最初の依頼、最初の死
夜明け前の冷たい空気が、肺を刺す。
俺はグレイさんから渡された、古びた鉄の鍵を握りしめていた。自警団の詰め所の裏手にある、忘れられたような武具庫。その重い木製の扉と、錆びついた錠前が、俺の新しい仕事場だった。
鍵を差し込み、力を込めて回す。ぎ、と嫌な音を立てて錠が外れた。扉を押し開けると、かびと埃、そして古い鉄の匂いが混じり合った空気が、夜の闇に流れ出した。中には、壊れた槍の穂先や、へこんだ盾、革のベルトが腐り落ちた鎧の残骸が、小山のように積まれている。
絶望するには、十分すぎる光景だ。
だが、俺の胸にあったのは、不思議なほどの静けさだった。
『ここから始める』
「アキラー! 大丈夫ー?」
背後から、息を切らしたリリィの声がした。振り返ると、彼女が両手にほうきと雑巾を抱えて立っていた。その姿が、この薄暗い場所でやけに明るく見える。
「すごい……本当に工房みたいになるところなの?」
「……なるように、する」
「よーっし! じゃあ、まずは片付けだね!」
彼女は自分のことのように腕まくりをすると、ためらいなく埃まみれの武具庫へと足を踏み入れた。
二人で黙々と作業を続けた。使えるもの、ただの鉄屑、そしてどうしようもないゴミ。それらを仕分ける地道な作業だ。
窓から差し込む朝日が、舞い上がる埃をきらきらと照らし出す頃、リリィがふと手を止めた。
「ねえ、アキラ。これからどうするの? お金とか、生活とか……」
その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。工房を追われた俺には、なけなしの銅貨が数枚あるだけだ。
俺は、使えるかもしれないと脇に置いた古いバックルを手に取った。その冷たい感触を確かめながら答える。
「まず、実績を作る」
「実績?」
「グレイさんとの約束を果たす。それが最初だ」
金は後からついてくる。いや、こなければ、その時に考えればいい。今は、与えられたこの場所と、信頼に応えることだけが重要だった。俺の言葉に、リリィは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「そっか。アキラらしいや」
その笑顔に、少しだけ救われた気がした。
昼過ぎ、粗方の片付けが終わった武具庫に、グレイさんが姿を現した。彼は腕を組み、以前よりは随分と広くなった空間を見渡して、短く「ふむ」と唸った。
「早速だが、最初の依頼だ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこには、都市の簡易な地図と、いくつかのルートが書き込まれていた。
「特に危険な巡回ルートを担当する部隊がいる。問題は二つ」
グレイさんは、地図上の一角を指でなぞる。そこは、リリィが以前話してくれた、新人冒険者がよく足を滑らせるという湿地帯の近くだった。
「一つは、雨上がりのぬかるみだ。転倒して動けなくなったところを襲われ、命を落とす者が後を絶たない。もう一つは、この旧市街の入り組んだ路地。不意打ちに対応するには、今の標準装備は重すぎる」
ぬかるみでの転倒防止。狭い路地での軽量な防具。
それは、俺がずっと考えてきた『安全』そのものだった。
「……やります」
俺は、挑戦を受けることを即答した。
開発は難航した。
使える道具は、廃材の中から見つけ出した歪んだ金槌と、錆びたタガネくらいしかない。何より、工房を追い出されてからの数日間、まともに眠れていない。蓄積した疲労が、思考の精度を鈍らせていた。
試作した滑り止めの鋲は、ぬかるみを模した泥の上で簡単に機能を失った。軽量化を目指したプロテクターは、叩きつけるとあっさりひび割れた。
失敗の山を前に、膝から崩れ落ちそうになる。
その時、指先が硬い木製の柄に触れた。親方から渡された、あの小さな金槌。
そっと手に取ると、ずしりとした重みが掌に伝わる。長年使い込まれて滑らかになった柄は、まるで俺の手に吸い付くかのようだ。
