話がある
『阪上、ちょっといいか』
次の日の朝、黒石さんはボクを呼んだ。
当然、なんで呼ばれたかはボクもよく理解している。
『はい。申し訳ないです』
『ああ、これ……読んだの?』
黒石さんは、クレーム報告書を指さして言った。
『はい。ただ一応、最初はトイレまで連れて行ったんですけどね』
『だよな。それは俺も分かるよ。俺も家族の話しか聞いていないから事の全容を理解できてなくてな』
『とりあえず謝罪に行きましょうか?』
『いや、そこまでじゃないからいいよ。とりあえずはクレーム報告書を上げてくれないか?』
『分かりました。なんか本当にすみません』
『気にすんなよ』
この時、ボクは黒石さんのことを一瞬見直した。
ただそれは大きな間違いだったことに気づかされることになる。
ボクは黒石さんに言われた通り、本社にクレーム報告書を上げた。
クレーム報告書に関しては、クレーム自体を責めるものではなく、失敗の再発を防ぐものだったから、ボクは自分がやったことを真正面からとらえて、悪かったところ、反省し、今後改善していかなければいけない点などを記載して提出した。
事態はこれで収束したかに思えた。
それから数日後のこと……。
仕事終わりの時間に黒石さんは『話がある』と言ってボクを呼んだ。
『なんでしょうか?』
誰もいなくなった事務所で黒石さんと二人で向き合って話をした。
正直な話をすると彼はボクの1年後輩で、年上であっても人間的には子供なところがあるからそんなに緊張もしない。
『これ……どう思う?』
黒石さんはボクに勝ち誇った顔をして社長の直筆の指示を見せた。
そこになんて書いてあったかは忘れたが、ボクのことは今後戦力とは考えないように……というようなことが書いてあった記憶がある。
あまりのショックにボクは自分の顔色が青くなるのを感じた。
『どう思う?』と聞かれてもショックが大きくて何も言えなかった。
『どう思うって……確かに悪いことしたとは思いますけど……』
『社長が言うにはな……こんな人間に介護をする資格はないとのことだ』
『……そうですか……』
ボクは自分のミスでこんなクレームに発展したという後ろめたさがあったので冷静にものを考えることができなかった。
確かに『トイレに行きたい』と言っている人を助けてトイレに連れていくのが、我々介護士の仕事である。ボクがやってしまったことは軽率であったし、ミスであることには違いない。
『どうする?』
黒石さんはボクに言った。
なんだか嬉しそうな顔が許せなかった。
あの時、黒石さんが『気にすんなよ』と言っていたのは本社を使い、社長を使い、ボクを追い込むためだったのかと思ったら彼にはなんだか腹が立ったが、それと同時にこんな末端の何も分かっていないような若い社員にここまでするなんて……懐の小さな会社だな、とも思った。
それにしても、これに関しては今考えても忌々しい。
確かに失敗は失敗だし、それ自体は良くないことである。
しかし、それを包み隠さず、クレーム報告書に書き、しかも誓って言うが、クレーム報告書に書いた内容の反省点や改善して行きたい点に関しては、本当にそうしようと思いながら書いたものなのだ。
『……どうしましょう? てゆうかどうすればいいんですかね?』
『まあ、それはお前自身が時間をかけて考えるしかないな』
『分かりました。じゃあ、どうするかはしばらく考えさせてください』
おかしな話である。
どうしたい?
という問いに対する答えをしばらく考えるという話が……だ。
そもそもどうもこうもないだろう。
来てしまったクレームに関しては再発防止に努めるしかないのだ。
帰り道……。
ボクは歩きながらいろいろ考えた。
社長はボクのクレーム報告書に大きなバツをつけて、黒いマジックで太字で『今後、戦力としてあてにしないように』と書いてよこした。
そんなもんを見せる黒石さんも黒石さんであるが、それを見て『どうする?』と問うのはもっとどうかしている。
冗談じゃない。
ボクは黒石さんが定時でさっさと帰っていた介護保険導入時のあの混乱期も、一週間以上、事務所で泊り込んで仕事をした。しかもその時の残業代は一切もらっておらず、それはすべてサービス残業でやったことなのだ。
会社には随分、尽くしてきたつもりなのに……。
たった1回のクレームで……仮にそれが初歩的なミスだったとしても、戦力外を通告されるような仕事は今までしてこなかったはずだ、と思ったらその日は悔しくて眠れなかった。