双頭鷲の八八艦隊 1
露西亜帝国海軍からの艦船の発注要請に対して、同盟国である日本も英国も対処することは実質的に不可能だった。日本は自国の海軍向け艦艇の建造で手一杯であり、それは英国も同じであったからだ。加えて英国は米国が日露に宣戦布告すると中立宣言を行ったため、武器の供与そのものが実質的に不可能となった。
もっとも実際の所、英国からは第三国を通した中継貿易などが行われたのだが、それにしても戦車や航空機程度ならともかく、巨大な艦艇を引き渡すのは不可能に近かった。
この他に露西亜帝国としては満州連邦や中華民国上海政府、華南連邦等の同盟国に艦艇の建造を依頼することも出来たが、それらの国々も自国用艦艇や日本向け艦船の建造で手一杯であったし、そもそもが建造に必要な工業基盤が弱いという弱点を抱えていた。
そのため露西亜帝国が入手できたのは、結局日本海軍のお下がりである旧式の駆逐艦以下の艦艇数隻であった。
もちろん、これではアメリカどころか虎視眈々と機会を窺っているソ連太平洋艦隊にも対抗できない。
そんな露西亜帝国海軍に対して、大日本帝国政府は代替案として戦時標準船改造特設軍艦の供与を申し出た。
この戦時標準船改造特設軍艦とは何ぞや?であるが、これを説明するにはまず戦時標準船から話す必要がある。
戦時標準船とは、大量の船舶が必要となる戦時に設計を共通、ならびに省力化して短期間で大量に揃えられるようにした規格型船舶のことだ。
本来商船と言うのは、発注する船会社の事情や配船する航路の事情を勘案してオーダーメイドに近い形で発注される。もちろん、同型船を複数揃えるということはあるが、それでも2桁の数が建造されるのは稀なことで、また同型船であっても建造時期や造船所の色が濃く出て差異が大きく出ることも珍しくはない。
戦時標準船の場合は、こうした事情を一切無視してどこの造船所でどの時期に建造されようと、指定された型の船を建造し、商船会社に配当することとなる。
船会社からすれば自社の事情や配船航路に、他社と何ら変わり映えのしないデザインで、しかも絶対とは言わないがミスマッチな船を強制的に押し付けられるのだから、もちろんうれしい筈がない。しかも、早期に数を揃える省力化を行っているので、先述したように直線主体の不格好なデザインで、機能も最低限なところまで絞り込まれている。
日本の場合、まず戦前設計の平時標準船と言う規格統一型商船に端を発し、この設計を活かした戦時第一次型が設計された。しかしこの平時標準船と第一次型戦標船は設計の共通化こそできたが、建造速度を上げて数を揃えるのに必要な省力化が不十分で、大量消費に対応できる代物ではなかった。
そのため、より設計を簡素化した戦時標準船が建造されることとなった。これが戦時第二次型で、太平洋戦争(日米戦の別称)での日本の戦時標準船のスタンダードとなった。
この戦時第二次型では徹底的に無駄を省いてデザインを建造しやすい直線的なものとなし、さらにはブロック方式や電気溶接を大々的に採用することで建造スピードを早めることを目指した。また英国から供与された同国のビクトリー型戦時標準船の設計なども参考とされた。
当初は二重底の廃止や艦内の居住艤装の徹底的な削減も考慮されたが、最低限の安全性と居住性を犠牲とすることにより予想される事故喪失や、乗員の士気低下による運航能率低下の方が、総合的な損失が大きいと判断されたため、最低限の安全性と居住性は担保された。もちろん、これは最低限の話であって実際戦前竣工の在来船に比べれば大幅に劣るのは否めなかった。
この第二次型は総トン数に応じて貨物船型がAからEまで、その他にタンカーのT型、鉱石輸送船のK型等が建造された。そしてその中で特に大量に建造されたのが、第二次型のE型、通称2E型であった。
この2E型は総トン数わずか880トンと言う小ささで、速力も搭載したエンジンにも拠ったが、どんなに高速のタイプでも12ノットという低速な船であった。
しかしながらそれ程大きくないこともあって、それ程の設備を有しない造船所でも建造可能であった。特に外地の造船所や工業基盤の低い同盟諸国の造船所でも建造可能と言う魅力があった。このため、なんと1000隻以上が建造される大ベストセラーになった。
ただし、各型共通のことであったが当初はマニュアルの不備や工員の教育が行き届かなかったため、多数の欠陥船を発生させることとなった。しかしこうした問題は改定されたマニュアルや改善指示が伝わるに従い減っていき、その後は安定した品質の船が次々と竣工した。