これを握っていた親方の、怒声と背中を思い出す。追放された悔しさがこみ上げる。だが、それだけではなかった。この金槌で、俺は鉄の扱い方を叩き込まれたのだ。その事実が、複雑な熱となって胸の奥に灯った。
俺は立ち上がり、もう一度、廃材の山に向き合った。
数日後。俺は自警団の訓練場に立っていた。
グレイさんが見守る中、俺は自ら試作品を全身に装備していた。足には改良した滑り止め。胴と肩には、革屑と葦を樹脂で固めた複合素材『リジッド・ウィーブ』で作った軽量プロテクター。
訓練場の一角には、依頼内容を再現したぬかるみが作られている。
「……行きます」
覚悟を決め、一歩踏み出した。二歩、三歩。滑り止めの感触は悪くない。
だが、四歩目。
想定していたよりも深く足が沈み、バランスが崩れた。まずい、と思った時にはもう遅い。身体が予期せぬ角度で傾き、視界がぐるりと回転する。受け身は、取れない。
後頭部に、硬い石畳の感触。
ごつり、という鈍い音と、脳が揺れる衝撃。そこで、俺の意識は途切れた。
息が、喉に詰まる。
はっと目を開けると、そこは埃っぽい武具庫の天井だった。
「……っ、は……」
全身が、死の記憶に支配されていた。後頭部に残る鈍い痛み。手足が自分の意思とは無関係に、がくがくと震える。
「アキラ!?」
そばにいたリリィが、俺の顔を覗き込む。彼女の顔が、心配で歪んでいた。
大丈夫だ、と言おうとしたが、声にならない。俺は震える掌を、ただじっと見つめた。
設計に、致命的な欠陥があった。転倒時の衝撃は、直線的なものだけではない。回転が加わった場合、今の構造では衝撃を逃がしきれない。その事実を、俺は自らの死をもって理解した。
震えを、意志の力で無理やりねじ伏せる。
俺はゆっくりと身体を起こし、心配そうなリリィの視線を受け止めながら、静かに告げた。
「……改良点が見えた」
その声は自分でも驚くほど落ち着いていた。リリィが息をのむのが分かった。
俺はすぐさま羊皮紙を広げ、失敗の記憶という名の設計図を元に、構造を修正していく。迷いは、一切なかった。
再び、訓練場。
今度は、グレイさんだけでなく、依頼主である部隊の自警団員たちも、遠巻きにこちらを見ている。彼らの視線には、期待よりも疑いの色が濃い。
俺は、改良した装備を身につけ、全く同じぬかるみの前に立った。
一度死んだ場所。
背中に冷たい汗が流れる。だが、足は震えていなかった。
俺は、あの日と寸分違わぬ軌道を描くように、ぬかるみへと踏み出した。一歩、二歩、三歩。
そして、運命の四歩目。
再び足が沈み、身体が大きく傾く。見守る団員たちから、短い悲鳴が上がった。
しかし、今回は違った。
プロテクターの内側に仕込んだ、わずかに角度をつけた緩衝材の層が、回転の力を受け流し、衝撃を背中全体へと分散させていくのが分かった。後頭部が地面に叩きつけられる寸前、首周りの防具がしなり、衝撃を吸収する。
鈍い音はしたが、痛みはない。
俺は、ぬかるみの中に仰向けに倒れたまま、ゆっくりと目を開けた。
訓練場が、水を打ったように静まり返っている。やがて、誰かが「おぉ……」と感嘆の声を漏らした。それがきっかけになったように、驚きと称賛のざわめきが広がっていく。
立ち上がると、グレイさんが俺のそばに歩み寄ってきた。その無骨な顔に、満足げな光が宿っている。
「合格だ。これを、部隊の人数分、頼めるか」
その言葉が、俺の新たな工房の、最初の仕事の始まりを告げていた。
武具庫に戻り、安堵のため息をついていると、不意に入り口の方から遠慮がちな声がした。
見ると、見覚えのある新人冒険者の少年たちが、数人でおずおずとこちらを覗いている。
「あの……」
一人が意を決したように、一歩前に進み出た。
「俺たちの装備も、作ってもらえませんか?」
その目には、切実な光が宿っていた。
俺の『安全工房』が、この街で静かに動き始めた瞬間だった。




