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私たちは帝国を変えてしまうかもしれない  作者: モカ


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第一話

同日。平民棟。


貴族棟とは対照的に、この建物は古い。石壁には修繕の跡が幾重にも重なり、蒸気灯ではなく旧式の油灯が廊下を照らしている。窓硝子にはひびが入ったものもあり、風が吹くたびにかすかな音を立てた。帝軍校が「平民と貴族が同じ屋根の下で学ぶ場」と称していながら、その実態がいかに不平等であるかは、この棟に一歩踏み入れれば理解できる。


教室は雑然としていた。


机の並びは不揃いで、椅子の高さもまちまちだ。生徒の数は多い。貴族棟の一クラスが十数名であるのに対し、平民棟は五十人以上が一つの教室に詰め込まれている。空気は蒸し暑く、窓を開けても、外から吹き込むのは蒸気施設の排気を含んだ風だけだ。


その教室の最後列に、一人の少年が座っていた。


銀色の髪。金の瞳。年齢は十七歳前後だろう。体格は大きくないが、筋肉の付き方が無駄なく鍛え上げられた者のそれだった。農村の子弟でもなく、商家の子弟でもない。もっと別の場所——たとえば、路地裏や廃墟のような場所で身体を鍛え上げた者特有の、研ぎ澄まされた動きの痕跡がある。


彼の名はザックと言った。


周囲の生徒たちが互いに自己紹介をしたり、出身地を話題にしたりしている中で、彼だけは椅子の背にもたれたまま、天井を見上げていた。視線は何も追っていない。だが、その金色の瞳の奥には、明確な熱があった。怒り、というよりも——もっと根深いもの。焼けた跡のように消えない何か。


「お前、どこの出身だ?」


隣の席の少年が話しかけた。丸顔の、人懐っこそうな平民の子である。


「東部」と、ザックは短く答えた。


「東部? あそこは確か、去年の飢饉で——」


「ああ。ひでえもんだったよ。貴族様は何もしなかったけどな」


その言葉には、鋭い棘が含まれていた。だが、声を荒らげているわけではない。事実を、ただ事実として述べているだけだ。丸顔の少年は気まずそうに視線を逸らした。


教室の前方に立つ教員——中年の、元軍人らしい男だ——が手を叩いた。


「静かにしろ。今日から、お前たちは帝国軍事学校の生徒だ。ここでは、出身も経歴も関係ない。お前たちに求められるのは、帝国に仕える兵士としての力だけだ」


形式的な言葉である。平民棟の教員たちは、毎年同じ台詞を繰り返しているのだろう。だが、その言葉が嘘であることは、この建物そのものが証明していた。貴族棟は新しい石材と蒸気灯で整備されている。平民棟は朽ちかけた旧施設だ。出身も経歴も関係ないという言葉が、これほど空虚に響く場所は他にない。


ザックは、教員の言葉を聞いてはいた。だが、信じてはいなかった。


彼がこの帝軍校に来た理由は、帝国に仕えるためではない。帝国を——いや、今の帝国を支配する仕組みそのものを変えるためだ。旧帝国派が守ろうとする秩序。皇帝と上流四家が民の上に君臨し続ける体制。それを、根本から破壊するために。


ザックの右手が、無意識に腰の片手剣の柄に触れていた。刃は安物だ。名工の作ではなく、辺境の鍛冶屋が打った量産品。だが、それで十分だった。剣に求めるものは一つだけ。敵を斬れること。それだけだ。


