旅立ち:3
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1946年7月18日
目を覚ませば、見慣れた天井があった。古い木目模様で、子供の頃は少し恐怖を覚えていた。模様が化け物に見えて、自分を睨みつけているように見えたのだ。
布団から身を起こすと、そこは紛れもない自分の部屋だった。ふすまにシミからやや擦り切れた畳の傷まで、世田谷にある自宅にそっくりだ。
よく再現できていると儀堂衛士は感心した。
夢を見ていると、すぐに彼は気が付いていた。現実の自分は日本ではなく、<宵月>の艦長室にいて旅支度を完了しているはずだ。
同時に儀堂は何者かの意思を確信していた。正体についても予感めいたものがある。世田谷の部屋を知るものは限られている。
だから立ち上がるや、すぐに書斎へ向かった。ふすまを滑らせると、埃っぽい空気が鼻をつき、微かな風鈴の音が遠くで揺れた。
冷たい廊下を渡り、書斎の扉を開くと、薄暗い部屋の中央で誰かが椅子に座っている。その背中は、まるで過去の記憶を切り取ったかのように静寂の中で不気味に佇んでいた。
ゆっくりと椅子が回転し、姿を現したのは彼の父親だった。まだ詰襟だったころの陸軍の制服を着ていた。ピレウス港で再会した時よりも、やや若々しい姿だ。
顔には戦争の疲れが刻まれていないが、目だけはどこか虚ろで、まるで深淵を覗き込んだような暗さを湛えていた。
しばらく無言で二人は向き合った後、静かに儀堂は言葉を発した。
「お前、そこで何やってんだ」
憮然とした儀堂の声が書斎の空気を微かに揺らした。彼は誰が目の前にいるのか、そして自分がからかわれているとわかっていた。
静かな怒りを抑え、凍てつく海のように平静を装う。窓の外で風鈴が鳴り、まるで遠くの波がざわめくような不穏な音色を響かせた。
父親の口元が三日月に曲がる。その笑みは、どこか嘲るような、しかし懐かしい温かさを帯びていた。
「はははは!!!!」
転がるような少女の笑い声があたりに響き、書斎の空気が一瞬にして歪んだ。空間を揺らしながら、父親の姿が霧のように溶け、一瞬にしてネシスの姿に変わる。
「久しいのう、ギドー」
紅い瞳が妖しく輝き、少女らしい無垢さと鬼の狡猾さを併せ持っていた。どこか見覚えのある瞳の輝きだった。間もなく彼は思い出した。
かつて、この書斎の窓から月光に照らされた彼女を見たとき、同じ色を湛えていた。あのとき、儀堂はネシスに対して純然たる殺意をもって、9ミリパラベラム弾を叩き込んだ。
「妾の術を見破るとは、さすがはおぬしじゃ。やはりおぬしはそこらの凡庸な輩とは一線を画す」
ネシスの声は儀堂の頭蓋に直接響いた。まるで脳髄を撫でるような感覚だった。彼女は椅子に凭れ、少女の姿で微笑んだ。
「思ったよりも元気そうじゃないか、ネシス」
儀堂は腕を組むと、皮肉を込めて言った。
「俺が何度呼びかけても応えなかったくせに、どういう風の吹き回しだ?」
抑えきれぬ動揺が声に滲む。
「許せ、許せよ。妾とて袖にするつもりはなかったのじゃ。ほれ、なんというか不可抗力と言ったかのう」
腹に据えかねた儀堂だが、すっとぼけるネシスを見るうちに莫迦らしくなった。ため息とともに儀堂は怒りを押し殺した。
書斎の窓から差し込む月光が、ネシスの髪に銀色の輝きを投げかけ、まるで彼女がこの夢の支配者であるかのように見えていた。
常人ならば息をのむところだが、儀堂は違った。傾いた真似で調子こいているとすら思い、癪に触っていた。だいたい人の夢を勝手に掌握するとは、どういう了見だ。
「それにしても、おぬし中々に厄介な因果を背負ったものじゃのう。よもや父親が敵方に寝返っておったとは、妾でも見通せなんだよ」
「口の利き方に気をつけろ。まだ親父が裏切ったとは限らない。それに――」
