決断
「うっ……」
口を抑えた。
吐き気が込み上げてくる。
呼吸が浅くなり、身体が震えだす。
「アルズ。大丈夫だよ」
エリスが背中を撫でてくれた。
少しだけ、吐き気が収まった。
「アルズ。これ、引き返す?」
エリスは瞳を僕に向け、小さな声で聞いた。
「……」
エリスの瞳は青く輝いている。迷いなんて、どこにもないみたいに。
吐き気を堪える。
エリスの質問をなぞった。
——アルズ、引き返す?
引き返すべきだ。
——迂闊に首を突っ込まない方がいいよ。
キョウシュウの警告も思い出す。
間違いない。
その通りだ。
そうしなくてはならない。
なのに……。
僕は、ワンのことを思い出していた。
——せめて、我が主だけでも安心して暮らせるように。
「アルズ?」
エリスの声がよく響いた。
僕は……。
「……」
口元に垂れた、情けない唾を拭った。
僕は、冒険者だ。
「いや、やろう」
それが無謀でも引き返すべきだとしても。
「そう言うと思ってた。じゃ、出ようか」
エリスは目を細めた。
僕たちは閉ざされていた扉を出た。
薄暗い廊下の先、曲がり角から僅かに光が漏れ出していた。
「あっちかな?」
「わからないけど行ってみるしかない」
足音を立てないようにして、そこへ向かった。
到着すると僕たちは曲がり角の壁に手をつける。
身を屈み、そっと顔を覗かせる。
そこからは、ロビーのような開けた空間が見下ろせた。
頭上からは落ちてきそうなシャンデリアが吊り下がり、照らされるのは染み一つない真っ赤なカーペット。
漆喰の階段が下の階の広間へと向かっていた。
灯りは灯っているのに誰もいない。
その空間の奥。
ひっそりとした通路が見えた。
その先は真っ黒な陰に覆われていた。
「いかにも、良くない場所って感じだね」
「うん……嫌な感じ」
「ていうかそもそも、どうして、この広間は誰もいないのに電気がついてるのかなあ」
エリスの言う通りだ。
廊下は真っ暗だと言うのに、どうしてここだけ明るいのか。
単純にこのまま階段を降りれば、あの暗い陰の先へ向かえてしまいそうだった。
いかにも怪しい。
絶対に監視魔法やら何かが設置されているに違いない。
「どうするか……」
バサっ。
突然、エリスが翼を広げた。
「え、エリス?」
「多分だけどね。あの先には、誰も行かないんじゃないかな?」
エリスは淡々と語った。
「どういうこと?」
「まあ、ただの予想だよ。もしかしたら、実験施設があったりするのかなあってね」
エリスは陰の先を見据えていた。
——カツン、カツン……
背後から足音が聞こえてきた。
「ま、それに、ここで中途半端に捕まるくらいなら、あそこまで行ってみた方が安全かもしれないし」
「……」
罠が仕掛けられてるかもしれない。
だけど、引き返して誰かに発見されたりしても即おしまいだ。
決断を迫られるのは、苦手だ。
「ほら、アルズ。どうする?」
「い、行こう」
「了解!」
僕たちは階段を一気に降りた。
その瞬間。
真っ赤なランプが点灯する。
——侵入者。侵入者。二名。
けたたましい警報音が響き出す。
広間の天井に、黄色い魔法陣が浮かび上がる。
そこから雷が矢のように降り注ぐ。
さっきまで静かで華やかだった空間が一気に弾けた。
「ほら、アルズ。びびってないで駆け抜けるよ」
エリスが僕の手を引いた。
「あ、ありがとう」
天井から降り注ぐ雷を避ける。
広間に足を一歩踏み出した瞬間。
床が抜けた。
「あ、あぶなっ……」
「アルズっ!捕まって」
エリスが翼を大きく広げていた。
「わ、わかった!」
僕はエリスの身体にしがみついた。
「よし、一気に飛ぶからね」
エリスは翼を羽ばたかせ、床と接触する寸前を低空飛行する。
雷を器用に避ける。
そのまま、激突する勢いで、真っ暗な通路へ向かって突っ込んだ。
僕たちは陰の先に足を踏み入れていた。
「ふぅ……」
エリスは一息をついた。
「ありがとう。助かったよ」
「いいよ、これくらいならね」
「少し休んだ方がいい?」
「大丈夫だよ。さっきのは慣れてなかっただけだから。それよりもきっと、ここにいる方が危険だよ」
「わかった。じゃあ行こう」
僕たちは陰の先を進んでゆく。
煉瓦の柱と石畳の長い廊下が続いていた。
さらに進むと、柱と柱の隙間から、何かが見えてきた。
楕円形の広場だった。
円形闘技場のように頭上が開けていた。
階層構造の客席が並んでいた。
下の方からは、生ゴミと鉄の混じったようなにおいがした。
暗雲のせいではっきりとは見えないが、広場の床には黒い染みのようなものが広がっていた。
「……」
身体がゾッと冷えた気がするのに、汗がじんわりと広がってゆく。
だめだ。
これ以上考えたら。
今は、考えるよりも身体を動かす時だ。
「アルズ。このまま、あそこの控室っぽい所に行こう」
エリスが指し示す先はその広場にある、小さな灰色の建物だった。
「うん。わかった」
下に降りるにつれ、においはきつくなってくる。
頭が痛くなってきた。
「アルズ、大丈夫?」
「うん……なんとか。エリスこそ大丈夫なの?」
「まあ……これくらいは、ね」
エリスはボソリと言った。
その表情に暗雲の影が落ちていた。
「そっか……」
そう言うとエリスは何も言わずに頷いた。
更に下へ降りていくと、悪臭を上書きするようなきつい柑橘系の香りが漂ってきた。
いよいよ、目眩がしてきた。
鼻を摘んで進む。
僕たちは広場まで降りた。
その頃にはもう鼻は麻痺してしまっていた。
——ヒュウー……
夜の冷えた風が吹く。
鳥肌が立った。
「うん。当たり」
エリスが呟いた。




