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磯に香る君のそばに海神  作者: 悠鬼由宇
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最終楽章 Concerto for piano and orchestra No.2 c-moll Op.18

「ブハハハハハアー そ、それって、壁ドンじゃなくって、『玉子ドン』って奴か、バカじゃね、ギャハハハハ」

 京は笑い過ぎて涙が止まらない。悠人も腹を抱え、息をするのが苦痛な程笑っている。何とか呼吸を整えた悠人は、

「それで? その後どうなったの?」

「先ずは、テーブルを弁償。来週、ニトリに同行することになった。」

「玉子ドンだけに、ニトリってか? マジウケる、ブヒャヒャヒャヒャ」

「アハハハ」

「再来週は割れた食器類を補充の為、何とかと言う食器屋に行くことになった。」

「そっか。そっか。うんうん。」

「ところで、ユート。今後の情報伝達手段としてスマートフォンを調達することになったのだが… あの、その…」

「うんうん、わかったよ。明日にでも一緒に買いに行こうね!」

「おおお、それは助かる。そうだ、貴様もスマートフォンを海で失踪させたな、いい機会だから当方で用立ててやる。その代わりに、その、使い方…」

「あはは、ありがとう。スマホは要らないよ、でも使い方とか役に立つアプリとか教えてあげるよ。あと、話し方変だよ、めちゃ舞い上がってるよね?」

「ば、バカな。何を根拠にそのような虚言を…」

「だって。ほら、カーナビと違う道行っちゃったし。ねえ、そんなに嬉しかった?」

 信太は急ブレーキを踏み、路肩に車を寄せる。

「……」

 暗くて見えないが、顔を真っ赤にして俯く信太の背中を後部座席から京がバシバシ叩いている。

「さすがシンタ。男の中の男だな。やる時はやるじゃねえか。ギャハハハハ」

 何故か京のテンションはマックスで、でも目は潤んでいて頬には何本も涙の跡がくっきりと浮かんでいる。

「ねえ、病院の面会時間過ぎちゃうよ、早く明を迎えに行かないと」

 それでも何度も何度も頷くだけの信太であった。


「あの。なんでシンタさんわうすよごれているのですのん? ひとまえにでたらつうほうされるレベルかと。」

「ま、色々あんだよ、大人には。」

「ほう。いろいろ、ですか。それわじつにきょうみぶかいですね」

「それより。母ちゃん入院だなんて、ビックリだったな。」

「はい。パパンにはすっかりだまされまして。わたしおだますとはなかなかやりますねあのおとこも。」

「はは… でも手術上手くいって本当に良かったね。」

「きっとあきらならもっとうまくやっていたにちがいありませんの。」

 車内に軽い笑い声が溢れる。

「それにしても明の親父。変なこと言ってたよな」

 京が首を傾げる。

「俺の父親が、湘南の狂犬? 何だそれ。誰と勘違いしてんだか。」

 悠人と京は口をパクパクさせながら、互いにサインを交わす。いいから黙っとこう。真実が必ずしも正義には有らず、と。

 色々な幸せと誤解に満ち溢れた車は、途中でファミレスに寄りつつ(店員と客に白い目で見られつつ)、何とかその日のうちに恵比須に戻ることが出来たのだった。


 翌朝、マリアの容態を報告に鳥山家に悠人と京、そして明が出向くと、

「ああ、全部空也から聞いたよ。あのおん…マリアさんが私にお詫びしたいって言ってる事も。」

「そっか。でだ。どーするよ、明のこと。」

「どうもこうも… この子が居たいって言うなら、いいんじゃない。ここは良いところだし。」

 明の顔がパッと明るくなり、

「ほんとですか、ここにいてもいいんですか?」

「いいとも。婆ちゃんは大歓迎さ。でもあんた、ママと離れて寂しくないのかい?」

「んーーー、ママンわいそがしくてあさはやくでてよるおそくかえるので、もともとあまりあえません。それにパパンわいがいにうるさくてうざいので、できればこちらにいたいのですが」

