後編
翌朝、王城の一室には、国王陛下と王妃殿下、レナード殿下、ミリア様、そして私がそろっておりました。
窓から差し込む朝の光は明るいのに、空気だけが妙に重い。
昨夜の大広間のような楽もざわめきもなく、広すぎる部屋には後始末のための沈黙だけが落ちています。
レナード殿下は不満を隠そうともせず腕を組み、その隣でミリア様は顔を青くして、膝の上で指を握りしめています。
対して王妃殿下は、恐ろしいほど静かでした。
「エリシア」
王妃殿下が私を見ました。
「このたびは、レナードが取り返しのつかない無礼を働きました。王家を代表し、深くお詫びいたします」
王妃殿下が頭を下げる。
続いて、陛下も頭を下げられました。
王と王妃に頭を下げさせる。
この意味を殿下は本当に理解しているのかしら?
私はわずかに膝を折り、視線を伏せました。
「恐れ多いことでございます」
「ローレン公爵家には、正式な謝罪と賠償を行う。婚約解消はレナード側の一方的な過失として処理する。そなたの名誉回復についても、王家が責任を持つ」
「ありがたく存じます」
私は膝を折りました。
勝ち誇る気にはなりませんでした。
陛下や王妃殿下には感謝こそあれ、恨みはありません。それに、昨夜の時点で社交界に噂はすぐ広まり、王家の面子は大きく傷ついています。
だからこの場は、断罪の場ではない。
後始末の場です。
「母上、私はただ真実の愛を——」
「黙りなさい」
王妃殿下は静かに、ただ毅然とした口調でした。
レナード殿下が跳ねる。
あらやだ。殿下の見事な飛び上がり具合に、思わず肩を震わせてしまいました。
「あなたは愛を選んだのではありません。責任から逃げたのです」
「しかし!」
「……婚約は王家と公爵家の取り決めです。それを夜会の余興のように破棄した。しかも神殿の大聖女まで巻き込んで。あなたは王子として、王家の信用を大きく傷つけました」
レナード殿下は唇を噛んでいるのが分かります。
怒っている。
傷ついている。
けれど自分が傷つけたものは分かっていない。
……まったく、これではミリア様が不憫になりますわね。
陛下が重く告げました。
「レナード。お前を王都から外す」
「へ? 父上?」
「北東辺境の監督官補佐として赴任せよ。華やかな夜会も甘い詩も、そこにはない。地方の冬と厳しさを学んでこい」
左遷。
言葉にせずとも、誰もが理解したでしょう。
レナード殿下の顔が更に歪みます。
「では、ミリアも私と――」
ミリア様の指がぎゅっと握られました。
ついていきたいのか、表情では読み取れませんでした。
ただ、昨夜の問いがまだ胸に残っているのか、言葉が出ないようです。
私は口を開きました。
「恐れながら、今の聖女様を同行させるのはおやめになった方がよろしいかと」
レナード殿下がきっ、とこちらを睨みました。
「またミリアを侮辱するつもりか」
「……侮辱しているのは一体どちらでしょうか」
私はミリア様を見ました。
「神殿の権威を無視して、貴族社会の作法を教えられてもいないミリア様を連れ回すのが、ご本人のためと、本気でそう思っているのですか?」
ミリア様が息を呑む。
レナード殿下は怒りで立ち上がりかけました。
「エリシア!」
「殿下がその様なことさえ理解出来ていないから、今ミリア様はこうしているのです」
殿下が黙る。
「ミリア様を本当に想うなら、彼女の認識を放置すべきではありませんでした。人前で怯えて殿下の袖を掴む姿は愛らしいと思いましたか? そのせいで大勢の前で彼女に恥をかかせ、傷付けたとも気付かずに」
ミリア様はわずかに肩を揺らしましたが、私から目は逸らしませんでした。
私は王妃殿下へ向き直ります。
「王妃殿下。もしお許しいただけるのであれば、聖女様の教育をわたくしにお任せいただけませんか」
「あなたが?」
「確かに昨晩の彼女は無知でした。ですが、それは彼女が今まで、知る機会を与えられなかったからです。今後の王家と神殿のためにも、わたくしがここで十年かけて教えていただいた事をミリア様にお伝えしたく思います」
彼女は驚いたように私を見ました。
「どうでしょう? 貴女にその気はありますか」
ミリア様は震える唇を開きました。
「……あります」
そう言って、ミリア様は深く頭を下げました。
……少しだけ、王子殿下の気持ちも分からなくはないですわね。
「よろしい。ご存じかと思いますが、わたくしは厳しくてよ」
「よろしくお願いします。エリシア様」
王妃殿下はしばらく私たちを見ておられました。
その視線は冷ややかに見え、また熱を持っているようにも見えました。
私は小さく息を呑みます。
「よいでしょう。ミリアの身柄は当面、王宮預かりとします。教育についてはエリシア、あなたに一任します」
「承知いたしました」
レナード殿下が呆然と呟きました。
「ミリア……君は、私と来ないのか」
ミリア様の肩が震えます。
彼女は、もう殿下の袖を掴みませんでした。
「今の私は、殿下のおそばに立てる人間ではありません」
「ミリア!」
「それを昨夜、知りました」
小さな声でした。
それは初めて、彼女が自分で選んだ言葉のように聞こえました。
レナード殿下は唇を噛みました。
それを見て、私もほんの少しだけ目を伏せました。
◇