そして品質が安定した戦時標準船に海軍も注目した。海軍では正規の艦艇や徴庸艦艇をフル動員して戦っていたが、強大な米国と戦うにはいくら船があっても足りない状況であった。とりわけ後方の補給体制や、警備任務に就く艦艇の不足は深刻であった。
そこで海軍艦政本部では、建造が軌道に乗った戦時標準船の徴庸ならびに一部を海軍が買収してそのまま艦艇として編入することに決定した。
徴庸と買収が混ざったため、同じ戦時標準船母体でありながら、書類上は民間商船会社に一端所属した後に特設艦として編入されたものと、海軍艦艇として当初から編入されたものが存在した。
一括して海軍が買収しなかったのは、戦後民間商船として戻すことを予め織り込んだため、加えて予算上全てを買収とはいかなかったためだ。
これらはそれまでの商船改造艦艇と違い、完成後に改造するというものではなく、予め建造段階から艦艇のとして活動できるよう、設計に手が加えられたこの手法は一部の空母で既に行われていたが、戦時標準船に対しては、それがより大規模に行われた。
例えばタンカータイプのTL型であれば、単に輸送任務だけでなく、洋上での補給にも使用できるよう諸設備を追加、ならびに高角砲や機銃、簡易指揮装置の搭載、兵員の居住設備の追加が設計段階よりなされて、海軍油槽艦として竣工した。
他に大型貨物船の1A型の船体だけ流用して、上部に格納庫と飛行甲板を搭載、英国から供与されたカタパルト技術と合わせて建造された小型空母もあった。
また変わり種として、青函連絡船用のW型を流用したドック型輸送艦と言うものもあった。
もっとも、貨物船自体が不足している状況ではこれら大型艦の建造数は限られ、いずれも数隻のみで終わっている。
やはり最多を誇ったのは、母数が多い2E型転用艦艇であった。
小型低速のこれらが何に使われたかと言えば、まず舟艇や潜水艦への補給艦艇であった。この時期日本海軍では、前線を含めた根拠地防御用に英国からの英術供与の末完成させた魚雷艇や、艦隊決戦用兵器から転用改造された小型潜航艇、さらにそれより多少大型の波号潜水艦を配備していた。
これらはいずれも小型少人数での運用が可能であるがために、港湾設備が整っていない地域でも利用できるという利点があった。とは言え、それでも現地までの回航や重大な損傷・故障の整備を行うに際しては、後方の基地に後送するか、或いは設備の整った母艦による支援を必要とした。
この任務に2E型転用の母艦が投入された。ただし正式には工作艦や給量艦と言った艦種として運用された。
小型低速であり、居住設備も最低限であるため乗員たちは前線への派遣任務を嫌がったが、一方で小型であるがゆえに狭い湾や離島に接岸しやすいという利点もあり、重宝された。
続いて多かったのが敷設艦転用型であった。敷設艦とは機雷を敷設する艦艇のことだが、大きく分けると高速で敵地に侵入し、機雷を敷設する強行作戦型と、速度も大きさもそれ程でもなく味方の根拠地や航路防衛用の機雷を敷設する防御作戦型の二つにわかれていた。もちろん2E型転用の敷設艦は後者である。
これは日米開戦後、米潜水艦が大胆にも本土近海に潜入して攻撃を仕掛けたことから、帝国海軍が沿岸防備のために機雷堰設置を始めたことにより敷設艦艇が不足、その穴埋めとして建造された。
母艦タイプにしろ敷設艦タイプにしろ、貨物船である2E型を転用したことは大きなメリットがあった。それは先述した数が多いや小型ゆえの運用の柔軟性もあるが、それとともに貨物船と言う出自も大きかった。
貨物船と言うことは、船内に荷物を運ぶための貨物艙を備えている。つまり、船内に物資や機雷を搭載するための、余裕あるスペースが存在するということだ。
もちろん、単に荷物を搭載できるだけではダメで、補給に必要なデリックやクレーンの増設、或いは機雷を投下するための機雷用通路や投下口の増設と言った改造は必要となる。それでも、そうした改造は大きな手間をとるものではなかった。
こうして数が揃えられた2E型改造艦艇は、母数の多さも相まって計画通りに数が揃えられた。このため、露西亜海軍に供与する余裕もあった。
これが露西亜海軍の、通称双頭鷲の八八艦隊誕生へと繋がることとなる。
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