 琴音は大爆笑し、

「ま、マリアさんが退院して、ここに来て相談してからかね。ところであんた、何歳なんだい?」

「ごさいですのん。しがつからしょうがっこうなんですのん。」

「あれま。だったら向こうの恵比須小学校だね。」

「そうですか。でわじゅけんべんきょうおしなければ…」

「公立だから受験なんてないんだよ。」

「あれま。それはらくちんですのん。」

「その辺の手続きもあるからね、退院したらなるたけ早くここに来る様に言わないとね」

 心なしか琴音は嬉しくて仕方ない様子だ。それを見つつ、悠人は

「それで、今後明ちゃんは鳥山家で?」

 琴音は京と悠人に改まり、

「今まで面倒かけて申し訳ない。この通り。御免なさい。」

 そう言って両手をつき頭を下げる。

「今日から、この子の面倒は私が見るよ。今まで本当にありがとう。」

 まあ、それが当然と言えば当然なのだが。

 鳥山家からの帰り道、悠人が寂しげに溜息をつくと、京も

「ま、仕方ねーか。それに、しょっちゅう泊まりにくりゃいいしな。はーー」

 悠人以上に寂しそうである。悠人は京の肩にそっと手を乗せる。


 その夜。鳥山家は引っ越して来た明、スマホを手に入れた信太らを中心に大騒ぎである。

「だから、パスワード入れ間違えるなって言ってるじゃない。え? 指が太過ぎて入力しづらい? 知らないわよそんなこと!」

 琴音のI Tスキルは悠人を遥かに凌駕しているので、琴音に任せてしまう悠人である。

「そうそう。そこに陽菜のI D入れるの。あ、電話番号でもいいのよ、あなた知ってる? え、丸暗記してるの? うわ、キモ」

 こんなに陽気で楽しそうな琴音は初めてである。どうか変な動画は明に見せないでもらいたいものだ、悠人は親心を胸に秘めそう願った。

 琴音のご馳走を平ると明は途端眠そうな表情になり、そして信太も無事陽菜とのLINE関係を成立させ、場はお開きとなる。

「あー、今夜から明はいないのかー、寂しくなるなあ」

「そうだな、一人で明は寝られるかなあ?」

「琴ばあと一緒に寝るだろ。アイツ案外気がちいせいから一人じゃ寝れねーかも」

「あは、それな。さてと。俺たちもそろそろ寝るか。」

「だね。」

 茶の間は静寂に包まれる。そう言えば二人きりで寝るのは何日ぶりだろうか。川の字がデフォルトと慣れ切っていた二人は、いざ二人で布団に入るとどうも落ち着かない。

「早く寝ろよ、明日は漁協だよ、四時には起きるからね」

「わかってるよ。お前こそ早く寝ろよ。」

 再び静寂。古い壁掛け時計の秒を刻む音がやけに耳に煩い。互いの寝返りによる衣擦れの音が妙に部屋に響く。

 こんな時に度胸が座っているのは、古今東西女の方である。

「あー、寝れねー。ユート、そっち行っていい? 腕枕、ヨロ!」

「お、おお。い、いいぞ」

 久しぶりの京の体臭に、久しぶりに込み上げてくるものがある。それを頭から拭い去りつつ悠人は目をキツく瞑る。

「そー言えばさ。前、ユート言ってたじゃん」

「へ? なんて?」

「アタシのこと、好きだって」

 悠人はガバッと起き上がり、

「んな事、言ってねえし!」

 京も負けじと起き上がり、

「言ったもん。」

「言ってない!」

「お前のこと、嫌いじゃないって、言ったもん」

 悠人は首を傾げ、

「ああ、それは言った。」

「ほら。言ったじゃん。」

「いやいや、それ、嫌いじゃない、って言っただけだし」

「嫌いじゃないってことは、好きだってことでしゃう」

 あ、噛んだ。悠人はフッと笑いながら布団に横たわり、

「さ、ほれ。腕枕。早く寝ろよ」

 京は素直に腕枕に寝転び、

「言ったもん。ユート、アタシのこと好きって、言ったもん」

「はいはい、言った言った。もう寝るぞ」

「ほら、言ったし やっぱ 言った じゃ ん 」

 京の寝息が久しぶりに耳に心地良い悠人であった。


     *     *     *     *     *     *


 二週間が過ぎた。明は鳥山家にすっかり馴染み、鶏の世話や家事の手伝いなどを楽しそうにこなしている様子だ。

 琴音の元に長男の空也経由で、明の母親である鳥山マリアが退院したので、恵比須に挨拶に行きたい旨が届き、今日がその日である。

 春の息吹がまだ感じられない木々に囲まれた砂利道を真っ白なポルシェが徐行運転で上がって来た時には、悠人と京の目は大きく開かれた、ああ、本当だったんだ、明の話は、と。

「オハハサマ、ソノセツハシツレイナコトヲモウシマシタコトヲオユルシクダサイ。鳥山マリアデス、イゴオミシリオキヲ」

「よく来たね、身体はもう大丈夫なのかい?」

「オカゲサマデツツガナクスゴセソウデス、コレモチュウサンノケンシンノオカゲデスノ」

「あの子が、ねえ。で、あの子は?」

「アワスカオガナイト、ソノヘンヲプラプラシテイマスガヨビマショウカ?」

「ふん。そのうちしれっとして出てくんでしょ。さ、お入りなさい、寒さは身体に毒だよ」

「アリガトゴザイマス、サッソクデスガアキラノケンナノデスガー」

 何となく気が合いそうな二人にホッとしつつ、悠人と京は宙を探しに村を出ることにした。

 そんな宙は入り口から一〇〇歩も離れない見晴らしの良い丘にポツネンと佇み、電子タバコを吸っていた。

「よっ その節はわざわざサンキューな。ええと、名前何だっけ?」

「京」

「そーそー、京ちゃんな。それと、神様だっけ?」

「綿積悠人です」

 宙は一瞬硬直し、それから爆笑しながら、

「ああ、こりゃ本物だわ。ワタツミ君ね、ギャハハハハ」

 ひとしきり笑うと、宙はフーッと溜息をつき、

「しっかし。君も明も。一体どーしてこんなど田舎がいいんだい? 俺にはサッパリわかんねーや。京ちゃんも、本当は東京とか横浜とか、行きてえだろ?」

「全然。特に横浜には死んでも行かねーし。」

「へ? なんで?」

「あのクソ女が居るらしいから」

「クソ女って… ああ、美鈴ちゃんな。」

 宙は一人納得して頷きながら、

「あの子はメチャくそ可愛かったよなあ、こんなど田舎には勿体ねえ位に。どんだけ善太に惚れ込んでたんだろうなー どんだけーってか。」

「んなんじゃねえよ! あのクソ女は、ウチにあった金が欲しかったんだよっ」

 宙はまるで豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で、

「へ? え? なに?」

「だから。あの女はウチにあった小金が目的でここに来て、父ちゃん死んで金が入らなくなったから、出てったんだよ!」

 宙はタバコを吸い終え、吸い殻をポイっと放り投げると、

「それ、誰が言ってんだ?」

「誰って… 知らねえけど」

「お前さ、実の母親なんだぜ。あんまテキトーな事信じてんじゃねえぞ。お前んとこの小金なんてたかが知れてんだろ、そんなのが目的でこんなとこくる女なんて居るわけねーだろ、バーカ。」

「ウッセーな、クソジジイ てめーが何知ってるっつーんだよ! 死ねやボケが!」

 そう怒鳴り散らすと京は海の方へ駆けて行ってしまった。悠人は宙の言ったことが気になり、

「あの、さっき言ってた、善太に惚れ込んでいた、って言うのは本当なんですか?」

 宙はジロリと悠人を一瞥し、目の合図で隣に座るよう催した。


 俺が家を出たのは十八の時だから、そん時は善太はまだ十やそこらだったか。威勢のいいガキで根は正直で真っ直ぐで。あの娘そっくりだったよ。俺は家を出た後横浜を転々としてな、所謂キャバクラの店長になった頃、三浦の先っちょの方に化け物みてえに喧嘩が強え奴が居るって噂話聞いてな。よくよく聞いてみるとどうやら善太の事らしくてそん時は大笑いさ。それから暫くして、善太がひょっこり俺の店に遊びに来てな。まあそれはそれは見違えてさ、図体もバカデカくなって、凄え貫禄ついて。何でもハマの族とやり合って、その手打ちにわざわざこっちまで来たんだとか。うわ、宙さんじゃないですか、久しぶり! って満面の笑顔でな。それからちょくちょく店に来る様になってな。俺も三浦一、いや湘南一の貫禄の男が慕ってくるのが嬉しくてよ、色々サービスしてやったんだわ。そんなかでたまたま新入りの女の子をアイツに付けてやったんだわ、それが美鈴ちゃんな。思い出せば思い出すほど、アホみてーに綺麗な子だったよ。うん。


 宙は遠くを見ながら電子タバコを吸い出す。僅かな紫煙が冬の空にあっという間に吸い込まれ、瞬く間に消えていく。


 高校出て大学に行きたかったんだけど金が無いから働きながら勉強するって言ってたな。でも初めてついた客が善太でな。そっからは善太も美鈴ちゃん一筋、美鈴ちゃんも善太以外の客と同伴した事ねえとかで。半年もしたらよ、店辞めますって。善太と一緒になってあの村で住みますって。なかなか出来ねえよな、自分の夢諦めて男のとこに転がり込むなんてよ、それもこんなクソど田舎によ。それから風の噂でガキが出来たって聞いたんだけど、それがあの娘だったんだな、うわ年の流れって早えな… 俺も歳食うわけだ、こないだしょんべんしてたらよ、チン毛に白髪入ってやがんの、ビビったわー。え? なんの話だよって? ああ悪い悪い、美鈴ちゃんの話な。そんで三、四年前かなあ、善太が海で死んだって聞いてな。何で神様はマジでいい奴から天国行かしちまうんだよって、泣きながら飲んだわー、あ、その頃はマリアと一緒になって明も生まれてた頃な、もう店辞めて立派な専業主夫、っつうかヒモやってたわ。な、よく言えば専業主夫。言葉って言いようだよな、マジで。明の行ってた幼稚園でもよ、専業主夫ですって言うとよ、ウケがいいんだわ。え? そんな話じゃなくて? あはは、悪い悪い、何せ大人の男と話すのあんまねえからさ、最近。


