前編
「エリシア・ローレン。君との婚約を、この場で破棄する!」
第二王子レナード殿下の言葉に、楽師の指が弦の上で固まり、大広間が静まり返りました。
貴婦人たちは動きを止め、婚約式のために集まった貴族たちも、揃って顔を見合わせています。
本来ならば、私と殿下が婚約者として並び、王家とローレン公爵家の結びつきを示す場でした。
そのような場で、殿下は私を見下ろして堂々と言いました。
隣には、大聖女ミリア様。
……はあ。
まったく、頭痛がしてきましたわ。
十年。
朝の礼法から夜の外交文書まで、私は王妃殿下のご期待に応えるため、この十年間、ただただ積み上げてまいりました。
それを殿下は、今、たった一言で床に落とされた。
体はぐったりと疲れが沈み、心の奥で何かが軋む音がします。
ミリア様は白いドレスに身を包み、潤んだ瞳でこちらを見ています。震える指先は、殿下の袖をそっと掴んでおり、年齢よりもやや幼げな少女のように見えました。
彼女は数年前、地方の小さな村で癒やしの奇跡を起こし、神殿に見出された女性です。
希少な聖力を持つため、正式に「大聖女」の称号を授けられており、民衆からの人気も高い。私のような公爵家の令嬢のみならず、神殿も王家も、彼女を粗末には扱えない立場のお方です。
けれど、地方の村から突然王都へ連れてこられ、神殿の奥で祈り方ばかりを教えられた方でもあります。
貴族の婚姻が何を意味するのか。
王族の隣に立つとは、どういうことなのか。
それを教える者が、彼女の周りにどれほどいたのでしょう。
そんな方が、こともあろうにこう続けました。
「ごめんなさい、エリシア様。でも私、レナード様を愛してしまったんです」
愛。
その言葉を聞いた瞬間、私がまず思い浮かべたのは、王妃殿下のお顔でした。
そもそも、この婚約は私が望んだものではありません。
王家とローレン公爵家の間で結ばれたものです。
そして私に王妃教育を命じ、十年かけて磨き上げたのは、ほかでもない王妃殿下でした。
殿下は今、母君に向かって唾を吐かれた。
そのご自覚がおありなのかしら?
なんて親不孝な方なのでしょう。
「大聖女様」
私が名を呼ぶと、ミリア様の肩が小さく震えました。
「は、はい……」
「貴女の言う、『愛』とはなんですの?」
広間に、ざわざわと物憂げな動揺が広がります。
同時に、レナード殿下が眉をひそめました。
「エリシア。ミリアを責めるな」
「殿下には伺っておりません」
ピシャリと撥ねつけた後、私はもう一度尋ねました。
「ミリア様。貴女は今、私に謝罪し、殿下を愛してしまったとおっしゃいましたね。その愛とは何かと尋ねております」
「それは……」
ミリア様は不安げに殿下を見上げました。
すると殿下は、彼女を守るように一歩前へ出ます。
その姫を守る騎士気取りの仕草に、私は思わず笑ってしまいました。
殿下は昔から、そういう方でした。
周囲の期待から逃げるように、分かりやすく自分を慕う者の手を取る。
立場ではなく、一人の男として見てくれる相手を何より大切にしたがる。
お気持ちは分からなくもありません。
けれど、分かることと許されることは別です。
「殿下といると胸が苦しくなって、そばにいたくて、離れたくなくて……レナード様が私を見てくださると、とても幸せで……」
「ミリア……」
「大聖女様、わたくしは生娘の戯言を聞きたいのではありません」
私が肩をすくめると、ミリア様は顔を真っ赤にして俯きました。
広間の空気も、すっと冷えたのが分かります。
入口近くの壁際で、誰かが小さく息を吐いた気配がしました。
目を向けると、黒い礼服をまとった長身の美麗な男が、柱の陰からこちらを見ております。
北方辺境伯、クラウス・ヴァレンタイン。
冷血侯と呼ばれ、婚約者候補を三人逃がしたと噂の男です。
彼はなぜかこちらに視線を向けると、目を細めたような気がしました。
「……大聖女様。貴女は神殿に認められ、この国の祈りを背負う方です。第二王子殿下は、王家と公爵家の取り決めにより、私と婚約されている。そのお立場を理解した上で、なお愛してしまったとおっしゃったのですね?」
「わ、私は……」
「答えなさい」
ミリア様の唇が震えました。
望まぬ力を得たばかりに市井から祭り上げられ、何の教育も受けぬままこの場に立っているこの少女を思うと、少しだけ気の毒になります。
だからといって、見過ごすわけには参りません。
「胸が苦しいかどうかなど、どうでもいいのです。問題はその苦しさの代償に、どのような覚悟があるのかということですわ」
「覚悟……?」
「ええ。殿下の婚約を壊す覚悟。王家と公爵家の合意を覆す覚悟。王妃殿下が十年かけて進められた王妃教育を否定する覚悟。神殿の清廉性に傷をつける覚悟。失礼ながら、しとねを共にすれば聖女の力は失われると、ご存じですよね?」
周囲にざわめきが広がります。
参加している神官たちが、揃って顔色を変えました。大聖女の力は神殿の権威に大きく関わるもの。その権威が失われたとあっては、関係者にとってもたまったものではありません。
