プロローグ
「……確実にな」
その言葉が放たれたのは、アイリス家の執務室の奥深くだった。蒸気灯による薄ぼんやりとした光が、石造りの壁を照らしている。
赤い瞳の男——レンタム・アイリスは、目の前に座る老いた執事を見据えていた。執事は白髪に白髭、顔のしわが深い。アイリス家に何十年と仕えてきた者である。彼の背中は少し丸くなり、手は細く枯れているが、瞳だけはなお明晰だ。
「はい。かしこまりました。そのように手配いたします」と、執事は低く頭を垂れた。「ご子息には、何とお伝えすればよろしいでしょうか」
「何も言わなくていい。あやつは、既に理解している」
レンタム・アイリスは椅子から立ち上がると、窓に近づいた。外は首都の夜景である。蒸気機関で動く施設の灯火が、遠くで点々と輝いている。上流貴族の館が立ち並ぶこの地区でも、数年前から蒸気灯が導入されている。時代は変わろうとしていた。だが、帝国の根本——皇帝と上流四家による統治——は、変わるべきではないのだ。
「アイリス家は、再び栄光を取り戻す」レンタム・アイリスの声は低く、抑制されていた。それは怒りの圧縮された形だ。「あの三家と皇帝め。三百年の間、我が家を何だと思っていたか。しかし、あの子の才能があれば——」
彼の視線は、館の別棟を指していた。そこに、ルーファスはいる。
その時点でルーファスは14歳だった。妾腹として生まれた身ながら、時の魔法を持って生まれたことで、帝国内でも数十人に一人という才能を持つ者として認識された。そして時の魔法を持って生まれる物は少ないため貴重なのである。
だから、レンタム・アイリスは決めた。この子を本家の嫡子とし、完全無欠な戦士に育てあげる。自分の隠し金の全てを注ぎ込んでも惜しくない。その引き換えに、あの子に帝国を揺るがす力を与えるのだ。
「時間がない」
レンタム・アイリスは呟いた。
「帝軍校への入学は、来月だ」
帝軍校——帝国の最高峰にして、唯一、平民と貴族が同じ屋根の下で学ぶ場所。もっとも、接触は厳密に禁止されている。貴族棟と平民棟は完全に分離されており、教室も食堂も異なる。だが、実習や戦闘演習では、交わることがある。
そこでルーファスは、新帝国派の学生たちと出会うことになるだろう。
新帝国派——皇帝と上流四家による支配を打ち破り、民主制の帝国を作ろうとする勢力だ。平民の中に根強く広がり、一部の若い貴族さえもその思想に傾いている。帝国が二つに割れんばかりの対立が、ここ数十年で深刻化している。
レンタム・アイリスにとって、それは好機である。
この状況を利用しあの三家——ルゼイア家、ノーヴェル家、カストリア家——の権力の一部を手に入れるのだ。
「ご子息は、帝軍校でどうするつもりなのでしょうか?」と、執事はルーファスの学生生活を気にしている。
「あやつは考える必要がない。命令に従うだけだ」
レンタム・アイリスの声は冷徹そのものであった。それは、親の言葉ではなく、主人が道具を扱う口ぶりだ。実際のところ、彼の目にルーファスは「子」ではなく「手段」以外の何物でもない。才能ある兵器。利用価値を持つ道具。それ以上でも、それ以下でもないのだ。
執事は深く頷き、再度頭を下げた。何も言わない。彼は長年アイリス家に仕えてきたが、主人の野心の深さについては知らぬほうが身のためだと理解していた。
その夜、ルーファスは自分の部屋で、刃物の手入れをしていた。
白い光が、片手剣の刃を滑らかに照らし出す。彼の動きは完璧だ。一振りごとに、完全な角度を計算している。刀身に傷がないか確認し、柄の密着具合を調べ、時の魔法による変形機構に異常がないか確かめる。この剣は、時の魔法を受けると短剣に変わる。オーダーメイドの魔道具であり、ルーファス自身の才能と同義の存在だ。
ルーファスの金色の髪が、額に垂れている。黒い瞳は、刃の上で反射する光を追っていた。感情は常に冷静に。14歳にして、既に彼の顔は貴族の嫡子のものである。幼い頃に妾腹として扱われた時代の痕跡は、外見からは何も見えない。むしろ、上流社会の人間たちは彼を見て、新しい時代を象徴する存在だと感じる——若く、才能に満ちていて、帝国を守る力を持つ者として。
