2. 留め具の修理痕
夜明け前。私は鍵の箱を抱いて、窓辺の暗がりにいる。眠るまいとしていたのに、明け方にうとうとしたらしい。目の奥に、冷たい灰の色の空がしみる。その一瞬のうちに、掛け金のリボンはほどかれていた。窓辺の陰へ移ると、ほどなく黒い袖が外から現れる。私はその袖をつかむ。
「ここにいる、と仰いましたね。……おかえりなさいませ。今度は、どちらへ?」
「……盗みではない。君の箱には触れていない」
「それは確かめられます。行き先を聞いています、旦那様」
「朝食のあとで話す」
「また、あとで、ですか?」
あとで。その言葉を聞くたび、私だけが置いていかれる気がする。袖を放すと、冷えた布の感触が手に残る。
「私が箱を守っている間、あなたは何をしていたんですか?」
「君の問いに関わることだ」
「でしたら、なおさら今聞かせてください」
夫は返事の代わりに窓を閉めた。朝の薄明かりの中、私は答えのない箱を抱え、夫と朝食室へ下りる。扉を開けたボフミルは小柄だが背筋が伸び、銀の混じる短い焦げ茶髪に乱れがない。笑い皺の寄る顔で、夫の濡れた靴をちらりと見た。
「奥様のお説教を避ける経路だけは存じません。ふふふ」
「ボフミル」
「はい、旦那様。朝のお茶は、濃いめに淹れてございます」
主人に睨まれても、老執事の声は弾んだままだ。
「では、夫はどの扉から出るのですか?」
「階段からも、窓からも。旦那様は近道をよくご存じです」
「ボフミル、茶を頼む」
「かしこまりました。……奥様、旦那様の夜のお出かけには、決まりがございまして」
ボフミルは茶器を置き、声を落としてその決まりを語る。
夫が盗むのは来歴の怪しい宝石ばかりで、売らずに翌朝には困っていた別の誰かへ返すという。
私は鍵の箱を卓に置いた。紅玉がなくなって困る人を、まだ聞いていない。夫が誰かを助けたとしても、盗まれた人の損は消えない。
「返す前に、持ち主と、ほかの人の損を調べます」
「そのために、君へ預けた」
「でしたら、行き先も先に教えてください」
「君なら自分で見つける」
「見つけたいんです。あなたに黙って先へ行かれたくはありません」
夫は紅茶の湯気の向こうで黙る。朝の光が卓の銀器に跳ねて、答えの無い沈黙まで明るく照らした。
玄関から声が上がる。紹介状を卓へ置いたヘドヴィカは、きっちり編んだ白金の髪を揺らし、長身を屈めて私の顔を見た。その後ろで、恰幅のよいミロシュが帽子を取る。油で固めた赤褐色の髪の下、厚い頬が張っている。
「アリーセ。昨日の依頼人を、お連れしました。まず、ご本人の話を聞きなさい」
「紅玉が消えた! 今朝、商会へ渡すはずだったのです。昨日の約束どおり、取り戻してくれるか?」
「紅玉は、夜鴉の手から取り戻しました。ですが、持ち主を確かめるまで、私が預かります」
「なっ! なんだと?!」
ミロシュは卓へ身を乗り出し、衛兵の名を出す。私は箱から目を離さない。
「どうぞ。そのときは、この石も一緒に治安判事へお見せします」
声は落ち着いて出た。けれど箱に置いた掌は汗ばんでいる。持ち主だと言い切る相手を前に、私にはまだ確かな答えがない。
「私の物なのに、なぜあなたが持ち主を確かめるのです?」
「その説明を、今伺います」
彼は由来書を広げた。
「十年、家の金庫から出したことはない。修理も一度もしていない」
私は鍵を回して箱を開け、首飾りを取り出して、留め具の裏を灯へ向ける。
「では、確認します。この留め具を直したのは誰ですか?」
星印の脇には三年前を示す刻みがある。私は石に触れないよう留め具を持ち、ミロシュへ示した。
修理の刻印は、依頼人が語った時期より新しい。
朝の寒さとは違うものが背筋をなぞる。これだけで持ち主は決められない。それでも、問うべきことは増えた。
「職人の見当など、私にはつきません」
「では、刻んだ職人に聞くまでです」
「お好きに。ただし品は私の目の届く所へ」
