1. 初夜の予告状
「へっ?! なにこれ……?」
初夜の寝室で、夫の上着から私宛ての予告状が出てきた――――。
探して見つけたわけではない。上着を椅子へ掛け直そうとしたとき、落ちたのだ。
そこには〈探偵アリーセ・リンデック嬢へ 紅玉は今宵いただいた。夜明けまでに、あるべき手へ 夜鴉〉とある。黒い封蝋の羽印を近づけて数えると、羽根は七枚ある。
昼間、私が「次こそ捕まえます」と宣言した、あの怪盗の印だ。
私は紙を開き、夫へ向ける。
冷徹と評判の公爵が、窓辺で黒い手袋を外していた。
「おやおや、変なものを見つけましたね。ふふっ」
予告状を持つ私を見た夫が、窓枠へ足を掛ける。花嫁衣装の裾をたくし上げ、私はその袖をつかんだ。夜気に冷えた布が、手の中で小さく鳴る。
「お待ちください! 夜のお仕事について、説明していただけます?」
袖をつかまれたまま、夫が振り向く。夜風を受け、後ろへ撫でつけた黒髪が額に掛かる。長身の彼が身を屈めても、通った鼻筋と動かない口元には、婚礼の席と同じ涼しさがある。
「書斎で帳簿を見るだけだが?」
昼の礼拝堂で誓いを述べた声と、同じ高さだった。その声で嘘を重ねられると、つかんだ袖を離すのが惜しくなる。
「窓の外に書斎があるのですか? 書斎の帳簿にも、私宛ての文が挟まるのですか? 公爵様?」
「答えるまで、その袖は離さないのか?」
「離しません。昼間の私を見て、まだ逃げられるとお思いですか?」
私は袖から手を離さなかった。半年、背中しか見られなかった怪盗が、いま振り向いている。悔しいのか、手柄なのか、自分でも決められない。
「私が追っていた夜鴉は、あなたですね?」
「君の目には、そう映るのか?」
「映る、では困ります。予告状を持ってた理由を伺っています」
夫は黒い手袋を窓辺の机へ置く。
「初夜に一人にさせようとしたのは詫びる」
「初夜に外出ですか。謝るところは、そこだけでしょうか?」
「君を退屈させるつもりはないぞ。ふふっ」
「退屈を心配する前に、真実を教えてください!」
夫の口元が、ほんの少しだけ動く。
「……君なら、気付くと思った」
「盗まれた人がいます。私が追うと知りながら、黙って出ようとしたのですか?」
夫が窓を見る。冷たい夜気が、つかんだ袖を揺らした。
「夜明け前に、あの石を商会の手の届かない所へ移す。明日の朝には王都の外へ出るところだった」
「だから婚礼の夜に? 先に私へ話すという選択はなかったのですか?」
「話せば、君を巻き込む」
「それを決めたのは、あなた一人です。もう巻き込まれています。これは私への予告状でしょう!」
夫の手が、机の上の手袋に触れて止まる。
「……君が怒るのは分かる」
「怒っています。でも、それだけではありません。私には何も尋ねず、私を置いていくつもりだったのが、悔しいんです」
私は袖を握る手に、もう一度力を込めた。
「君を軽く見たわけではない」
「では、私にも確かめさせてください。あなたの言葉を、曖昧なままにはできません」
夫は言い返さず、窓枠から足を下ろす。戻ってきてくれたことにほっとした自分まで、私は簡単に許せない。
「盗みを見逃す気はありません。でも、その裏の嘘も放っておきません」
私は髪のリボンを引き抜いた。跳ねやすい栗色の巻き毛が肩へ落ちる。細い体を窓へ寄せ、夫の袖と掛け金を結んだ。
「……君の結び方は、ほどけないな」
「公爵様のご説明より、ずっと確かです」
「婚礼の夜に、掛け金のほうが僕より信用されるとはね」
「掛け金は、居場所を偽りませんから」
私は机の契約書を引き寄せる。署名するため、リボンを夫の袖からだけ解く。掛け金には結んだままにした。
