01.観測
俺はずっと見ていた。
前の席で、河本舞香がシャーペンを落とす。
床に転がったそれを拾おうと、彼女が身をかがめた瞬間、黒髪が揺れて、スカートの裾がわずかに浮いた。
白。
──見てしまった。
理解するより先に、視線を逸らしていた。
別に狙ったわけじゃない。
ただ、見えただけだ。
それでも事実は消えない。
笑って済ませるほど軽くもなく、否定できるほど潔白でもない。
こういう「どちらにも寄れない瞬間」ばかりが、俺の人生にはある。
河本が振り返る前に、窓へ視線を逃がす。
外へ。現実から少し距離を取るように。
グラウンドでは二年、他クラスの連中がランニングをしていた。
だらだら喋りながら走るやつ。
真面目に掛け声を出すやつ。
手を抜くやつ。
そして──神力で身体能力を底上げしているやつ。
この街ではその程度では誰も驚かない。
人は一つだけ「神力」を持つ。
それが普通だ。
才能の形は違えど、皆どこか歪んでいる。
だから俺の神力ではない「それ」も、異常ではないはずだった。
──見えるのだ。
神力の波長が。
光でも、音でもない。
ただ「波」のようなものとして。
強いて言うなら、水面の下を流れる濁った潮のようなもの。粘度がある。時々、渦を巻く。
誰かが力を使うたびに、その「潮」の色がわずかに濃くなる。
今、グラウンドを覆っているそれは、走る生徒たちの足元からだけでなく、もっと高い場所──校舎の奥、屋上の方角からも流れ込んでいた。
理由は知らない。
いつから見えているのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、見ようとすれば俺には見えてしまうということだった。
誰かに話したことはない。話したところで、証明のしようがないし、する意味もない。
二十分。
準備運動としては、明らかに長すぎる。
それなのに、誰も疑っていない。
みんなまるで、思考を停止したように走り続ける。
俺だけが、その違和感に気づいていた。
「──なあ、あいつらのランニング長くね?」
隣の席、三浦がぼやく。ああ、俺もそう思う。
だが俺たちは関係の無い内側の人間。外で走っている当事者ではない。
一人の少女がふと足を止めた。
神代春夜。
学園最強の神力者。通称、『余白の神代』。
雪のように真っ白な髪に、真っ白な肌。
無感情なまでに変化に乏しい表情。
その姿も。
そして彼女の神力も。
彼女を『余白の神代』と呼ばせる理由だった。
学園、街で彼女を知らない者はいない。
彼女を知らない方が無理なのだ。
彼女が止まると、全員が止まる。
それは命令ではない。
そう「なっている」だけだ。
彼女は何かを見ている。
判断している。
ここからでは分からない領域だ。
だが一つだけ分かる。
──彼女は、感知できる側だ。
俺とは違うものが、彼女には見えている。
その瞬間だった。
グラウンドの一部が、わずかにずれた。
音はない。光もない。
ただ、そこにあるはずのものが噛み合わない。
パズルのピースを一つだけ、無理やり別の絵柄と入れ替えたような──そんな違和感。
一人の生徒が止まる。
倒れない。叫ばない。
ただ、止まった。
それが「伝染」するように広がっていく。
騒ぎが広がる。
教師が走る。
生徒が逃げる。
だが神代春夜だけは動かない。
一歩、前に出る。
それだけで空気が変わる。
混乱ではなく、「制御」へ。
──違う。
あいつは対処しているんじゃない。
すでに「原因」を見ている。
俺にはまだ届かない位置のものを。
これは事故じゃない。
神力による干渉。
誰かが意図して起こした事件。
──そう思った瞬間だった。
見られていた。
神代春夜と、目が合った。
──あってしまった。
息が止まる。
なぜ。俺はただの傍観者のはずだった。誰にも見えないものを、誰にも知られずに見ているだけの、それだけの存在のはずだった。
彼女の視線には、疑いも敵意もない。ただ──確認するような、値踏みするような色があった。
その氷のように冷たい目は、俺が隠してきた力を知っている目だった。