 思っていたよりもちゃんとしているのでは? と悠人は思ってしまう程、理路整然とした語りである、脱線が少々面倒くさいのだが。


 善太が死んで、カミさんが家出したって話、ハマでも有名なんだぜ。善太と若い頃にやり合ってた奴らが今はハマの飲み屋、関内の方な、結構仕切っててよ。葬式に出た奴、両手じゃ足りなかったらしいぜ。そいつらが言うにはよ、カミさん、美鈴ちゃんはあそこに居ると善太を思い出しちゃうから義理父と娘置いてハマに戻って来たんだとさ。俺は最初はそんなの嘘っぱちで若くてイケメンの彼氏んとこに転がり込んでんじゃねーかと思ってたんだわ。だけど関内の店で働き始めてよ、その金を義理父に送金してんだって聞いて腰抜かしたわ。漁船のローンが義理父だけじゃ払えなくってな、その分を水商売で働いて送ってたんだってよ。でもあの美貌じゃん、毎日の様に男が言い寄ってくんだと。だけどよ、死んだ夫以外の男は男じゃ無いってキッパリ言うんだとさ。今時信じらんねえ女だろ? え? 信じられないって? そんならテメエの目で確かめてこいや。えーと、店の名前、名前っと… えーと… ああ、あったあった。これオメーのスマホに送ってやるから、お前の… ハア? スマホその辺に沈んでるって? バカじゃね、ウケるわー。神様、面白いなお前。ったく仕方ねえから、このタバコの箱の裏に、こうして、よっと。ほれ、店の名前と電話番号な。無くすなよ、ってか、覚えろ、そん位。え?この話は京にはするな? しねえよ、なんか俺、あの子に嫌われてるっぽいし。で、もうヤったのか? どうよJ Kの味h… …嘘だろ… ふた月一緒住んでて、まだ、何も、ヤって無いだと? お前何か病気持ちなのか? おい、どこ行くんだよ、ちょっと待てよ、ちょ、待てよ!


 悠人は村に戻りながら鳥肌が立っている。もしもあの男の言うことが事実であるならば、京は途轍もない誤解を持ちながら生きている事になるのだから。母の献身が事実であるならば、京はどれ程救われるのだろうか。

 実の母を憎みながら生きる事は、割と母親と仲良しの悠人には全く想像のつかない事である。どんなに苦しくどんなに辛い事だろうか。自分を産んでくれた母親を愛せない事が、どれ程心を壊していくのだろうか。

 電子タバコ、iQOSと書いてあるその裏に秘められた事実に、悠人は今後どうしたものか深く考えざるを得なくなっていた。


     *     *     *     *     *     *


「どーしたん、カミサマ。今日はやけに元気ねーじゃん」

 漁協の若手、小宮隼汰の漁船に揺られながら悠人は釣り糸を垂れつつ、ずっと京の母親のことを考えていた。

「って、おい、また引いてんぞ! ったくどうしてお前の餌にだけこうも… 巻け、巻けってもっと、そうだそうだ、よしもうちょっとー、うわ、デカ! 何じゃこれ!」

 たも網で隼汰が掬い上げた真鯛は、有に五十センチはあろうかという大物であった。

「やっぱ、カミサマだわお前… マジで海の神様に愛されてるわ…」

 二十歳を過ぎたばかりの隼汰に完全ダチ扱いの二十二歳の悠人であった。

「なあカミサマ、これもさ、俺が釣ったことにしてくんねーかな、な、頼むわ、何でも言うこと聞くからよ!」

「何でも、だと?」

 急に悠人は立ち上がり、船のバランスが傾く。

「っぶねーな、急に立ち上がんなよ。え? 何でもって、その、あれはあかんよ、尻貸せとか、咥えろとか、」

「バカかお前、俺がそんな事する訳…」

「だって、カミサマさ、ホモ説出てるし」

「はあ? なんだって?」

「だって、あの京とずっと住んでんのにマジで手出さないとか、男なら有り得んし。だから、実は男好き説な。どーなんだよ、実は俺の事、惚れてる系? うわ、ごめん、俺、女だけだからさ」