「ほう、では他人の空似とでもいいたいのか?」
見透かしたようにネシスは言った。
「……いいや、そこまでは言わない。あれは確かに親父だった。だが、何かおかしい。あの時の親父は俺が誰か全く分かっていなかった。お互いに顔が分かっていたのに、親父は俺に対して誤魔化しようのない敵意を向けてきた。畜生め、わけがわからない」
夢の中とはいえ、世田谷の書斎は妙に生々しく、まるで過去の記憶がそのまま息づいているようだった。ふすまの向こうから、遠くで鳴る風鈴の音が聞こえる。
儀堂は拳を握りしめ、床の傷を睨みつけた。擦ったような傷痕だった。
あの日、自分が海軍へ行くと決めたとき、父に殴られた記憶が再生された。
書斎で話したのだ。そこまで重大な決断とは思っていなかった。むしろ自分にとって必定とすら、あのときは思っていた。
反対されるとしても「陸軍へ行け」で済むだろうと思っていた。
しかし違った。
彼の父は軍へ入ることを完全に否定していた。
理解できなかった。それは父自身の存在意義を否定しているようなものだった。
理由を聞き、いっそう儀堂は納得できなくなった。いつもと違い、父はえらく歯切れが悪かったのだ。何かを隠しているように思えた。
けっきょく、二人は平行線をたどり、最終的に父が儀堂を殴りつけて終わる。
床の擦り傷はその時にできたものだ。座っていた椅子ごと、彼は殴り倒されていた。
今でも覚えている。
あのとき、彼の父は自らの行為を恥じていた。同時に息子に対するやりきれない憤りが顔に浮かんでいた。
儀堂も衝撃を受けていた。初めて殴られたからだ。幼少から彼は聞き分けが良く、穏やかな子だった。加えて父は極めて理性的で拳骨よりも言葉を選ぶ人間だった。
ゆえに、その晩の衝突は埋めがたい溝を二人の間に作った。
以降、彼らの間に父子らしい時間は無くなった。
そして儀堂が海軍兵学校へ行き、父が満州に赴任してからは顔を合わせることもなかった。その後、父は戦死したと伝え聞くことになる。
結局のところ、あの晩に父が殴った理由はわからないままだ。一生、知ることはないだろうと思っていた。
しかしピレウス港での再会が、その前提を覆した。死んだはずの肉親が生きていた。それは喜ぶべき事態なのだろうが、無数の疑問に感情が塗りつぶされている。
あの男は確かに父だった。なのに、なぜ敵意を剥き出しにし、息子の顔を忘れたかのように振る舞ったのか。
儀堂の胸に混乱が渦巻いていた。
しばらくの沈黙の間、ネシスは椅子の背に凭れたまま小さく笑った。どこか儀堂の心情を見透かしているようで、子どもをあやすような面持ちだった。
「苛立っておるな、ギドーよ。しかしそのおかげで妾がこうして現れたのじゃ。おぬしは父君に感謝すべきじゃろうよ」
「どういう意味だ?」
「おぬし、言ったであろう。ずっと妾に呼びかけていたと。妾とて応えなかったわけではない。しかし、おぬしに妾の声は届かなんだ。なぜだと思う?」
儀堂には心当たりがなかった。
「萎えておったからじゃ。おぬしの心から滾りが失せ、閉じておった。だから妾の声が届かなんだ。しかし、この港で再び焔が灯った。おぬしの父との出会いで心が揺れ、高揚した。その高まりが霊力の波を大きくしたのじゃ。それでようやく妾の声が届いたところよ。のう、儀堂よ」
ネシスは椅子から降りると、下から儀堂を挑むように覗き込んだ。
「おぬし、諦めかけておったな?」
思わず目をそらす。
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月一で不定期連載中。
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
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