教員が教室を出ていくと、生徒たちの間で雑談が始まった。出身地の話。家族の話。帝軍校での生活への期待と不安。平凡な会話が、教室を満たしていく。


「なあ、聞いたか?」


ザックの前の席の少年が、振り返って話しかけてきた。痩せた顔に、そばかすのある少年だ。声を潜めている。


「貴族棟に、アイリス家の嫡子が入ったらしい。上流四家だぜ。しかも、時の魔法の使い手だって」


「へえ」と、ザックは答えた。


「やばくないか? 時の魔法って、上位魔術にもある属性だけど、魔法となると別格だろ。俺たちとは次元が違う」


「別に。魔法が強かろうが、人間は人間だろ」


ザックの声は平坦だった。だが、その言葉の裏には、確かな信念がある。貴族であっても平民であっても、魔法を持っていても持っていなくても、人間としての価値は同じだ——というのが、新帝国派の根幹にある思想だった。ザックがその思想を意識的に学んだわけではない。ただ、彼が生きてきた場所で、彼が見てきたものが、自然とその結論を導いたのだ。


「それと」そばかすの少年は、さらに声を落とした。「この学年の平民棟には、魔法持ちが一人もいないらしい。五十人に一人の確率で生まれるはずなのに、この学年の平民枠には該当者がゼロだ。おかしいと思わないか?」


「おかしくねえよ。魔法を持って生まれた平民は、子どもの頃に貴族に買われるか、どこかの研究施設に連れていかれる。帝軍校まで辿り着けるわけがない」


ザックの言葉は淡々としていた。だが、その瞬間——ほんの一瞬だけ——彼の金色の瞳が鋭くなった。唇がわずかに引き結ばれた。それは、個人的な怒りの徴候だった。


彼は、それ以上何も言わなかった。


---


貴族棟。午後。


戦闘実習が行われる訓練場は、帝軍校の中央に位置している。石畳の広場に、砂が薄く敷かれた演習場。その周囲を、高い石壁が囲んでいた。観覧用の回廊が上部に設けられており、教員たちがそこから生徒の動きを観察する構造になっている。


この日は、貴族棟の新入生たちの「初回実技評価」だった。


要するに、実力を見せろということだ。


生徒たちは、一人ずつ訓練場の中央に立ち、木製の標的に対して魔術を放つ。あるいは、剣で型を示す。それだけのことだが、貴族社会においては、この初回評価が重要な意味を持つ。ここでの成績が、棟内での序列に直結するからだ。


エリアスは、自分の順番を待ちながら、他の生徒たちの実技を観察していた。


多くの生徒は、火や風の基本魔術を放った。中には上位魔術——光の属性——に挑む者もいたが、成功した者はいない。剣の型を示す者もいたが、教員たちの反応は概ね平凡だった。


ヴィオレッタ・カストリアの番が来た。


彼女は訓練場の中央に立つと、一拍の間を置いた。そして、無詠唱で水の魔術を放った。標的に向けて放たれた水流は、一直線に標的を貫通し、その背後の石壁にまで到達した。水の基本魔術で、これほどの威力。教員たちの間で、わずかにざわめきが起こった。


次に、彼女は風と土の魔術を同時に放った。風が標的の動きを制限し、土が標的の足元を崩す。二属性の同時展開。魔術の同時使用は可能だが、それを実戦レベルで行える者は少ない。


ヴィオレッタは表情を変えずに、訓練場から退いた。


「見事だな」と、教員の一人が呟いた。


エリアスの番が来た。


彼女は訓練場の中央に立ち、深く息を吸った。手にはメイスを握っている。貴族の女性がメイスを選ぶのは珍しい。剣やレイピアが一般的な選択だからだ。だが、エリアスは、それを選んだ。打撃武器特有の重量と破壊力。それが、彼女の戦い方に合っていた。


まず、火の魔術を放つ。標的が燃え上がる。次に、水で消火しつつ、その水流を次の標的に転用する。連続した魔術の切り替え。無詠唱での属性変換。動きに無駄がなく、流れるような展開だった。


教員たちは頷いた。ノーヴェル家の娘に相応しい実力だ、と。


だが、エリアスの本当の力——癒しの魔法——は、この場では披露されなかった。攻撃的な場面で見せるものではないと判断したのか。あるいは、まだ見せる時ではないと考えたのか。