 悠人は呆れた顔で苦笑いし、ハッとなる。そうだ、俺一人で行くよりも…

「そうじゃねえよ。それより隼汰さ、お前女の子のいる店とかよく行くのか?」

「お? おお? おおお? なになになに? カミサマ、ちょっと興味あんの? ええ?」

「どの辺りの店に行くんだ?」

「やっぱ横須賀とかかな。」

「ふーん、横須賀ねえ。横浜とかは?」

「行かね。遠いし、高いし。」

「じゃあさ、今度一緒に行かない? 横浜の、関内辺りにさ」

「マジで? それチョーマジで? 行くよ、行っちゃうよ! 一緒行っちゃうよ!」

「そうか、それは助かる。いつ行ける?」

「お、ソッコー型なんかいカミサマは! えっと、日曜は漁に出ねえから、土曜の夜どうよ?」

「わかった。明後日の土曜の夜、よろしくな」

「こちらこそっ っシャー、気合い入りまくりだぜい、よーしカミサマ、あとこんなの二、三枚上げちゃってくれや、飲み代出そうぜ!」

 その後悠人は五十センチ越えを連発し、漁協で買い取って貰った金額は三万円を越したらしい。


 下準備は完了した。

 後は、横浜に京の母親の美鈴に会いに行くことを京に告げるか否か、である。

 京の母親への憎悪は凄まじく、もし正直に美鈴に会いに行くと話せば間違いなく激怒するだろう。家から出て行けと言われるかも知れない。

 だが。鳥山宙の話していた事が事実であるなら、早急に京はそれを知るべきであり、それによって京の母への思いは大きく変わるであろう。

 横浜には、行く。行って美鈴の話を聞く。それは決定事項だ。ではそれを京に告げるか否か。悠人は悩みに悩んだが、結局は実体を暈して告げる事にする。

「明日、夕飯の後、隼汰と横浜に行ってくる。」

「へ? 隼汰と? 何しに?」

 こう切り出せば、こう返ってくるだろう。想定内である。

「男同士で飲みに行ってくるよ」

「ふーん。男同士ね。」

「そう。隼汰と、男同士で。」

「ふーん。」

 まあ怪しまれるだろう。今までこんなことは一度も無かったのだから。

「アタシも行こっかなー」

 ……これも、まあ、想定内だ。

「未成年はダメだろう」

「えー、つまんなーい。お酒飲まないなら、いいじゃん別に」

 ……結構食い付いてくるな。

「男同士で行く飲み屋だぞ。いわゆるキャバクラ、とかだから。」

「…ユート、そーゆーとこ行くんだ…」

「まあ、東京いた時も、バイト先の店長とかと、ボチボチな。」

「ふーん。アホな女と酒飲んで何が楽しいの?」

 ……意外にしつこいな。

「そりゃあ、たまには可愛い女子にチヤホヤされて飲むのも、悪く無いだろう。」

「ふーん。で、その後セックスするんだ?」

「しねーよ。出来ねーよ。そんな金ねーよ」

「じゃあ、お金あったら、するんだ?」

 ……うわ…何このしつこさ。作戦を間違えたのかも知れない。

「あのな。セックスっていうのは、好きな相手とするから楽しいんだ。一度会っただけの相手としたって面白くないし楽しくないんだよ。」

 初めての嘘。相手が誰であろうと、ちょっとは興奮するしドキドキするしワクワクするものだ。まさに蟻の一穴、ここから悠人の論理は崩壊の一途を辿っていくー

「ふーん。じゃあソープとかってなんであんの?」

「そ、それは… まあ男には好きじゃなくてもセックスしたい奴もいるからだろ?」

「ユートはソープ行った事ないの?」

「…忘れた」

「忘れる訳ないじゃん。ふーん。あるんだ、行ったこと。」

「あるよ。俺だって成人してんだから、一回くらいあるよ!」

「でもさっき好きでない女とはセックスしないって、言った。」

「それは、そうだよ。」

「でも、ソープも行くんだ」

「それは、その、付き合いで仕方なく…」

「付き合いなら、好きでもない女とセックスするんだ?」

 悠人は今日初めて既婚男性の苦悩の深淵に触れた気がした。もし最初に「隼汰のバイク仲間の飲み会に参加する」とか「大学の仲間の家飲みに隼汰を誘った」などと言っていればこうは拗れなかっただろう。

 だが生真面目な悠人は嘘がつけない。

 その後、京の執拗な追求は翌日横浜へ出発するまで延々と続いたのであった。


 悠人が黙って家を出て行った後。京はかつて感じた事のない焦燥感に身悶えしている。何故気になるのだろう。悠人が隼汰と飲みに行くことがどうしてこんなに気になるのだろう。

 夕食の後片付けを終え、京は水田の家の玄関をくぐる。

「あら。久しぶりね、こんな時間に来るなんて。あれ、神様は?」

「聞いてよカオちゃん! アイツ、隼汰と一緒に横浜に飲みに行ったんだよ! それもキャバクラ。貧乏のくせして、マジムカつく。」

「あらあら。ご機嫌斜めじゃない。まあ、それも仕方ないか。」

「仕方ない? どゆこと?」

「大好きな彼氏がキャバクラ行ったら、誰だってキレるわよって話。」

「か、彼えし? な、なんぞねそれ!」

 香はプッと吹き出し、

「全く。まだちゃんとしてないんだ。案外、意気地ない男ね、神様は。」

「へ? は?」

 香は京に向き直り、

「でもね。京ちゃんももうすぐ十八。あなたもそろそろちゃんとしなくちゃダメな年頃よ。」

「ちゃんと、するって、何?」

「女として。これから悠人くんとどう向き合っていくか、よ。ねえ京ちゃん。悠人くんの事、好き?」

 二秒で京の顔は赤くなり、

「べ、べちゅに。」

「でも、もう二ヶ月一緒に暮らしてるじゃない。しかも寝る時は一緒でしょ?」

「そ、そうぢゃけど…」

「ずっと一緒にご飯食べて一緒にお仕事して。」

「そ、そりぇがなにか?」

「好きじゃないと出来ないよ、そんなこと。違うかな?」

 京は俯き硬直する。

「それは、アイツが就活失敗して、かわいそうだったから、それにここが気に入ったからー」

 香はフッと鼻笑いし、

「そう。じゃあさ、ちょっと想像してみて。もし悠人くんが横浜からの帰り道で交通事故で死んじゃったら?」

 京は目を閉じ、悠人の訃報をイメージした。イメージした瞬間、余りの悲しみで気を失った。


     *     *     *     *     *     *


「いやー、参った参った。あいつがあんなにしつこいとは。別に付き合っている訳でもないのに、何であんなにしつこいんだろ。」

 京急線に乗りながら悠人は隼汰に愚痴る。

「そりゃあ、カミサマが京に愛されてるからっしょ」

「ハア? そんな訳ないだろ。アイツが俺のこと好きな訳ないだろ」

「はあ? 好きでもない奴と同棲すっか? しねーべ?」

 悠人は軽いショックを受け、隼汰をマジマジと眺める。

「アイツはまだガキだから分かってねーだけで。自分がどんだけカミサマに惚れてるか、分かってねーのアイツだけっしょ。へっ」

 隼汰はプイッと車窓に顔を向け不貞腐れる。

「いや、あれは男への愛とかじゃないぞ。単に困ってる奴が見過ごせないだけで、」

「マジでそー思ってんの?」

「それに、一人暮らしが寂しかったから、じゃないのか?」

「ったく。これだから学士様っつーのは使えねーわ。死ね。一度、溺れて死ね! 何なら俺が殺す!」

「死にたくねえし。殺されたくねーし。」

「で。カミサマは、ユートはアイツのこと、どう思ってんの?」

「どうって……」

 可愛い。今まで見た中で、ダントツに可愛い。

 口は悪いが、裏表ない性格が好ましい。一緒に居てとても楽である(昨夜を除く)。

 基本他人に優しい。特に困った人間を見逃す事ができない。自分にはないこの性質は、尊敬に値する。

 家事能力が半端ない。掃除、洗濯、炊事などの全ての家事能力が自分の母親を凌駕している様に思える。比較対象が実の母親だけなのが泣けてくる話なのだが。

 物欲が無い。これは自分と大いに共鳴する部分である。スマホなぞ無ければ無いで構わない。就活に必要だから使っていただけで、今の生活には全く不要だ。京に至っては最低限の家財道具すら無くても問題なく生活している。大いに共感している所である。