私は箱を閉じて立つ。
「刻印の工房へ行きます。旦那様も来るなら、私の後ろで」
ヘドヴィカが〈馬車を回させましょう〉とミロシュを玄関へ促す。朝食室には、夫婦と茶器を持つボフミルだけが残った。
夫が紅茶を置く。
「仕事に口を出さない契約だろう」
私は契約書の写しを開く。
「仕事相手が夫になるとは書いてありません」
「夜明け前に工房へ行った。職人は、もう呼んで待たせてある」
「先に呼んだなら、先に私へ言ってください! 朝食まで黙っているおつもりでしたか?」
「君が刻印に気づくまで、待ちたかった」
「待たれても嬉しくありません。私には私の問い方があります!」
夫は紅茶の皿に目を落とす。
「君の問いを奪うつもりはなかった」
「もう奪っています。私が尋ねるより先に、あなたは答えのある場所へ行ったんです!」
箱を抱える腕に力が入る。実家の食卓では、父の「そのうちな」で進路も縁談も先へ送られた。その言葉のあと、私に残る選択はいつも少ない。
「……待つのは、苦手です。待っているうちに、全部決まってしまうから」
こんなことまで、この人に話すつもりはなかった。箱の角が掌に食い込むのに、緩め方が分からない。
夫の手が、紅茶の皿の縁で止まる。
「なら、工房では君が先に尋ねてくれ。僕は後ろにいる」
夫が隣の席を空けた。茶器を下げるボフミルの、笑みを隠す深緑の目が夫の手元へ向く。彼は何も言わず、扉を開けた。
◇
夫婦とヘドヴィカは馬車で工房へ向かう。ミロシュは品から目を離さぬと言い、自分の馬車で続く。工房では、ヘドヴィカが問いを待つ菫色の目で、開かれる台帳を見守る。
磨き粉と熱した金属の匂いがこもる工房で、宝飾職人が台帳を開き、星印のある欄を押さえた。私は夫を見る。約束どおり、彼は後ろにいる。
「この星印はうちのです。三年前の春、留め具を作り直しました」
「注文した方の名を、読ませてください」
そこには〈ヤルミラ〉とある。住まいの欄も写した私は、由来書と台帳を並べた。同じ首飾りについての紙なのに、語る来歴が食い違っている。
ミロシュが由来書を叩き、職人の手元を覗き込む。値踏みする黄緑色の目が、刻印へ戻る。
「この紙には、代々わが家の品とある」
「十年金庫から出していない石を、三年前に別の方が直しています」
ミロシュの喉が、ごくりと動く。
「……前の持ち主が直したのでしょう。由来書の言葉までは、私が書いたのではありません」
「では、前の持ち主がいた、というお話ですね?」
「そう申しただけです。今の権利とは別でしょう?」
私は台帳の名をもう一度見る。この人の言葉が変わっても、まだヤルミラさんの言葉を聞いていない。
夫が由来書の下の商会の印に目を留めた。私はその視線を覚えておき、所有の問いはここで止める。
「すぐに、ヤルミラさんご本人へ伺います」
ヘドヴィカが台帳の欄をなぞる。
「よく見ましたね。住まいが移っていたら、隣人に尋ねましょう」
工房の前でヘドヴィカが、台帳の住まいへ先に向かうと言った。
「今の居所が分かったら、お屋敷へ使いを出します」
ミロシュは顔を背ける。ヘドヴィカは改めて彼へ向き直った。
「銀貨五枚のお約束がございます。場所が分かればお知らせします」
「分かりました。私はいったん帰ります」
ミロシュの馬車が石畳を鳴らして遠ざかる。ヴィレムは何も言わず、私の半歩後ろに立っていた。振り返れば目が合う距離だ。それでも、次に何を知っているのかは尋ねたくなる。
◇
夫婦だけで朝食室へ戻ると、ボフミルが遅い朝食を整えている。夫は私の前に椅子を引く。
「私を捕まえたら、どうする?」
私は鍵の箱を皿の脇に置いた。紅玉の返し先をまだ確かめきれていない。次に聞く人も、問うことも残っている。焼きたてのパンの匂いに肩の力が緩み、夫の真顔を見ると耳だけが熱くなる。
「まず説教です。それから、朝食をご一緒に」
朝食室の光が、箱の鍵だけを細く照らす。




