第二章
恵子の父、民雄は鹿児島の片田舎の出身。民雄の妹である叔母は少年時代の民雄のことを、線が細く理論先行型で、お洒落でやさしかったと言う。鹿児島の古い価値観や田舎暮らしが嫌で都会に強い憧れがあった。彼は元予科練生で、神風特攻に行きそびれている。本土迎撃戦闘機に乗るはずであった。パイロットとしては優秀だったと言う。セピア色の写真がある。予科練の白い海軍服の民雄は凛とした美少年であった。彼は上官にずいぶん可愛がられた。海軍は物資に関しては不足する事がなかったから、上官の晩餐などもお燗番なるものがあって、そんな時部下である彼が失敬して飲んでも大目に見てもらえたそうである。
練習機の操縦に関しても器用だった民雄は、この通称「赤とんぼ」と呼ばれる練習機を上手く乗りこなした。山の地形を覚える才能もあり、霧の中に迷子になった仲間の機体を探し出し、山肌に沿って誘導し連れ帰ったり、脚が出なくなった練習機を片足着陸させたりした。叔母の話では、一度生家まで飛んできて翼を振って見せたことがあるそうだ。恵子が零戦には乗ったかと尋ねたら物資輸送で一度乗ったと言っていた。やはり名機で、練習機とは乗っている感じが全然違ったという。
その後予科練生の友は次々特攻に散ってゆき、自分は本土迎撃部隊に配属され、今日死ぬか明日死ぬかと、本土決戦の日を覚悟しながら結局一度も飛ぶことはなく、そのまま終戦を迎えた。本土決戦迎撃用の飛行機は、実際には二回分の燃料しかなく、敵爆撃機が上空を飛んでゆくのを空しく見送る日々が続いた。
兵舎には当時虱がいて、パイロットマフラーによくついた。その大きな虱を火にくべていたら戦争が終わってしまったと、民雄は機嫌がいい時恵子に語った。
民雄はあの当時の男性としてはかなりの長身痩軀であって、一八〇㎝近くあったにもかかわらず、がりがりに痩せていた。終戦後、民雄は思うことあって田舎を飛び出し、N大学の夜学に通った。満足に食べずコッペパン一つで一日をやり過ごすような不摂生をした毎日だったと言うので、その頃結核を罹患してしまったらしい。
恵子の記憶にないが、母、康代が言うには、民雄はみどり児の頃の恵子を随分可愛がった。カメラマンだったので娘の幼時の写真を撮るのが何よりも好きだったから、恵子の幼い頃の写真はアルバムに何冊分もたまっている。
その頃の民雄は酒飲みで最初は暴れもしなかったが、始終何かに腹を立てていた。国労の機関紙の記者兼カメラマンで、特に凝り性ではないけれど、外国のカメラやレーニン全集など給料何ヶ月分もする高価なものを、家族のことを顧みず買ってしまうような人であった。休みの日は機嫌が悪く朝からウィスキーや芋焼酎などの蒸留酒を飲んだ。腹を立てているのは恵子にも判ったけれど、一体何に腹を立てているのかはよく判らなかった。
仕事から帰れば眠くなるまで飲む。休みの日は朝から飲んでいる。飲まなければ飲まないで不機嫌だし、と言って飲めば飲むほど不機嫌に拍車がかかる。挙げ句、酔ったまま会社へ行く。そんな毎日が続くと、明け方目が醒めてもまた飲み、会社へ行かなければならない時間になっても酒がやめられない。結局仕事をさぼってしまう。結果上司に怒られる。反省はするものの、しばらくは我慢しても、また飲みたくなってくる。自分を取り囲んでいるものに対して、無性に腹が立ってしようがない。で、また浴びるように飲む。こうした荒廃し切った生活がエスカレートすると、当然肝臓や胃が悲鳴を上げ、入院。妻は夫の入院費及び手術費を捻出するために東奔西走するようなことになる。