「いやいや、そーゆー事じゃなくってさ。もっと簡単な話さ。京のこと、好きかどうかって話だってば。」

 それは……

「ハーー。アンタって、分かりやすいくせに面倒臭い男だな。よし。俺が教えてやるよ、いいか、アンタは京に惚れてんだよ。」

 二歳も年下の男に超高層視点で言い下され、悠人は目を丸くする。

「今夜だって、アレだろ、わざわざハマのキャバクラ付き合えって言うのも、京のお袋さんの店に行くんだろ?」

 驚いた。そして悠人は隼汰を凝視した。高校中退で元暴走族だった男が、これ程深く人間関係を俯瞰していたとは。

「惚れてもない女の為に、わざわざこんな面倒くせえ事する人間じゃねーよ、アンタは。」

 悠人は思わず下を向き目を瞑る。その通りかも知れない。これが京の話でなければ、わざわざ隼汰を誘って横浜などに飲みに行ったりはしない、絶対に。

「逆に言えばさ。そんくらいアイツに惚れてんだって、アンタ。」

 悠人は真っ暗な車窓に目を向け、隼汰の言葉を脳裏で何度も繰り返す。俺は、京に惚れている。京に、惚れている。

「ちょっと想像してみ。もし明日の朝帰った時、京が海で溺れ死んでたら、アンタどうよ?」

生真面目な悠人は隼汰に頷き、帰りの電車から家に戻るまでを想像し始める。

 二人の電車が金沢文庫を過ぎた頃に京の急死を知り、悠人は息が出来なくなった。上大岡を過ぎた頃に京の葬式に参列し涙が止まらなくなった。日ノ出町を過ぎた頃に京の墓前でトリカブトの根を齧っていた…


「おい、着いたぞ! 生きろ、生き返れ! カミサマ、おいユート!」

 隼汰の必死の介護の末、悠人は何とか現実世界に戻ることが出来た、そして誓う。二度とこんな想像はしない、と。

「ったく。無限列車かっつーの、さ、行くぞっ 夜のハマ、サイコー イエーい!」

 一人ハイテンションな隼汰に引っ張られ、駅を出てタクシーに乗る。iQOSに書かれた店名の住所は隼汰が調べておいてくれ、それを運転手に伝えると十五分ほどで繁華街に到着する。

「おおお、やっぱ横須賀とはチゲーわ。凄えなあ、テンション上がりんぐー」

 逆に悠人は眩いばかりのネオン(L E D)に目を顰める。元々キャバクラなどに積極的に行きたい方ではなかったが、こうして繁華街を眺めているとこの時間なら真っ暗な京の家が無性に恋しくなってくる。

「えーと、エカテリーナ、エカテリーナっと。あった、アレじゃね… って、おい。ユート…」

 悠人は隼汰の差した指先を見て、隼汰同様に動揺する。

「ちょ、敷居高くねえか、俺たち…」

「かも… でも、行かなきゃ…」

「だな、よし、行くか。俺たちは客だ、行くっきゃねえべ!」

 それ程の高級店だったのだ。キャバクラと言うよりクラブに近い店構えに二人は勇気を振り絞り、ドア前の黒服に頭をペコペコ下げるのだった。


 店内はビックリするほど暑かった。理由はすぐに判明する、案内の女性はキャミソール姿なのだ。眩いシャンデリアが高い天井から垂れ下がり、前衛書道の作品が店の雰囲気によく合っている。案内されたテーブルも豪華な造りであり、見回すと二人のようなザ・田舎から来ました、様な客は見当たらない。店も客も洗練されたハイソサエティーな空間、なのである。

「お客様、ご指名は?」

 悠人は口がカラカラに乾いたまま、

「美鈴さん、はいらっしゃいますか?」

 黒服はニッコリと笑い、

「ママですね、少々お待ちくださいませ」

 そう言って去って行く。

 ママ? それって…?

「凄えよ… この店の、ママなのかよ、京の母ちゃん…」

 隼汰は先程までのハイテンションはすっかりと影を潜め、田舎者らしく大人しく周りをキョロキョロ見回している。

 悠人も負けじと辺りを見回す。テーブルについている子達のなんと綺麗なこと! 空いた口が塞がらないとはこの事か、バ先仲間と行っていた上野や新宿のキャバクラとはレベルが違い過ぎる。恐るべし横浜、流石文明開花の先駆者、などと妄想しているとー

「いらっしゃいませ、クラブ エカテリーナへようこそ。ママの美鈴です。初めまして。」

 現れたのは、この世の女性とは思えぬ妖艶さを身に纏った、絶世の美女であった。


「折角いらっしゃってくださったのですけど、お店は十一時半までですの。それでもよろしくて?」

 時計を見ると既に十一時を回っていた。悠人は頷くと、

「それと、彼方のお客様にも指名されていますの、すぐに失礼しますけどよろしくて?」

 二人は頷き合う。

「なんか慌ただしくてごめんなさいね、いつもは土曜の夜はもう少し空いているんですけれど、今夜はどうしちゃったのかしら」

 首を捻る様子が艶かしく、二人はすっかりのぼせ上がってしまう。

「お二人はお友達? どちらからいらしたの?」

 隼汰が悠人を肘で突く。悠人は大きく息を吐き、頷きながら、

「俺、鳥山宙さんから聞いて、来たんです。」

 美鈴は首を傾げ、目を宙に彷徨わせながら、

「とりやまさん…?」

「はい。恵比須の鳥山琴音さんの息子の、鳥山宙さんです。」

「とりやま… って、……まさか…」

 鈴音は絶句し目を大きく見開く。そして二人を交互に眺め、そして声を潜めて

「キミら、誰?」

「えっと、俺は、あの、その、漁協で働いてる、小宮隼汰っす…」

「小宮…って、ケン坊の息子?」

「あ、ハイ、小宮健太郎の息子っす!」

「マジかよ… で、そっちは?」

 すっかり口調も雰囲気も変わり、目を細めて悠人を睨みつける美鈴に、

「俺は、今、京と暮らしている、綿積悠人です。」

 美鈴は氷を入れるために持っていたグラスを落とし、店内にグラスの割れる音が響き渡る。

 即座に黒服が失礼いたしました、と口にしながら割れたグラスを片付ける。その様子を呆然と眺めながら、

「アンタら、この後時間ある?」

 二人は顔を見合わせた後、深く頷く。

「十二時半。野毛の、ニコライってバーに来なさい。」

 美鈴はそれだけ言うと、ニッコリと笑いながら立ち上がり、元のテーブルの客の方へゆったりと歩いて行った。


     *     *     *     *     *     *


 悠人はおろか隼汰も野毛を知らなく、隼汰のスマホで調べると横浜スタジアムの東に位置する関内からは、大岡川を挟んで北西にある隣町であった。

 十二時近くになっても辺りの人の多さに二人は驚き、川を渡り野毛に入るとそのノスタルジックな街並みに驚愕するのであった。

「なんか、昭和だな、この辺は」

「それな。って、昭和の街並みって知らねえけど、さ。」

「小さい飲み屋やスナックがあんなに… 古き良き街並みだね。」

「ああ。横須賀にちょっと似てるよ。いいな、この辺。それにしても… さっきの店、ちょっと座って、一杯飲んで二人で五万円って… 恐るべし横浜だな…」

「ごめん隼汰。付き合わせた上に半分払ってもらっちゃって…」

「いいって。その代わりにさ、今度は金アジよろしくな!」

 そうウインクする隼汰に一瞬ドキッとしてしまい、自分がわからなくなりかける悠人である。

 指定した時間まで深夜の野毛の街並みを散策し、二人は時間丁度にバー ニコライの扉をくぐった。


 年季の入った木製の扉を開けると、中からジャズの大音量が流れてくる。店内は暗い照明に包まれ、壁にはレコードのジャケットが額縁に入って飾られていたり、古びたバイオリンがひっそりと飾られている。