「帝軍校は来月ですか。父上の命令を果たすためにも、万全の準備をしておく必要がありますね。」
丁寧な言葉遣いは、幼い頃からの教育の産物である。
彼は剣を鞘に収め、その完璧な仕草で立ち上がった。窓から見える首都の景色に目を向ける。蒸気灯の灯が、いくつか瞬いている。どこかで、新帝国派の連中が秘密会議を開いているかもしれない。どこかで、皇帝の側近たちが政策について議論しているかもしれない。帝国全体が、静かに、しかし確実に、二つの勢力によって引き裂かれようとしていた。
その中で、ルーファスは前に進むだけだ。命令に従い、与えられた使命を果たすだけ。感情的な葛藤は、彼の思考を乱すだけ。親の野心に利用されることについて、何の疑問も持っていない。本家の嫡子となったことについて、感謝や喜びを感じたこともない。それは、彼にとって——あるいは、彼を育てた者たちにとって——当然のこと以外の何物でもなかったからだ。
―――1ヶ月後―――
帝軍校の貴族棟の教室では、エリアス・ノーブルが机に向かっていた。
彼女は16歳の少女であり、帝国の4大貴族、ノーヴェル家の娘である。薄茶色の長い髪が、肩の辺りで静かに揺れている。顔立ちは柔らかく、瞳には知性の光がある。他の貴族の少女たちのように、虚飾に満ちた笑みをまとっていない。代わりに、彼女の表情からは、何か深刻な思考の痕跡が見える。
机の上には、帝国の統治体制についての文献が積み重ねられていた。
「エリアス。また、そのような本を読んでいるのですか?」
同じ貴族家の娘——ロサリア——が、軽蔑に満ちた視線を送ってきた。
「上流社会の女性が学ぶべきは、礼儀と教養と、適切な結婚相手の選別ではないかしら。帝国の政治体制なんて、それは男たち、特に皇帝と四家が考えることでしょう。我々女性が口を出す問題ではないと思うけれど」
エリアスは、その言葉に静かに応答した。
「けれど、帝国の問題は、我々全員の問題ではないかしら」彼女の口調は丁寧だが、疑問の色合いが強い。
「新帝国派と旧帝国派の対立は、もはや避けられない状況になってきています。軍事衝突さえ、秒読み段階のような——」
「やめなさい」ロサリアは顔をしかめた。「そのような不穏な話は、聞きたくもないわ。帝国は永遠よ。皇帝と上流四家が統べる限り、帝国は守られる。それで十分ではないかしら」
エリアスは応答しなかった。本を閉じ、その文献を机の下に隠した。彼女の心中には、確かな不安があった。帝国は変わるべきだとそう感じていた。だが、その感覚を伝える勇気もなく、ましてや行動に移すことができずにいた。
その時だった。
廊下から足音が聞こえた。複数の教員の足音。何かあるのだろうか?
扉が開き、一人の少年が入室した。
金髪に黒目。整った顔立ちで、上流社会の教育を受けた身体の動き。年齢は自分よりちょっと下だろうか?そう考えていると教員が喋りだす。
「皆、紹介がある」
「ルーファス・アイリスだ。アイリス家の嫡子で、この学年から帝軍校に配置される。貴族棟では、彼が最上位の戦力となる。皆は、彼から多くを学ぶことになるだろう」
教室は静かになった。
アイリス家。上流四家の一つ。ここ数年、家の勢力が衰えていると言われていた。だが、この若き嫡子が、その力を回復させるのか。多くの生徒たちが、ルーファスの顔を観察した。
エリアスもまた、その少年を見つめていた。
ルーファスは自分の席に着き、完全な姿勢で前を見つめた。何の気ぶりも見せず。何の感情も表さず。
ルーファスが席に着いてから、わずか数分後のことである。
教室の扉が再度開き、別の教員がもう一人の少女を連れてきた。金髪に青い瞳。ルーファスと同じくらいの年代の、背の高い貴族の娘だ。その容貌には、上流社会の気品が満ち溢れていたが、同時に何か鋭い意志のようなものも感じられた。
「もう一人の編入生だ」と、教員が告げた。「ヴィオレッタ・カストリア。カストリア家の娘であり、この学年から貴族棟に配置される」
教室がざわめいた。
カストリア家。上流四家の一つ。そしてノーヴェル家と同じく、新帝国派に傾く家として知られている。ただし、ヴィオレッタ本人がどのような立場を取るのかについては、誰もが興味深く思う。
