アナイキ ④
第19話 裏切りの朝
うるしを塗りつぶしたような暗闇が立ちこめ、どこからかピチャン、ピチャンと水時計のように規則正しい水が下垂れる音がする。
優はまるで釘でうちつけられたように動かない体で立ち尽くしている。
(またこの夢だ)
心の中に拭いきれない影が雨雲のように広がり優は固く目を閉じた。
「オ……。…ガ……。…チ…」
抑揚のないその声に、ぞわりと言い現しがたい恐怖が背中を這い上がり、優の心臓が早鐘のように打つ。
(早く目が覚めて!お願い!早く目が覚めて!」
「…チ…。……テ…。オ……」
優の顔に生ぬるい風が吹き抜けた時、優はピタリと声が止んでいる事に気づき、ギュッと閉じた目を開けた。
(あれ?…終わっ…た?)
優は恐る恐る目を開けたその時、強い生ぬるい風が再び優に吹き付けた。
風が過ぎ去ったその時、優の真後ろで人の気配がした。
背中に恐ろしい戦慄が走り叫びそうになるが声は出ない。
(誰?怖い!)
優の耳そばで息遣いが聞こえた。そしてその息遣いは言葉へと変わる。
「堕チロ」
(嫌だ!…嫌だ!)
優は不安と恐怖でくしゃりと顔を歪める。
「我ガ手ニ。堕チロ」
その声でプツリと停電をしたように優の意識は深い闇の底に落ちていった。
朝、主がいなくなった家に朝食の匂いが立ち込める。
匂いに誘われるように、1人また1人と1階へとおりてきた。
「おはよう。悪ぃな朝飯作らせて」
キッチンに顔を出した茜は調理をする鈴奈に声をかけた。
「いいのいいの。白羅さんたちも出かけちゃったみたいだし」
「あー、仕事があるとか言ってたな」
そう言うと茜は目玉焼きとベーコンがのったお皿を2枚手にした。
「これ持ってくぞ」
「あ、お願い」
鈴奈は振り向き手を挙げた。
「おう」
茜はそう言い微笑むとお皿を持ってキッチンを後にした。
入れ違うようにヒョコリと奏はキッチンに顔を出した。
「おはようございます先輩。美味しそうですね」
「ありがとう」
そう言うと奏はまたリビングに戻ろうと踵を返した。
「高田さん!奏さぁん!かーなかなかなかなかな!」
奏の背中に言うと複雑そうな顔をしながら振り向いた。
「人をセミの鳴き声みたいに呼ばないでくださいよ」
「それいいな。俺もそう呼ぼうかな」
キッチンに戻った茜がイタズラっ子のような笑みを浮かべて立っていた。
「やめてくださいよ」
焦る奏に茜はケラケラと笑いながら2皿手にキッチンを出て行った。
「ごめんごめん。残りのお皿持って行ってくれる?」
苦笑いをする鈴奈が目玉焼きがのった皿を指さした。
奏は皿を両手で持ち、もう2枚を手首の上にのせた。
「器用なことするねぇ」
「慣れてるので」
どこか拗ねたような声色で言うと奏はキッチンを出て行った。
机に料理が並ぶ頃には全員が起き食卓についた。
ふと優と沙綾香がいないことに気づいた奏が当たりを見渡した。
「あれ?月島先輩と湯島先輩は?」
「沙綾香はそもそも寝起き悪ぃからまだ寝てるんだろう」
茜は頭に手をのせて困ったような表情をする。
「優はまだ寝てるのかなぁ。珍しい。いつも早起きなのに」
意外そうに鈴奈が言った時、ユラリ、ユラリとまるでマリオネットが歩いているようなひどく不自然な動きで優は階段をおりてきた。
「あ、噂をすれば。おはよう。遅かったね」
鈴奈が言うと俯いたまま優はピタリと足を止める。
「どーしたの…優?」
鈴奈が手をのばすと優はゆっくり顔を上げ、光の灯らない目で鈴奈を捉えた。
「風妃。こいつらを…殺して」
あまりに唐突なことに理解が追いつかず唖然としていると、強い風が軽々と全員の体を持ち上げ壁に叩きつけた。
「っ!」
痛みで全員が声にならない声をあげ動けなくなる。
「今、すごい音したけど大丈夫?」
不安そうに階段をおりてくる沙綾香に優はスーッと視線を向けると、ふらりふらりと体を揺らしながら沙綾香に近づいた。
「お、おはよう優ちゃん。どうしたの?」
「逃げろ沙綾香!優じゃない!」
茜の鋭い声に困惑の視線を優にむけた。
「えっ?」
沙綾香に優はニタァと笑うと、足を沙綾香の腹にめり込ませた。膝を折った沙綾香の横顔に優の振り回した足が迫るが、沙綾香の前に鈴奈が立ち蹴りを掴んだ。
「ちょっと冗談が過ぎない?優」
睨みつけると鈴奈は優の足をはらった。
優は仰向けに倒れるが、すぐに手を後ろにつきそのまま跳ね起き、少しトントンと跳ねる。
「まだやる気なのね」
呆れたように言う鈴奈に優は唸りをあげて拳を飛ばす。
鈴奈はサッと屈みかわすとニヤリと優に笑いかけた。
「アンタと何回やり合ってると思ってるのさ!」
足をはらわれ体制を崩した優に鈴奈は馬乗りになり両手を抑える。
「これはどーゆーことか説明してくれるよね優」
ジッと鈴奈を無言で見つめると優は、鈴奈の顔目がけて頭を振りかぶった。
「っ!」
手を離した鈴奈を突き飛ばし、その首に握った拳を振り下ろした。
「コロス」
その場に崩れ落ちた鈴奈を上向きにし首に手を回すが、その手がピタリと止まる。
「あたしを殺すんでしょ?」
鈴奈は真っ直ぐ優を見上げた。
「…ならなんで泣いてるの?」
ポタポタと鈴奈の頬に雫が落ちる。
「あ…れ…うっ」
一瞬、我に返った優は頭を抑えた。
「どうしたの?!大丈夫?」
鈴奈からおりると優は伸ばされた腕を振り払った。
「イカナキャ」
「どこに?」
優は鈴奈を無視し、フラフラと玄関に歩いて行く。
「どこ行くの!優!」
家を出ていこうとする背中に走り寄ろうとした時、背後で「ゔっ」と呻く声がした。
振り返ると、茜が頭を抑えながら体を起こしていた。
「大丈夫?!茜」
茜に駆け寄る背後でバタンと扉が閉まる音がし鈴奈が視線を戻すと、すでに優は立ち去ったあとだった。