 席はカウンターしかなく、カップルが一組、あとは一人客がカウンターに連なっている。二人は一番奥の席にオドオドしながら座る。

 二人は生ビールを注文し、店内をキョロキョロ見回していると、ドアがゆっくりと開き美鈴らしき女性と若い女の子がこちらに真っ直ぐ歩いてくる。

「お待たせ。待った?」

 二人は首を振る。時計を見ると十二時四十五分であったが。

「よし、ほれ健坊の息子、お前はこっち座ってこの子の相手してな。」

 ハイっと返事した隼汰は、美鈴の言われるがままに席を移動し、女の子の横にちょこんと座る。

「どもー、美帆でーす。えっと何君だっけ?」

「しゅ、隼汰っす。小宮隼汰っす。」

「隼汰くん。隼ちゃんだね。えーなにやってる人?」

「ぎょ、漁業を営んでおりますっ」

「わー、みほお魚大好きだよお、お刺身とかチョー好き!」

「マジすか、俺刺身捌くのプロっすよ」

「ウソー、チョー凄いじゃん、それでさ、隼ちゃんってー」

 あっという間にふたりの世界に没入したようだ。

「さてと。じっくり話を聞こうかね。ユートくん。」

 カウンターの最奥にさながら監禁された気分の悠人は、怯えながら頷くのであった。


「マスター。いつもの二杯と、いつものかけて」

 無精髭の年配のマスターがニッコリと頷く。しばらくして丸く削られた氷に浸されたグラスが二つ、二人の目の前に置かれる。

 かかっていたジャズが終わり、レコード特有のジージーした音の後に、ピアノの和音連打がさながら鐘の音のように店内に反響する。

「ああ、これ? ラフマニノフ。知ってる? 知らないか。」

 そう言えば浅田真央かなんかのスケートの曲だったような…

「そうそう、それそれ。このラフマニノフの曲って弾くのが超絶難しいんだって。こう、手をいっぱいに広げて、ダダーンって。手の大きな人じゃないと弾けないの。」

 美鈴がグラスの酒を一口含み、

「あの人も、手の大きな人だったわ。」

 それから暫く二人はピアノ協奏曲に身を委ねていた。クラシック音楽を殆ど知らない悠人は初めてラフマニノフをじっくりと聞き、その力強い旋律や緩やかで甘いメロディーにすっかり心を奪われていた。

 曲が第三楽章に入った頃。

「で。キミは誰だっけ?」

 不意に美鈴が呟く。音に揺蕩われていた悠人はハッと現実に戻り、美鈴に向き直りあの日のことからゆっくりと話し始める。

 第三楽章が終わり、曲はジャズに変わったことにも気付かず悠人は語り続ける。それを美鈴はグラスを空けながら聞き続ける。

 四杯目のグラスが空いた頃、話は鳥山宙との会話に辿り着く。

「ったく宙のオヤジ… 余計なこと言いやがって。」

 美鈴が大きく溜息をつく。

「それでわざわざここまで来たって訳か。ホントあんた神様だね。赤の他人の為にここまでするなんてさ。それで? あんた京のこと好きなの? そりゃそっか、好きじゃなければここまでしないか。ね?」

 悠人は美鈴の目をしっかりと見据え、やがて大きくゆっくりと、頷いた。


 そっか。あの子もそんな年頃になったんだ。私も歳とるはずだわ。もう身体中のあちこち白髪だらけ。あ、今エッチな事考えたでしょ? うそうそ、冗談。そっか、あの子もうすぐ一八か。私があの人と出会ったのも一八。あの頃ね、ウチの両親が離婚して。父親は女作って、母親も男作って。信じられる? 私は一人取り残されちゃった訳。お金渡されてこれで何とかやっていきなさいって。何それ信じらんない。でも現実は待ってくれなくて、住む家探して何とか自活始めたらすってんてんよ。大学に行きたかったんだけど、そんなお金も全然無かったし。仕方なく働き始めたわ。生きて行く為に、微かな自分の夢を追い続ける為に。


 悠人は喉がカラカラに乾いてきて、グラスの酒を一気に呷る。するとマスターが何も言わずにお代わりを継ぎ足してくれる。


 不幸中の幸い? 周囲に良い人ばかりだったからやっていけたの。水商売を始めたあのお店もそう。宙ちゃんが店長だったのがそのお店。水商売なんて初めての私に宙ちゃんが手取り足取り色々教えてくれて。勉強したいから毎日の出勤は無理って言ったら、早く来てここで勉強しろだって。はは、流石にそれはしなかったけど、冷え切った家庭で育った私には暖かな所だったわ。仕事始めて何ヶ月目だったかな、忘れもしない大雨の日。あの人が四人連れで店にやって来たの。え?初めてのお客だった? 違う違う。もう宙ちゃんったらボケ入って来たんじゃない。すっかり夜の女になっていた頃よ。たまたま宙ちゃんとあの人が同郷だったとかでえらく懐かしがり合って、宙ちゃんが私にそのテーブルにずっと着くようにセットしたの。そうしたらその四人がお酒強い強い、あっという間にボトル一本空けちゃって、二本目も瞬く間に空いちゃって。でも全然酔っ払わなくて。なんでも暴走族同士の争いの手打ちみたいな感じだったの、最初は畏まってたのに途中から意気投合して、盛り上がってきて。私はそう言う世界から離れて育って来たから何か話が新鮮で面白くて可笑しくて。気付いたら一緒になって大酒飲んで暴れてたわ。


 鳥山宙から聞いていた話と若干齟齬があったが、大枠は合っていたので悠人は美鈴に先を促した。その際隼汰はどうしているかと美鈴の後ろを覗くと、二人は居なくなっていた。


 あー、あの子なら平気。ちょっと苦労して生きて来たけど間違った子じゃないから。ホント男運の悪い子でねえ、あの健坊の息子なら大丈夫でしょ? 知らんけど。でも懐かしいな、あの日私もあの人をお持ち帰りしたの。仕事始めてからそんな事初めて。ま、今思うとそれ程キャバクラに来る男に碌な男がいなかったってことかな。あの人はねえ、素敵だった。最高だった。女として生まれてきて、初めて神様に感謝したよ。神様ったってアンタにじゃないよ。え面倒臭い? ごめんごめん… それからあの人は毎週一人で遊びに来てくれるようになって。あんまりお金ないから店に来なくていいって言っても、お前に指名料入るだろうから行くって聞かなくって。半年もしたら、私が我慢出来なくなって。あの人と一緒じゃない日を過ごすのが苦痛に思えてきて。あの時の宙ちゃんの顔は忘れないわ〜、えお前あんなクソど田舎本気で行くのかよって。まあ確かにドン引く位にど田舎だったわ。え? 今もそう? 数年でそんなに変わる筈ないか。でもね、全然私は平気だった。だって、あの人が一緒だったから、あの人の奥さんになれたのだから。