契約の条項は、仕事に口を出さない、愛情を要求しない。
頭書きには〈二十二歳のリンデック子爵家の娘〉と〈二十七歳のロウエンブルク公爵〉。私は王都で探偵の仕事を続けられ、彼は縁談を断る手間が省ける。初夜だけ同じ寝室に入るのは、婚礼の慣いと屋敷の目のため。寝所も明日から分かれる約束だ。
「愛情を要求しない。……この条項に、あなたも署名なさいました」
「ああ。要求はしない」
望んだはずの返事なのに、ペン軸を握る指に力が入った。蝋燭の火が紙の余白を照らしている。
「では、この余白を使います。仕事を続ける自由には、私が依頼人の品を調べる自由も含まれますね?」
「君から奪うつもりはない」
「盗む前に、私に説明してください。盗んだ品は、私が確かめるまで預かります」
夫は真顔でペンを取った。
「署名しよう。君の字の隣に」
「その言い方は、条項への同意と受け取ってよろしいですね?」
「ほかに、どう聞こえた?」
「字の位置を確認しただけです。ほかの意味があるなら、先に申告してください」
彼のペンが、私の書いた条項の下を走る。
暗い窓ガラスには、灯を拾う琥珀色の目と、赤くなった耳が映る。私は口を引き結び、署名を確かめた。探偵の顔をしているつもりでも、耳だけは言うことを聞かない。
「では、誰に返すのですか?」
「当たりは付けている。だが当て推量を君に渡すつもりはない。明朝、君の目で確かめてほしい」
「今から一緒に、確かめに行けば――」
「公爵夫人が婚礼の夜に町を歩けば、明日は君の話しか出ない」
「肩書を持ち出すのは、ずるいです。私は今夜、その人の名を確かめたいのに」
返す先を言い当てられない。強張る私の顔を夫が覗き込んだ。真顔で揺れる藍色の目には、答えを急がせる色がない。
「君の仕事を、噂で邪魔されたくない」
「……守るふり、ですか。私の仕事を守るふりで、私をこの部屋に置いていくのですね」
「置いていかない。今夜は、ここにいるだけだ」
帰りを待つだけの夜になると思っていたのに。悔しさを口にしたばかりで、すぐには顔を上げられない。
夫は黒い上掛けの隠しから小さな包みを出し、私の掌へ置いた。布越しにも紅玉は冷たい。蝋燭の匂いの中で、昼の披露宴がよみがえる――。
叔父上のオタカル様が連れてきたミロシュは、親指の先ほどの紅玉を金の爪四本で抱いた首飾りを語っていた。彼には結婚の三日前に予告状が届いている。差出人を調べ、盗まれたら取り戻せ、見つければ銀貨五枚。婚礼の夜の花嫁に見張りはできまい、と私の先生の前で付け足して。私が持ち主の思い出を尋ねると、ミロシュは笑った。
「女の推理など、当てになりませんな」
あの笑い声を、私は銀貨の数より正確に覚えている。だから同じ席で「次こそ」と宣言したのだ。隣には夫がいた。包みを開けば、昼に見た色と形、金の爪四本が揃っている。
「公爵様。取り戻したと言うだけでは、盗みは消えません」
「分かっている」
「持ち主も、まだ分かっていません。私が調べる間、この品には触れないでください」
夫は机の上の鍵付きの小箱に手を置いたまま、私を見る。
「ああ。君が確かめてくれ」
「……任せる、と簡単に仰いますね。私が間違えたら、どうなさるのですか?」
「君と調べ直す」
「私が正しかったら?」
「その答えを、君から聞きたい」
明日のことを考えるには早いのに、返す言葉が見つからない。
私は紅玉を鍵の箱に収めた。鍵を掛けると、夫がそれを私の側へ寄せる。冷えた金属に手を置いたまま、顔を上げる。
「言っておくが、その宝石は、君の依頼人の物ではないよ」
「それは調べないとわかりません。旦那様を捕まえるのは、この事件を解いてからにします」




