私のお嬢様
1〜2話のアンさん視点のお話です。
あぁ、今日は本当に憂鬱な日です。
初めて仕事に行きたくない、と思うくらいの。
あ、少し語弊がありましたね。正確に言えば『今日から』憂鬱な日々が始まるのです。
なぜなら私――アン・リーグスは、ワガママなお嬢様のお世話係に任命されてしまったのですから。
全ては、一枚の置き手紙から始まりました。
『精神的に疲弊してしまいました。今日付で辞めさせていただきます。今までありがとうございました。 カーナ』
昨日の夕暮れどき、こんな内容の手紙がメイド長の元へ届けられたのです。
メイド長はこの手紙の送り主であるカーナを捕まえて話を聞こうとしたらしいのですが、すでに使用人寮はもぬけの殻。カーナの実家に連絡をしてみても彼女は帰ってきていないのだそう。本来ならこれは無責任な行動で、旦那様から罰せられるほどの重罪です。しかしフィーブル公爵様はお優しい方でしたので、彼女の行為を不問とし、実家に退職金まで支払ったそうです。
メイド長も他の使用人たちも、この寛大な処置に納得しました。
だって彼女は約三年もの間、あのワガママなルーナ様のお世話をしていたのですから。
だから旦那様も退職金まで出したのだと思います。あの方は奥様が亡くなられてからさらにお嬢様を溺愛するようになりましたので。
そんなわけで、次のお世話係として白羽の矢が立ってしまったのが、この私でした。
自分で言うのもなんですが、男爵家出身であり、使用人の中で一番メイド長に頼りにされていたからだと思います。というか、そうでも思わないとやってられません。
私はその日のうちに旦那様に呼び出され、お嬢様が王太子殿下の婚約者になられるかもしれないということを教えていただきました。
「これはまだ、誰にも公表していないことなんだがね?」
と、何度も念を押されるように言われました。もう逃げ場はありません。
旦那様いわく、私の仕事はお嬢様のお世話をし、最低限の作法などをお嬢様にお教えしながら王太子殿下の婚約者となってもいいように導くというものだそうです。
正直、荷が重すぎます。多少学はありますが、だからといってこの仕事はお世話係がするものではないと思います!
はあ、嫌だなあ。役割としては大抜擢だけれど、やっぱり気が進みません。
でも、そんなことも言っていられないのです。なにせこれは、旦那様直々に命じられたお仕事なのですから。
深く息を吸って、覚悟を決めました。
この扉の先にいらっしゃるお嬢様を立派な淑女……とまでは言わずとも、令嬢としてふさわしい女性にできるよう精いっぱい頑張らせていただきますよ!!
*****
「おはようございます、お嬢様。ご朝食をお持ちしたのですが」
震えそうな声を必死にこらえ、冷静を装います。大丈夫、ばれていないはず。
「…………」
あら? いつものお嬢様ならすぐに「入りなさい!」とおっしゃるはずなのだけれど、今日はなかなかお返事がありません。朝のお嬢様は毎日こんな感じなのでしょうか。それとも体調がすぐれないとか?
失踪する前に、お嬢様のマニュアルくらい残しておいてほしかったですよ、カーナ。
なんて、もういない人のことを言っても仕方ありません。今は私がお世話係なのですから、しっかりしないと。
「お嬢様? もしお加減が悪いのでしたら……」
「いえ、大丈夫です。入ってきてかまいませんよ、アン」
「ありがとうございます」
条件反射で答えてしまいましたが、やっぱりいつものお嬢様とは少し違う気がします。だって、お嬢様は私ごときの名前なんて覚えているはずがないのです。
もし、中にいらっしゃるのがお嬢様とまったくの別人だったらどうしましょう。とりあえずメイド長のユミルさんを呼べば大丈夫ですよね。よし、そうしましょう。
おそるおそる扉を開けると──。
さらりと流れる綺麗な銀の髪。ぱっちりとしたアメジストの瞳は不安げに揺れています。
よかった。あの方は紛れもなくお嬢様ですね。
……あれ? 不安げな瞳? お嬢様の不安げな瞳!?
は、初めて見ましたよ!? このお屋敷に仕えてもう五年も経つのに!
えにもいわれぬ不安に襲われる日って誰にでもありますよね。お嬢様にとって、今日がその日なのでしょうか。
ふぅ。とりあえず、お嬢様に紅茶をお淹れいたしましょうか。
「お嬢様、紅茶の種類はいかがいたしましょうか」
「……いつものをお願いします」
「かしこまりました」
……え。やっぱり敬語ですよね!?
お嬢様って、敬語で話す方でしたっけ? いえ、違いますよ!?
そんな大混乱の頭でふとお嬢様を見たとき、ハッとしました。
お嬢様の肩が撫で下ろされていたのです。
私はお嬢様に怯えるばかりで気がつきませんでしたが、お嬢様も本当は私のことが恐ろしかったのかもしれません。ワガママ放題のお嬢様でも、まだ幼い少女なのです。慣れているカーナ以外の使用人が来るとなれば緊張もするでしょう。ああ、私はそんなことにも気づかずに、なんてこと!
きゅるるるる。
私が後悔の念にさいなまれていると、可愛らしい音が部屋に響きました。音の出どころは、真っ赤な顔をしたお嬢様のようです。
「ふふっ」
つい、笑いがこぼれてしまいました。
こ、これは非常にまずい事態です。さすがにお嬢様もお怒りになるでしょう。どうしましょう!
「もっ、申し訳ありません! 笑うなど……」
まずは謝りましょう。なにもせずにいるよりは幾分かましなはずです。クビ、にはならないですよね。ですよね!?
「大丈夫です! こちらこそ、じろじろ見てしまってごめんなさい」
「……え?」
一瞬、耳を疑いました。お嬢様の口から発せられた言葉が信じられなかったのです。
お嬢様が謝罪……あれ、これは夢なのでしょうか。
「自分が悪いと思ったら、相手が誰であってもごめんなさいは言わないといけないとご本に書いてあったのです。ですから、これからはきちんとごめんなさいするのです」
続けてそんなことを真面目な顔で言ったお嬢様は、やっぱりいつもと違っていて。だけれど、一生懸命に私に話しかけるお嬢様を、ただの夢だとは思いたくありませんでした。
「お嬢様は勤勉でいらっしゃるのですね」
ワガママなだけだと思っていたお嬢様は、誰かにかまってほしかっただけなのかもしれない。幼いだけで、教えれば善悪もわかるし人を思いやれる優しい方なのかもしれない。
なんて思うのは、私の勝手な願望なのでしょうか?
――もう少しだけ、お嬢様に歩み寄る努力をしてみてもいいかな。
そんなふうに思えた今日は、案外悪い日ではないのかもしれません。
いつか、お嬢様のことが大好きだと言えるようになればいいなと思います。
「私、今まであまりあなたたちとお話していなかったでしょう? でも最近思ったのです。もっと皆さんと仲良くなりたいって!!」
ですが、その距離の詰め方は待って下さいませ、お嬢様!
お読み頂きありがとうございました!
次回から本編が進みます。