 ああ、そうなのかも知れない。悠人は美鈴に共感する。俺も京がいなかったなら、京に出会えなかったのなら、恵比須に居続けたであろうか。恐らく、否である。


 私、元々子供が好きじゃないの、と言うよりも家庭を持ちたくなかったの。何故なら自分が辛い思いをいっぱいしたから。でもあの人と一緒に過ごし、家庭って良いなって思えてきたの。義理父も穏やかで優しくて器の大きな人だったわ。一昨年亡くなったって聞いて一晩泣き明かしたわよ。私が子供は欲しくないって言っても、別に構わないさって言ってくれて。一緒になって十年くらい経った時かな、ここなら、この人達となら、って思って、子供が欲しくなったの。すぐに妊娠して、産まれてきたのがあの子。それがね、可哀想なんだけど未だに自分の子が可愛いと思えないのよ。お腹を痛めて産んだ子なんだけどね。ただ、あの人の子供が産めた、そのことが嬉しくて嬉しくて。それからはあの人の笑顔の為に一生懸命京を育てたわ。一生懸命に、そう、頑張ったの… だけど、あの日…


 店には悠人と美鈴だけとなっていた。静かなメロディーのジャズが悲しげに流れている。僭越とは思いつつ、悠人はマスターにラフマニノフを、と小声で頼んだ。


 ふふ、ありがと。ラフマニノフって二メートル近い大男だったんだって。手も大きくてだけど繊細でテクニシャンで。あの人に似てるなって思うようになってから毎日聴いているの。そうあの日。台風が近づいて海は大荒れなのに、大丈夫大丈夫、京の修学旅行代を稼いでくらあって言って。お爺ちゃんも無理するなって言っていたのに。あの人は京が目に入れても痛くない程愛していたから、あの子の笑顔の為なら何でもやる人だったわ。その点だけが唯一許せなかった所かな。でもその結果。冷たくなったあの人を迎えた時、京に向かってつい叫んでしまったの。「アンタのせいよ!」ってね。あの時の前後の事は半狂乱だった私は何も覚えてないんだけど、あの子の凍りついた顔だけは鮮明に覚えているわ、今でも。あの子のせいじゃないし、あの子は何も悪くないんだけれど… でもあの子さえ産まなければ…今でもあの人と…暮らせていたかと思うと… やっぱり…今でも…


 大粒の涙がカウンターに一つ、また一つ大きな染みをつくる。美鈴の慟哭と哀しげなラフマニノフのメロディーに悠人は完全に打ちのめされていた。何と大きな亡き夫への愛。何と切ない家族への想い。未だその傷から立ち直れていない美鈴を呆然と眺めることしか悠人には出来なかった。


 ごめんね、おばちゃんの見窄らしい姿見せちゃって。え? まだまだ? 悠人くん、女にそんなセリフを吐くようになったら、奥さん泣かせる男になっちゃうぞ。さておき。そうそれで、お葬式が終わってお爺ちゃんと遺品の整理とかしてて、知ったんだ。あの人、生命保険とかに一切入ってなかった事を。すなわちね、持っていた漁船のローンをこれからも支払い続けなくちゃいけなくなったって事を。お爺ちゃんはその頃は殆ど漁に出てなくてあの人が毎日漁に出てそれで暮らせていけたの、それがね… お爺ちゃんが漁に出ることになって、でも毎日は体力的にも年齢的にもキツくって。三月もしたら、貯金はゼロ、借金だけが重くのしかかってきたのよ。え? 大体、六百万円位。とても老人が漁に出て稼げる金額じゃないのよ。だからね、お願いしたの。鳥山にも、水田にも、小畑にも。ずっと昔からの集落じゃない、二つ返事で貸してくれると思っていたの。でも。


 第一楽章半ばの荘厳ながらも哀しげで複雑なメロディーが二人にのしかかる。後少し、少しだけ進めば希望に満ち溢れた終盤になるのに…


 あんたの所に貸せるお金はもう無い。誰もがハッキリと言ったわ。耳を疑ったわ、だってずっと昔からの長い付き合いでしょ、小畑の家なんてレクサス買えるくらい稼いでいるじゃない。水田の家だってリフォームするくらいお金持ってるでしょ。なのに、主人が死んで没落しかけている家に貸すお金なんて無いって。絶望を通り越して地獄よ。老人と学のない中年女と小生意気な中学生が、この先どうやって暮らしていけばいいのよ! 借金なんて踏み倒して夜逃げしようにも、何処でどうやって生きていけばいいのよ! ねえ、どうなの! って…ゴメンね、あんたに怒鳴っても仕方ないよね。ははは、あんたもお酒強いね…


 悠人があおったグラスを眺め、美鈴がマスターに新しいボトルを注文する。よく知らないで飲んでいたのだが、モスコフスカヤという緑のラベルのウオッカだった。一方的な言い分であれど、あんないい人達が美鈴にこんな仕打ちを… 新しいボトルから注がれたウオッカを悠人は一気に飲み干した。


 考えたら簡単な話だったわ。私が一人で都会に出て働けば、お爺ちゃんと京の二人くらい養えるって。あの人の昔仲間に声をかけたらすぐに誘ってくれたわ。それが今のお店。去年からママになったの。ふふふ、言っておくけど誰かに囲われてもないし、若いツバメを囲ってもないからね。漁船のローンはあと二年かしら。あと一踏ん張りよ。そのローンを返し終わったら? さあ、どうするかしら、今更あんなしけた村に帰りたくないし、京と一緒に暮らすなんて絶対無理だし。でも、あんたと京の子供の顔くらいは見に行ってもいいかも、ね。ま、それまではあんた、あの子と頑張んなさいよ。出産代くらいなら出してあげるからね。それと横浜に遊びに来たなら、焼肉くらいご馳走するわよ。牛角だけど、ね。うふふ。


 もう少し飲んで行くから、と言う美鈴を残して店の外に出ると、東の空がじんわりと暖かなオレンジ色を醸し出していた。


     *     *     *     *     *     *


 始発の電車で三崎口を降り、始発のバスを待ち恵比須に戻ると、京が家の庭先で採ってきた海藻を塩茹でしている。

「早かったじゃん、ん? あれ? 遅かったじゃん? あれ? どっちだ?」

 明らかに一睡もしていない重たげな瞼。母の想いを知らず必死に一人で生きていけると信じている少女。そして、母からの愛がほんの少しだけ足りなかった少女…

 真っ直ぐに京に歩み寄り、何も言わず悠人は京を抱きしめた。深く、強く抱きしめた。京の匂いが懐かしかった。この匂いをずっと嗅ぎたかった。そしてこの温もりを絶対に手放したくないと思った。