そして、最後の順番が来た。


ルーファス・アイリス。


彼は静かに立ち上がった。動きに一切の無駄がない。椅子から立つという行為そのものが、すでに一つの型のように洗練されている。


訓練場の中央に歩み出る。


腰の鞘から、片手剣を抜いた。その刃は通常の剣と異なり、刀身にかすかな紋様が刻まれていた。魔道具——特注の一品だ。蒸気灯の光を受けて、紋様がわずかに明滅する。


教員たちが注目した。生徒たちも。全員の視線が、ルーファスの一挙手一投足に集中していた。


ルーファスは、まず剣の型を示した。


一歩目で踏み込み、二歩目で切り上げ、三歩目で横薙ぎ。基本的な三連撃の型だ。だが、その速度と精度が異常だった。木製の標的は、三度斬られた——正確に同じ深さで。刃が標的を離れる瞬間と、次の斬撃が始まる瞬間の間に、空白がない。まるで一つの連続した動作のように。


だが、それだけではなかった。


ルーファスは剣を構え直すと、次の瞬間——魔術を放った。火の属性。無詠唱。標的の残骸が燃え上がる。その直後に、風の魔術で炎を制御し、特定の方向に誘導する。炎は渦を巻きながら次の標的を包み、一瞬で炭化させた。


教室は完全な沈黙に包まれた。


火と風の同時使用。それ自体は、ヴィオレッタも行っていた。だが、ルーファスの魔術は、威力が段違いだった。そして何より——その全てが、剣撃の動作と完全に連動していた。剣で斬ると同時に魔術を放つ。攻撃の手段が、一つではなく複数。それを、無駄なく一体化させている。


エリアスは、その光景を見て、息を呑んだ。


これが、ルーファスの実力か。天才という言葉が、これほど適切に当てはまる人間を、彼女は初めて見た。


だが、ルーファスはまだ時の魔法を見せていない。


彼の本当の力は、まだ隠されたままだった。


ルーファスは剣を鞘に収めると、何の感慨も見せずに、自分の席に戻った。教員たちの称賛の言葉にも反応しない。生徒たちの驚嘆の視線にも関心を示さない。


エリアスは、その背中を見つめていた。


冷たい、と感じた。あの少年の動きは完璧だった。だが、その完璧さの中に——何か致命的な欠落があるように、彼女には思えた。それが何なのかは、まだわからない。


訓練場の回廊の上では、教員たちが記録を取っていた。


「アイリス家の嫡子。実技評価——全項目最高。特記事項:時の魔法は未使用。全属性の魔術を実戦レベルで運用可能。剣技は上位者相当。総合評価、貴族棟首席」


その記録は、帝軍校の上層部に送られるだろう。そして、上層部からさらに上——帝国の中枢へと。




夕暮れの蒸気灯が灯り始めた頃、ルーファスは寮の自室に戻った。


窓の外に広がるのは、帝軍校の全景だ。貴族棟の整然とした建物群。中位棟のやや古びた施設。そして、遠くに見える平民棟の薄暗い輪郭。その三層構造が、帝国そのものの縮図であることを、ルーファスは理解している。


机の上に、一通の封書が置かれていた。


アイリス家の紋章が押された封蝋。父からの書簡だ。


ルーファスはそれを開き、内容に目を通した。


文面は短い。


『初回評価で首席を取れ。取れなければ、お前に価値はない。次の指令は追って送る。』


ルーファスはその書簡を畳み、机の引き出しにしまった。


「首席は確保しました。次の指令を待ちます」


誰もいない部屋で、彼はそう呟いた。報告する相手はここにはいないが、口にすることで自身の任務を確認する。それが、彼の習慣だった。


窓の外では、蒸気灯が一つ、また一つと灯っていく。帝軍校の夜は静かだ。だが、その静寂の下で——多くの思惑が、既に動き始めている。

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