いや、十日でいい。儂に時間をくれ。この大陸の、魔物に堕ちた巨人や竜をかき集める』
だが、今すぐに補充できる訳ではない。ゴーンはそれまでの間、ヴァンダルーが再び現れないよう、今は亡き父、ゼーノに祈りを捧げるのであった。
9月7日に276話を投降する予定です。