「ちょ、どうしたの、痛いよ、痛いって…… ユート…」

「いいから。もう少し、このまま…」

「え… どした。何かあったん?」

「大丈夫。俺は、大丈夫だから。」

「そっか。なら、良かった。」

 京は満面の笑顔で悠人から離れ、

「おかえり。」

 悠人は口角をあげようとしたが、涙がそれを邪魔している。

「ただ いま。」

 今度は京の方から深く、固く、熱く悠人にしがみついていった。

「ほう。あさがえりというたいざいも、わらってゆるすとわ。なんとできたよめでしょう。」

 卵を抱えた明が興味深げに二人の抱擁を眺めていたものだ。


 とれたてのワカメの味噌汁、アサリの佃煮、ほんのりと甘い卵焼き。がっついて食べる悠人を驚きの目で眺めながら、

「そんな慌てて食べなくたって…」

 なんだか妙に嬉しそうというか幸せそうな京に目が眩む思いの悠人であった。ご飯を二杯お代わりし、満腹になると、

「ちょっと寝たら? その間にちょっと漁協行ってくるわ」

 と言って布団を敷いてくれた。


 京が出かけて行ったのを確かめ、悠人は徐に起き上がり家を出る。どうしても確かめなければならない事がある、悠人は重い足取りで鳥山の家に入っていく。

「おはよう琴音さん。明は小畑の畑かな?」

「あら朝帰りの神様。そうなの明は畑の手伝いだけど… どうかしたの、そんなに怖い顔をして?」

「実はさ。昨日の夜、横浜の美鈴さんに会ってきたんだ。」

「美鈴さんって… まさか…」

「そう。京の母親の美鈴さんに、ね。それであの時の話を全部聞いてきたよ。」

「ああ、宙の奴… 余計な事を吹き込んで…」

 悠人は琴音をしっかりと睨みつけながら、

「彼女が言っていた、あんたにはお金は貸せないって、それは本当なのか?」

 それは… と琴音が呟くも、

「本当かどうか、教えてくれ。」

 琴音はニヤリと笑い、

「そこまで話すなんて。あんた、美鈴ちゃんに随分と気に入られたんだねえ。」

 本当だったんだ… 悠人は膝から力が抜ける思いであった。こんなに親切で優しそうな人達が、磯部家の借金を見て見ぬふりをしていたとは…

「何で? ねえ、どうして助けてあげなかったの? 美鈴さんのことが憎かったの? それじゃ京が余りにも可哀想じゃないか! ねえ、何でだよ、答えてくれよ!」

 琴音は笑みを頬に張り付けたままよっこらせと立ち上がり、箪笥に向かって歩き始める。

「確かに大金だよ、でもさ、昔からの付き合いじゃないか。それを… そんなに美鈴さんをー」

 琴音は何も言わず、箪笥の一番上の引き出しを開けて、徐に古びた小刀を取り出す。

 悠人は頭が真っ白になり、後ずさる。何だこれ… 俺、まさか、知られてはならないこの村の秘密に触れたから、消される? 嘘だろ、ちょっと待って……

「あ。間違えた。これじゃなくってー」

 悠人は全身の力が抜けた。同時に全身の汗が吹き出した。

「ああ、これこれ。」

 そう言って取り出したのは、一通の封筒であった。


 その封筒にはA4サイズの手紙らしきものが入っていた。悠人は受け取って一瞥し、それが借金の借用書であることがわかった。

「お金は、貸したのさ。ウチと、小畑と、水田で。それぞれ、三百万円ずつ。」

 ……悠人は開いた口が塞がらず、息をするのも忘れてしまう程驚いた。

「あの時の借金の残高は千五百万円だったのよ。それをウチらが合わせて九百万円貸して、それで残りが六百万円だったの。」

 美鈴は、京の母親はこの事実を知らなかった!

「だからあの時。あの子が、美鈴ちゃんがお金を無心してきた時、言ったのよ。もうこれ以上は貸せないよって。正直、それ以上の金は持っていなかったし。」

 悠人はガックリと項垂れて畳をじっと見つめている。

「その辺のやりとりは惣助さんと直接やり取りしたから、嫁は知らんかったんだろうね。惣さんも男の意地があったんじゃないかな。」

「じゃ、じゃあ、まだあなた達への借金は?」

「一円も戻ってきてないわ。」

「そんな……」

「だからね、神様、悠人くんがここに来てあの子のうちに住み着いて、私らは本当にホッとしたの。これで京ちゃんは一人ぼっちでなくなる。それと同時に磯部家に男手が入り、この先少しずつでも貸した金が返ってくるってね。私らだって豊かじゃないし貸したお金をいつかは当てにするわ。だからね、悠人くん」

 琴音が急に畳に跪き額を畳に擦り付けながら、

「あの子を、京ちゃんをお嫁にもらってください! お願いします、お願いします!」


 鳥山家を後にし、意外に足取りは重く感じなかった。

 俺は九百万の借金を背負ったらしい。

 道理で村の人々が優しくも時折縋るような視線で俺を見ていた筈だ。

 ぶっちゃけ、どこの世界に九百万円の借金を抱えたこんなど田舎に住む女と一緒になる奴がいるであろうか。小生意気で中学中退、カッとなるとすぐに手や足が出て、後先考えずに行動して。礼儀も作法も何もなく、無礼千万この上なし。

 併しながら。悠人の足取りは、寧ろ軽い。

 短気でおっちょこちょいで、涙脆くて人情に弱くて。真っ直ぐで素直でその辺の男よりも男らしくて。

 自然に顔が綻んでくる自分に笑えてくる。

 未だ見たことない程可愛くて。家事は万能、やり繰り上手で物欲無くて。

 今時こんな女の子がこの世に居るのが信じられなくて。そんな子と一緒になれるなら、九百万円なんて、安いものじゃん!

 布団に寝転び一人ニタニタしていると、ただいまーと京が帰ってくる。

「ねえねえ、隼汰の奴まだ帰って来てないって! どゆこと? ねえ、どゆこと?」

 そう言えば隼汰。今頃あの子と何をしているのだろう。

「内緒って何だよお! 教えてくれよお! じゃあいいよ。直接聞くからっ」

 きっと有る事無い事、大袈裟に語るんだろうな。想像しただけで笑えてくる。

「あれ。何一人でニタニタしてんのさ。さてはユート、昨日の夜、可愛い女の子と仲良しになったんじゃねーの?」

 悠人に跨って半分本気で悠人の首を締める。悠人は笑いながらそんなんじゃねーよと叫ぶも、

「怪しい。怪しすぎる。どうしてこんなに機嫌がいいの?」

 それはお前が好きだから。

 そう言おうとした時。京が悠人にしがみついてくる。悠人は余りの幸せに脳が活動を停止したかと思った。


「あのね、」

「ん?」

「好き。」

「俺も、好き。」

「ホント? 神様に誓える?」

「だって俺は神様だぜ」

「じゃあ、ぶっ飛ばしても死なないよね」

 京はニヤリと笑って大きく振りかぶり、右の拳を悠人の頬に叩き込む。

「いってーーーーーーー!」


 目覚めると、とんでもない寝相の京の足が悠人の頬に乗っかっている。


 あれ… さっきの告白、夢? それとも…


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