ヴィオレッタは教室を一瞥し、何の表情の変化も見せずに席に着いた。その時、彼女は一瞬ルーファスを見る。だが何の反応も示さず。何の確認も行わず。単に、存在を認識したというだけのことだ。
エリアスは、その光景を見つめていた。
帝国の四大勢力が、このクラスに集った。その瞬間、彼女は理解した。あたかも、帝国全体の均衡が、このクラスに凝縮されたかのような。
一方、帝軍校の別棟——平民棟との交差地点に近い別の教室では、異なる風景が展開していた。
ここは、貴族の中でも中位層や下位層が集められた棟だ。完全な貴族棟ではなく、かといって平民棟でもない、微妙な位置づけの生徒たちである。
「紹介する。ヤコブ・ノーヴェル。ノーヴェル家の分家出身。そしてレイン・ルゼイア。ルゼイア家の分家出身だ。この学年から、この棟に配置される」
教員の声は単調だが、その名前だけで十分に重みがあった。ノーヴェル家。ルゼイア家。新帝国派寄りの家として知られている上流四家の人間たちが、この棟に配置されるというのは、明らかに帝国中枢の政治的な配慮の結果であった。
ヤコブ・ノーヴェルは、20歳に近い青年だった。濃い茶色の髪と鋭い瞳。ノーヴェル家の主流派とは異なる、やや廃退的な雰囲気を身にまとっていた。彼はこの棟に配置されることに対して、明らかに不本意な表情を浮かべている。なぜなら、ノーヴェル家の嫡子であれば、通常は上位の貴族棟に配置されるはずだからだ。だが、何らかの理由で、彼は此処に置かれたのである。
一方、レイン・ルゼイアは対照的だった。
彼は17歳で、金髪に灰色の瞳を持つ少年だ。顔立ちは整っているが、どこか虚ろな雰囲気を漂わせている。彼の視線は教室の窓の外に向かっており、教員の言葉や周囲の生徒たちの視線に対して、何の反応も示していない。あたかも、この場所に存在しないかのような。そんな印象を与えていた。
「お前たち、好きにしろ」と、教員は疲れた表情で言った。「どうせこの棟は、規律がうるさくない。貴族として恥ずかしくない程度に行動していればいい」
教員が去ると、生徒たちは再度席に着いた。
ヤコブは、誰かに話しかけられるのを待つ姿勢を示していた。分家出身であっても、ノーヴェル家の名前は重い。この棟の生徒たちの多くは、彼に接近しようとするだろう。政治的な繋がりを求めて。新帝国派への接近を望んで。
だが、レインは異なっていた。
彼は教室の隅の席に着くと、何もしなかった。何も言わず。何も考えずに見えた。ただ、窓の外の蒸気灯の光を眺めているだけだ。
その時、ヤコブが彼に話しかけた。
「ルゼイア家とは、初めての接触だな。分家同士だからか、うちの本家からは何の指示もなかった」彼の声は丁寧だが、どこか不信感を含んでいた。「お前の家は、新帝国派か、それとも旧帝国派か。どちらに転ぶつもりなんだ」
レインは、その問いに応答しなかった。
彼の灰色の瞳だけが、わずかに動いた。ヤコブを認識した。だが、言葉は発しなかった。その沈黙の中に、何かを秘めているかのような。あるいは、秘めるべき何かがないかのような。
その棟の奥では、別の教員が書類を整理していた。彼の手には、上層部からの指令書がある。その内容は、簡潔だ。
「貴族棟にはアイリス家の嫡子を配置。彼の動向を監視すること。中位棟にはノーヴェル家とルゼイア家の分家を配置。彼らの動向も監視すること。帝国の分裂が目に見える形で始まっている。各棟での軍事衝突を想定し、対応せよ」
帝軍校は、帝国の縮図だった。
実習の場であると同時に、政治的な闘争の場でもある。上流四家の子息たちが一堂に集まり、それぞれの家の野心を剣と魔法で表現する。表向きは「教育」だが、その実態は「準戦争」に等しい。
そして今、新たなプレイヤーが加わった。
アイリス家の嫡子。完全無欠な天才。時の魔法を操る者。彼が帝軍校に入学することで、微妙な均衡が大きく傾き始めるだろう。ノーヴェル家とルゼイア家は、この脅威に対して、どう対応するのか。そして、カストリア家は。
帝国の分裂は、もはや政治の領域だけに留まらない。




