小夜は埋没したい
壮士が振り向くと、園庭を男の子が疾走してくるところだった。その後ろを彼の母親がすべてを包容するかのような微笑を浮かべたまま追いかけていった。壮士は何事もなかったかのように首の向きを元に戻した。凛はわずかに眉をひそめたのみで、亜美に至ってはまったく表情を変えなかった。ところが祐飛はなぜか不敵な笑みを浮かべて言った。
「孝志は、今日もあの様子では当然『移行』になるのだろうな」
壮士はこの時点では祐飛が言いたいことを理解することはできなかった。「移行」とは壮士の知識によるとどこかへものを移すことであり、確かに壮士たちはもうすぐ小学校に「移行」されるのかもしれない。だがそれは当然壮士の同級生全員に起こるはずのイベントであり、誰かが特に別の扱いを受けることではないはずなのだ。だがそう思っていたはずの壮士の目に、孝志の母の後ろでこれも純粋な微笑を湛えている浅野の姿が見えて、壮士は嫌な予感がした。やはり浅野は本当に、特定の気に入らない子供をどこか恐ろしい世界に連れていってしまうのではないだろうか? 壮士はいつも通りぼんやりと立って空を見上げている菫が、不必要に浅野に近い位置を取り続けているような気がして、本能的な恐怖を覚えた。
「おーい、菫、こっちに来いよ!」
壮士は大声で菫を呼んだ。すでに文弥などの年少の子たちは壮士の方へ向かってきていた。それもそのはず、壮士はまだ気づいていなかったが、壮士たちの近くに先生たちが集まって、今にも集合をかけようとしていたからである。もはや菫の周りにはほとんど人がいなかった。ゆっくりとこちらを見て「どうしたの?」と返してきた菫に、壮士は「早く早く、先生たちもみんなもこっちに来ているよ」と応じた。
☆
年上と過ごすことには慣れている。自分より体が大きくて、すべてにおいて敵わないように見えても、必ずどこかに弱点がある。相原小夜はそれを知っている。気の抜けるような成功体験とともに。
正直なところ、ついに丸松幼稚園の様子をじっくり見た小夜は、むしろ高揚感を覚えていた。本格的な滑り台と鉄棒、すべて平仮名ながら随所に配置された意味ある文字、そして何よりあらゆる面において頼りになりそうな先輩たちである。保育園では月齢差を跳ね返してトップグループに立ち始めていた小夜にとっては、高いレベルの戦いは望むところであった。……実際のところは、小夜は部分的には小学生とも互角に渡り合う力を秘めているのだが、その事実は先輩たちはまだ知らない。
前方では主任とみられる幼稚園教諭が話している。だが彼女は当たり障りなく卒業生への送別と「プレ」たちへの歓迎を述べるだけである。小夜は真面目に話を聞いているが、しかし小夜は話の内容をほとんど知っている。だが、数日前にさるルートから聞くことができたこの遠足についての詳細情報を広めるのは、それは小夜の立場をも危うくする。決して情報を共有されてしまうことへの危機ではなく、小夜が最も愛する人への危機なのである。
ついに開会式のすべてが終わり、小夜たちは幼稚園の前の道端に停められているバスへ向かうことになった。さっき少し話した年中組の女の子が近づいてくる。確か凛という名前であったか。
「じゃあ、行こうか小夜ちゃん」
凛は自然な調子で小夜と手を繋いできた。その動きは手慣れていて、年下のきょうだいがいることが容易に想像できる。小夜は一瞬安心しきって凛に体をもたれかけそうになったが、慌ててこれではいけないと元に戻した。この場は遊びではない、来たるべき幼稚園での立場が決定されるかもしれない重要な場なのである。普段やりにくいことができるからといって気を抜いていては、致命的な間違いを起こしてしまうかもしれない。
とはいえ小夜はときどき周囲にも驚かれるほどの慎重な性格であり、事前にほとんどのリスクは取り除いている。しっかり事前にトイレに行っているし、水も飲みすぎていない。むしろこれだけのことができていない同級生を小夜は何人か確認していて、本当にバスの中で漏らさずに済むのだろうかと小夜は心配にすらなっている。もちろん小夜と違って高月齢の子たちはフィジカルでそこをカバーできるわけであり、小夜もそれを嫌というほど知っている。他の重要な事項についても、箸の使い方も、服の着脱も、高月齢のトップグループと競えるくらいにまで仕上げている。本来心配することはないはずであるが、ただ小夜は本来は小さな3月生まれで、実際は些細なことで取り乱しやすく、そしてそれを小夜自身がいちばんよく知っているから、小夜はとにかく着実な選択を心掛けると決めている。ずば抜けて目立つ子ではなく、求められていることをこなし、できればみんなに埋没したいと小夜は思っている。
ただ小夜本人は気付いていないが、周囲の先輩たちは思ったより小夜を警戒しており、そしてその中には早めに潰しにかかってくる者もいる。バスが動き出し、小夜たちが詰めかけた親たちに手を振ってからおそらく1分も経たないうちに、小夜の後ろの方から大きな声がした。
「おーい壮士、俺の班と壮士の班で、しりとりでもやらないか?」