ミリア様は、さらに肩を小さく寄せます。
「ミリアに失礼だろう! 謝罪しろ!」
私は殿下の反論を鼻で笑い、構わず続けました。
「そして、国のために王家から死ねと命じられた時、死ぬ覚悟です」
「エリシア! 何を馬鹿なことを!」
「当然でしょう」
私が睨むと、殿下は怒られた子供のように肩を引きました。
「王家に連なる者の婚姻とは、そういうものです。望む望まないに関わらず、家と国のために結ばれ、利用され、時に切り捨てられる。その覚悟を前提に、わたくしは十年間、王妃教育を受けてまいりました」
レナード殿下の目が揺れます。
貴方は知らなかったでは済まされませんよ。
殿下はただ、見ないふりをしていただけなのですから。
「殿下の隣とは、恋人の隣ではありません。王族の隣です。民が飢えれば責められ、疫病が流行れば祈らされ、戦になれば笑顔で兵を見送り、必要とあらば自分の命も差し出す場所です」
私は静かに尋ねました。
「ただの色恋なら、周りの迷惑を振り切って妾でも愛人でも好きになさったらよろしい。覚悟もなく王族に連なる方を軽々しく愛する、と言うのは、王家と臣民に対する侮辱です」
ミリア様は、何も言えませんでした。
「……私はただ、レナード様が苦しそうで……私だけが、分かってあげられるのだと……」
「ミリアは私を本当に愛している! 君のように冷たい女とは違う!」
「……冷たい?」
私は笑いを堪えながら、殿下に向き直りました。
そして、扇の先で足元を指します。
「殿下。わたくしが冷たいのではありませんわ。それが王宮なのです」
殿下が息を呑みました。
「王子として婚約を破棄なさるなら、それは政務です。正式な書面と、陛下ならびに王妃殿下の裁可をお持ちくださいませ」
その時でした。
……ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた拍手が、大広間の入口から響きました。
人々が一斉に振り返ります。
先ほどまで柱の陰にいた、黒い礼服をまとった長身美麗の男が、ゆっくりとこちらへ歩いてきました。
「見事だ、ローレン公爵令嬢」
北方辺境伯、クラウス・ヴァレンタイン。
先ほどからこちらの様子を眺めていた彼は、拍手を止めると、私の前で足を止めました。
「レナード殿下が君の価値を理解できぬというなら、私がもらい受けよう。北方には、君のような覚悟ある女こそ必要だ」
ああ。今夜は本当に忙しい。
「エリシア・ローレン」
クラウス卿は、まるで勝利を確信した騎士のように手を差し出しました。
「私の妻になれ。君ならば、我が隣に立つ資格がある」
「……受けるわけないでしょう」
彼の手が、宙で止まりました。
「……何?」
「失礼ながら、空気を読んでいただけますか?」
広間に、二度目の沈黙が落ちました。
私は扇を閉じたまま、クラウス卿を見上げます。
「わたくしは今、第二王子殿下の不始末と、聖女様の認識不足を諭しておりました。そこへ突然現れて、拍手をし、求婚なさる。ご自分がこの場でどれだけ非常識な振る舞いをしているのか自覚がおありなのですか?」
クラウス卿の目が、わずかに細くなりました。
「私は君を評価している」
「不愉快です」
「何だと?」
「殿下はわたくしを捨てた。貴方はわたくしを拾おうとしている。どちらも、わたくしの意思を尊重していない点で同じですわ」
周囲がざわつきます。
そろそろ、どうでもよくなってまいりました。
「デリカシーのない殿方は嫌いですの」
レナード殿下、クラウス卿、大聖女ミリア様。
最後に、面白そうにこちらを眺めている貴族たちを睨みつけます。
「まったく、ここにはまともな方はいらっしゃらないのね」
小さくため息をつくと、ミリア様が小さく息を呑みました。
殿下は怒りで顔を赤くしています。
クラウス卿は、言葉に詰まっていました。
「では、失礼いたします。殿下の婚約破棄につきましては、今から王妃殿下へ正式にご報告申し上げます」
形だけの礼をして踵を返したあと、私は振り返ってもう一度だけ言いました。
「あなた方、今夜ご自分が何を口にしたのか、よくよくお考えなさい」
「……はい」
ミリア様が小さく頷きました。
「はい」
なぜかクラウス卿まで、つられて頭を下げました。
冷血侯などと呼ばれておりますけれど、そのしょぼんとした顔を見ていると、案外、可愛い方なのかもしれません。
「クラウス卿。あなたもいらしてください。王妃殿下にご報告するにも、証人がいた方が話が早くて助かりますわ」
「……承知した」
殿下が顔を青くして、後ろから叫びます。
「待て、エリシア!」
「待ちません」
私は微笑みました。
「正式な命令書もない呼び止めに従うほど、わたくしは暇ではございませんの」
背を向けると、もう誰も追ってきませんでした。
あんな人たち、怖くも何ともありません。
今夜、私が唯一恐れるのは、王妃殿下のご機嫌だけです。
困惑するクラウス卿を横目にして、私は小さく苦笑しました。