それから三ヶ月が過ぎた頃。
風の噂だと、レナード殿下は北東辺境でずいぶん苦労なさっていると聞きました。
泥道に足を取られ、地方官に頭を下げ、冬支度の予算に頭を抱え、王都の磨かれた床とは違う世界を、ようやく知り始めたらしく。
とても良いことです。
王宮の舞踏会より辺境の泥の方が、殿下は多くを学べるでしょう。
一方、ミリア様は私のもとで礼儀と社交を学んでいます。
最初の頃は扇の持ち方ひとつで泣きそうになっていた彼女ですが、生来の真面目さと清廉さは、彼女に膝をつくことを許しませんでした。
自分の言葉が誰に届き、誰を傷つけ、何を動かすのかを少しずつ考えるようになりました。
聖女らしくなったのかと問われれば、分かりません。だって私は、婚約破棄されたただの令嬢なんですもの。
けれどミリアはもう、王子様に手を引かれて目を潤ませる夢みがちな少女ではありません。
「お姉さま! また手紙がこんなに届いております」
午後の茶室に、ミリアが銀盆を持って入ってきました。
お姉さま。
いつからかミリアは私をそう呼ぶようになりました。
訂正しても一向にやめないし、今では王妃殿下まで面白がっているのでもう手遅れです。
「今日は何通ですの?」
「七通です。うち求婚状が五通、詫び状が一通、そして……」
ミリアは最後の一通を見て、少しだけ笑いました。
「ヴァレンタイン辺境伯家から、正式な縁談の書状です」
「あら、まあ」
私はカップを置きました。
「ようやく正面の門からいらしたのね」
「お姉さま」
「何かしら?」
「少し、嬉しそうです」
「……余計な観察眼ばかり育ちましたわね」
ミリアが嬉しそうに微笑む。
今は私に叱られることも、からかわれることも楽しくてしょうがないのだというから困ったものです。
私は書状を受け取り、封蝋を眺めました。
狼と剣。
あの夜、拍手とともに現れて、話をややこしくした男の家紋です。
今さらながら、正式な謝罪と、家同士の筋を通した縁談。
私の意思を最優先とすること。
王都との往来を妨げないこと。
ローレン公爵家との関係を保つこと。
返答を急がせないこと。
そして、先日の件について改めて直接詫びたいということ。
冷血侯というには、やけに生真面目な文面でした。
「お会いになりますか?」
「……お茶くらいは出してもよろしいでしょう」
「まあ!」
ミリアが大袈裟に口を押さえて笑う。
「勘違いしないで。縁談を受けるとは言っておりません」
「はい」
「ただ、あの方が火事場泥棒から卒業できたか確認するだけです」
「お姉さまは本当にお厳しいです」
「当然です。わたくしに求婚するなら、まず人としてまともになっていただかないと困りますもの」
ミリアが小さく笑いました。
その笑い方は、初めて会った頃よりずっと軽やかでした。
私は紅茶に口をつけます。
「お姉さま」
ミリアは、少しだけ真面目な顔になりました。
「あの夜、お姉さまは私にお尋ねになりましたよね」
「何を?」
「愛とは何か、と」
私はカップを持つ手を止めました。
……ああ。そういえば、そんなことも言いましたっけ。
あの時のミリアは、愛という言葉を何もかも許される魔法のように使っていた。
今思えば、なんの臆面もなく、自由にそんな事を言える彼女が少し羨ましかったのかもしれません。
「あら? 今なら分かると言いたいの?」
私が意地悪っぽく尋ねると、ミリアは困ったように首を振りました。
「分かりません。だから、お姉さまに聞いてみたくなりました」
「わたくしに?」
「はい。お姉さまならご存じなのかと」
私は思わず笑ってしまいました。
「それが分かれば、苦労はしませんわ」
ミリアが目を丸くする。
「お姉さまでも?」
「ええ。わたくしでも」
紅茶の表面に、窓から差し込む午後の光が揺れています。
私は銀盆の上の求婚状を見ました。
それから、ミリアを見ます。
「ただ少なくとも、自分の都合で相手を動かす言葉ではありませんわ」
ミリアは、ゆっくりと頷きました。
「それに大切なのは、言葉のあとに何を選ぶかです」
「選ぶ……」
そこまで言って、私は肩をすくめました。
「もっとも、わたくしも勉強中ですけど」
「お姉さまが?」
「何か言いたげね」
「いいえ」
ミリアは嬉しそうに笑いました。
「一緒に学べるなら、嬉しいです」
「……誰に似たのか、口が上手くなったわね」
私が肩をすくめると、ミリアがくすくすと笑いました。
なぜかあの一件は私が王子を振ったことになっており、今貴族の間では、「誰があの令嬢に選ばれるのか」という話題で持ちきりらしい。
まったく、迷惑な話ですこと。
銀盆の上には、今日も山ほどの手紙。
どれを読むか。
どれに返事をするか。
それを決めるのは他の誰でもない。
いつだって私たち自身です。
「ミリア」
「はい、お姉さま」
「ヴァレンタイン卿への返事は、明日でよろしいわ」
「今日ではなく?」
「ええ」
「今日はあなたとお茶を飲む日ですもの」
ミリアは一瞬だけ驚いて、それから花が咲くように笑いました。
「はい。お姉さま」
愛とは何か。
そんなもの、まだ分かりません。
そんなことより、今はこうして好きな相手と紅茶を飲む方が、私にとってはずっと心地いい。
春の庭には、今日も柔らかな風が吹いています。




